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終活二題 岡部陽二

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 七巡目の戌歳を迎え、いよいよ「終活」に励まねばと決意を新たにしております。ベートーベンの交響曲第九番(いわゆる第九『合唱』)に例えれば、第四楽章の「歓喜の歌」に差し掛かった辺りということでしょうか。

 少なくとも、生きている間にできることを片付けておくことは、これからの残された人生をどう生きるのかを考えるに当たっても大事です。

1、鉱物コレクションの寄贈

 そこで、まず手を付けたのは、中学生の頃から断続的ながら、南アフリカやブラジルにまで足を伸ばして集め続けてきた鉱物標本の処理でした。これらの四百五十点ほどの鉱物や化石の標本は自宅のガレージを改造して陳列していましたが、時を経るに従って、ラべルの文字も掠れて見えなくなってきていました。

 趣味の収集品でも、絵画や陶器などは売却もできますが、鉱物標本を引取って貰える好事家はまず見当りません。子供たちも相続はしないと宣言していますので、要するにマイナスの価値しかなく、下手をすれば捨てられる運命にあります。

 幸い同好の趣味の繋がりで、二十年前に鉱物博物館の開設に協力をして親しくしておりました「鉱研ミュージアム・地球の宝石箱」に、標本のすべてを一昨年に喜んで引取って頂くことができ、一安心したところです。

 このミュージアムは、民間企業の鉱研工業㈱が設立した、世界でも珍しい鉱物や化石の巨大標本の展示を中心に地球を科学する学習目的の博物館です。長野県の真ん中たり、塩尻市と岡谷市の境にある塩嶺カントリー・クラブに隣接の「いこいの森公園」の中に建っております。昨年八月には同館の開設二十周年記念行事の一環として「岡部陽二鉱物コレクション」の特別展示が催されました。

 諏訪湖方面にお出掛けの序には、ぜひお立ち寄りいただきたい見どころです。

2、自分史の執筆

 昨年八月に「一満州難民の体験記」と題しました小学校五・六年生のころの経験録を日本工業倶楽部の会報に寄稿しました。

 このエッセーの執筆を思い立ちました動機は、同倶楽部で行われた講演会で元時事通信記者で日銀副総裁に就かれた藤原作弥氏から、旧満州・安東市での一年間にわたる難民生活の経験が、その後の生き方に大きく影響したという趣旨のお話を拝聴したことにありました。

 お話を伺って、奇しくも同氏と同じ期間、同じ安東に、私も住んでいたことが判明したのです。ところが、同氏より三歳年長であったにもかかわりませず、私の記憶はきわめて希薄でした。また、関係者は物故されていて、当時の状況を確認することも叶わず、参考となるような物証もないので、執筆に苦労しました。

 藤原氏は『満州、少国民の戦記』という詳細な回想記を出版されておられますので、私も短いエッセーくらいは纏められるのではなかろうかと思い立ったものの、微かな記憶が頼りでは覚束なく、両親や当時お世話になった方々が存命中にいろいろ聞いておけばよかったと後悔すること頻りでした。

 さらに驚いたのは、このエッセーを読んだ子供たちは誰一人、父親がこのような経験をした事実そのものを全く知らず、初耳であったということです。そういえば、小学生の頃のことを子供たちに話したことはなかったのです。

 この反省を踏まえまして、満州時代のことだけではなく、生涯に亙っての自分史を纏めておこうかと、思い立った次第です。

 銀行時代にはものを書く習慣はなかったのですが、退職後にぼつぼつ書き始め、二十年前には「岡部陽二のホームページ」を立ち上げまして、すでに五百編以上を収載しております。

 自分史はこの空白を埋める形で作成し、年内に三十回くらいの連載として、紙媒体での刊行ではなく、インターネット上での公開を主とする計画を立てているところです。さらに、このホームページを没後三十年はそのままネット上にキープして貰える方策を模索中です。

 https://www.y-okabe.org/を覗いいただければ、幸いです。

(2018年1月発行、銀泉㈱社内報編集室「銀泉」155号、p53~54所収)

終活二題・銀泉誌のPDFを見る









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