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岡部伊佐子のエッセー 3編



わたしの記念品

岡部伊佐子

 毎日何気なく使っているこの果物ナイフ。戦争末期の四月二十日。その半年前に単身新京(旧)に赴任していた主人が、家族五人を呼びに戻り、足元から鳥がたつように京都を発った時の小道具の一つ。その時の手廻りの中に入れていたのだ。

 新京着後一週間目に夫は現地応召になり、終戦真近に突然出征軍人の遺家族はは直ぐに新京駅に集結せよと、通達された。一時的な疎開とのことで、二日分の弁当と毛布一枚、わずかばかりの着類とこのナイフをリュックに入れた。

 無蓋貨車に荷物同様に積み込まれ、訳わからぬまま連れて行かれたのが、北鮮の宣川という所。ここに降り立った時、日本の敗戦を知らされた。捕虜・難民として日々異常な生活の中を引揚げるまで持ち歩いたこのナイフは護身用としても手離すわけにはゆかなかったのだ。刃物が見つかると銃殺される、但し先端をつぶしてしまえばよいとかで、へし曲げたのだ。

 二十一年の歳月は過去を忘却の彼方に押しやってしまったかのようだが、改めてナイフを見つめる時、想い出の糸は次々とたぐりよせられる。無蓋貨車がトンネルを通過する時のあの窒息しそうな苦しさ。幼い者たちの泣き叫ぶ声が耳に蘇るようだ。又雨が降れば貨車に水が溜まり、リュックに腰かけて布を両手でさし上げても直ぐにとっぶりと水を吸い、ボタボタと雨が上半身まで濡らす情けなさ。あの時子供が死んだ。そうだあの毛布も、流浪中身につけていたモンペも未だにしまい込んでいる。

 それに今一つ主人の大学の成績表。何も彼も検閲を受けた時、八路軍の将校がみつけて「私も京都帝大を卒業した」と日本語で感慨深く主人のこと子供のことを話しかけた。下級兵士がドサクサまぎれに大切な毛布やめがねを没収しようとした時、私は将校を意識して強い態度で拒否したものだった。

 記憶は泉のように湧きあがる。悪夢ではないのだ。ベトナムの現状を思う時、うかうかと戦争を忘れてはイケないのだ。私達は世界中の何人にも、いまわしい戦争の体験をさせてはいけないのだ。今こそ、平和問題をもっと真剣に考えなければ、と今更のようにおもう。  

  (1966年頃執筆、掲載紙不詳ながら、おそらく朝日新聞「ひととき」欄に掲出)


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「死」とは

岡部伊佐子

 「死の瞬間などあらかじめ考えられるものではない」とは思うものの、余命を考える年齢になると、時として考えて、考えぬくことがある。

 自分なりの結論は仲々つかぬまま、今のところ、心は迷いばかりして、人の最後は孤独なものだと観念している。

 死は病死、自殺とも、ほとんど無自覚のうちに人を襲うもので、その瞬間には精神や身体が極度に衰弱して生の意識がうすれ果てて消えるもの、しかし死んだらどこへ行くのか?、この点が全く分からない。死後の世界があるようにも思うし、霊と云うものあるように思うが、肉体は物質でしかない。死ねば灰になって、さっぱりとこの世からなくなる、それなら自分の体を献体したいとも考える。幸いにしてうんと長生きして枯木のようにも、医学生の実験材料になればと、この頃しきりに考えているが、未だハッキリしない。

 しかし、死後の世界ってあるのか、ないのかさっぱり分からぬまま、霊はどこへ行くのか、不安でもある。

 結婚した時は暗いファッシズムに打ちひしがれ、戦後、引揚げと、女盛りを無為に過ごし、ようやく訪れた平和な生活なのに、遠からずこの世から消えることは残念で寂しくてならない。

 ここまで発展した文化がこの先どうなってゆくのか。果てしない人智の行方に興味津々なのだ。テレビのおかげで、体が不自由になっても、居ながら音楽や芝居、地方のことや外国の風物も観ることができるありがたさ、好奇心の強さが、この世の未練につながり、執着するのが、死をおそれる気持ちなのか知ら?

 若い頃から幾度も安易に死の誘惑に駆られたのに。なんとこの頃の自分は幸せなのだろうと。心残りなのは、二十一世紀に会えそうにないことなのである。

(1995年頃執筆、掲出紙不祥)


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新聞広告とわたし

岡部伊佐子

 私の家では、日刊新聞は朝日、毎日、日経、京都新聞をとっているので、一通り目を通すだけで、大仕事である。僅かのひるまにパット拾い読みするのだが、こんな時新聞紙一ページ大のや半分、三分の一のスペースを贅沢に使っていろいろと趣向を凝らした広告がめにとまり、記事よりも広告に目をうばわれることが少なくない。

 印刷技術の進歩や広告を創る専門家のせいであろうか。新聞の印刷として限られた色を上手に使いサラット優美に表現されている化粧品、時計、衣料品などの広告にお目にかかったり、写真入りで出ている我々庶民にとっては全く関係のなさそうな航空機、毎日のように進歩する機械、さては鉄鋼、土建工具、建材に至るまでの広告に接する時、近代企業の素晴らしさ、世の中のさまざまな面を知らされて、世間知らずの私のようなものにとってはインスタント社会見学のような気分になって眺めるわけである。

 身近な家庭電化器具、くすり、食料品などの新製品、これらの値段を知らされたりもする。昔からきまって下段に掲載される書籍の広告、現在の私には縁がないような気持ちで一応目を通す。家事に追われ、テレビのせいも多分にあって読書を忘れてしまったような明けくれながら、これでよいとは思っていないので、こんな書籍が発行されたのかと知るだけでもやはり得るところはある。驚くほどたくさん発行されている週刊誌はとても読めないとあきらめ、目次にセンセーショナルな見出しをつけた大きな広告だけ読んで週刊誌を一通り読んだような気持にさせて貰っている。こんな風に私にとって広告は生活の手引きであり、ニュースとも考えられ、新聞の興味ある小説その他の記事とはまた別の愛着をおぼえる。

 自分にはあまり縁がないので、ほとんど見ないのは「案内広告」だが、近頃は求人難を物語るかのように求人広告がギッシリ詰まっていて大会社まで大いに利用している。又、土地家屋の広告も多い。他の広告でも一流新聞ではいかがわしいものは取り扱わないようだが、弱小新聞の広告欄は信用のおけないのが、掲載されるらしい。こう云うのに引かかった被害者のことが問題になったことは度々聞かされる。大新聞といえども数の多いことをいちいち調査するわけにはゆかないだろう。

 実は、私は案内広告を出してひどい目に合った経験がある。大分前のことだが、家を立ちのく判を押してしまったのに全く当てもなくほとほと困っていた折、貸家を求む広告を出したところ、たった一度出したのに数人の方から貸家委細面談のハガキっを受け取った。その時初めて新聞広告の威力を知らされたのだった。早速ハガキの主の家を探しながら全部廻ったわけだが、結果はそのころの世相を如実に見せられただけに終わった。結局年末金繰りに必死の人々のいい「鴨」にされたようなていのものが大部分であった。

 その一つは、貸すというその家には畳も建具もなく、本当の家主は大阪に居るとかで、三人の「借家人」が仲良くそこに待ち受けていた。要するに、「又貸し」した者、された者が馴れ合いで、今一度又貸しして権利金を分け合う魂胆が話をしている内に吞み込めた。頭の弱い主婦が上手にだまされかけたような恰好であったのでので、逃げて帰ったようなわけであった。

 実に便利なこの種広告がよりよく利用されたらと思わずには居られない。庶民にとって真実便利なっものとして気軽にたのしく利用出来るようになれば、新聞と大衆との結びつきはもっと得られるように思う。商業広告にしても、大衆の為のものである思えば、広告主の勝手はゆるされない、と同時に消費者である我々の意識の向上が先決問題のようだ。今後ますます正しいよき広告を望むと共に、派手な広告にまどわせられぬよう賢く受け止めるよう心がけるべきだと思う。

 しかし、新聞の広告にはいろいろと注文もある。大して実害はないのだが、一見広告らしくなく記事のように思い、大部分を読んでしまってから広告と気付いた時は何ともイヤな気分である。広告なら、広告としての興味で見たり読んだりさせられるのが本すじではなかろうか。記事を読むのとは性格が違うように思われる。近頃は一流新聞の場合、「PR版」とハッキリさせて決まった曜日にのみ出るが、以前は度々おやおやと気分を悪くした覚えがある。

 次に、広告のメカニズムについては、さっぱり分からないながら、とてつもない高額の広告費のことを考えると消費者の立場としてうかつには見ておれないように思う。必需品であるくすり、化粧品、食品など我々はその広告費を受け持たされているような気がする。広告費を価額引下げに向けたり、品質向上に向けたらよいのではないか。これが一般庶民の考えである。

(1965年頃執筆、掲出紙不祥)

























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