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竹を割ったような実直な人~熊谷一弥さんを偲ぶ 岡部陽二

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 熊谷一弥さんが昨年二月に九十八歳でお亡くなりになりました。天寿を全うされた静かなお別れでした。生前のご厚誼に感謝し、私事の記憶を辿って思いつくままを、ご披露させていただきます。

 熊谷さんとの最初の出会いは、東京外国部次長で国際関係のMOF担を務めておられていました一九六〇年代に遡ります。当時は外為取扱店の増設や海外拠点の展開など何事も大蔵省の事前了解を取りつけないとことが進まない時代でした。ところが、住友銀行の本店機能は大阪にあり、当局との折衝窓口を東京に置いていたのです。大阪の外国部で外為業務の企画を担当しておりました若造の私が考えた当局への申請書案を「こんなものはダメ」と突き返すのではなく「こうすれば通るよ」と明晰な頭脳で親切に指導していただいた大先輩の実直さに感激したことを今でも覚えています。

 次は、一九六七年に加州住友銀行ロサンゼルス支店長として赴任され、当時は毎月のように進出してくるトヨタなどの日系企業と地場の大企業取引開拓に外国課長の私を引っ張り回していただき、業容が一挙に拡大した記憶です。からっとしたご性格がお客様の気に入られ、その成果に繋がったものです。

 お客様や仲間との飲み会などにも、熊谷さんご自身は一滴もお酒を召し上がらないにもかかわらず、喜んで参加され、場を和やかにする努力を惜しまれませんでした。このご努力はその後も一貫して生涯ずっと続けられ、気さくでさばさばしたご性格は誰からも愛されていました。

 エール・フランスのスチュワデスをしておられた美貌の奥様とは晩婚で、ロサンゼルスでは、両家の子供たちが同年令であったため、家族ぐるみのお付き合いをさせていただき、公私ともお世話になりました。

 その次は、一九七一年にブラジル住友銀行の頭取に就任された時でした。この銀行は日系移民を基盤とする中小銀行を一九五八年に買収したものでしたが、熊谷さんはブラジル経済の将来性は明るいので、地場企業金融や投資銀行業務にも今のうちに手を付けておくべきではないかと将来計画の提言をされ、この可否について検討するための調査スタッフの派遣を本店に要請されました。その結果、私を団長とするスタッフ四名での「ブラジル調査団」が丸一カ月かけてブラジル全土を駆け巡り、投資銀行業務への進出などの提案を行いました。熊谷さんのお陰でまたとない機会を作っていただき、感謝しております。

 一九八四年には、ニューヨーク駐在を終えて、国際総本部長として、国際業務全般を統括され、私はロンドン支店長としてお仕えしました。一九八六年、住友銀行はゴールドマン・サックスに一二・五%の資本参加を行い、これが投資銀行業務進出への足掛かりとなっただけでなく、一五年後の売却時は巨額の利益をもたらしました。当時、熊谷副頭取は、この大プロジェクトの実現へ向けて小松康頭取を強力に支えられていたのが強く印象に残っております。

 熊谷さんのお考えは、常に大先輩の高橋忠介さんの謦咳に接して叩き込まれた真っ当でオーソドックスなもので、私情を排した裏表のない正論でした。

 一九八七年にご退任後は、明光証券の会長にご就任されました。同年には同社ロンドン現法を発足させるなど国際化に注力され、八九年には銀行系証券子会社としては異例であった東京証券取引所上場を果たされました。上場後の株価も順調に値上がりし、上場の成功を心底喜んでおられました。

 一九九一年に同社退職後は大手町建物の社長・会長などを引き受けながら、晴耕雨読で、SF小説などを原書で楽しんでおられました。

 ゴルフでのお付き合いは長く、ロサンゼルス勤務時代から何十回とご一緒しましたが、帰国後は中津川カントリクラブで熊谷さんを中心とする「中津川インターナショナル・クラブ(NIC)」が二〇〇二年に立ち上げられ、毎月例会が行われておりました。私も、この会に誘っていただき、発足二年後に入会、二〇一四年に八十七歳でお辞めになるまでほとんど毎月コンペでご一緒しておりました。この間に熊谷さんは五回優勝されていますが、晩年には毎回私とブビー賞を争う好敵手で、私を一打でも上回ればご満悦でした。

     国際化ともに夢見し雪の原   陽二

  熊谷一弥さん、どうか安らかにお眠りください。

(2026年1月発行、旧住友銀行OB会誌「銀泉」171号p111所収)

「銀泉」誌の「追悼・熊谷一弥さんを偲ぶ」pdfはここをクリックしてください。


















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