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22 再び鉱物収集──原石に魅了され南米、アフリカへ


 先にも書いたように出張に明け暮れていたロンドン駐在時代には、接待やパーティーも極めて多かった。

 日本はバブルの時代。国際金融業務だけでなく、英国のゴルフ場を買収したいなどの依頼も多かった。そうした顧客だけでなく、お役人や政治家、資産家などさまざまな人がロンドンへやって来られた。

 一日に数件の接待が重なることも多く、パーティーが一日に三件ということもザラ。接待費や交際費には困らなかったが、体力が続くかが心配であった。

 私の出張中は、家内に接待役を押し付けることもしばしばであった。なかには、バーバリーの英国にしかない柄物を買いたいとか、ロンドンに来てまで「焼酎が飲みたい」とか「梅干しが食べたい」というお客もあって、家内の手を煩わせた。

 国内支店長の研修など「身内」のお世話をするケースも増え、海外支店長たちが集まる会議では、接待の多さに対する不満の声が相次いだ。

 だが、私は「接待は相手が本当に喜ぶように徹底的にやれ」と、部下を指導もした。何事も一生懸命やれば、得ることも多いというのが私の考えであった。接待の場では、国内にいては到底知り得ないバブル狂騒の実態を知ることもできた。

 出張と接待に明け暮れる忙しいなかで、私の気分を救ってくれたのが鉱物収集である。鉱物収集に関しては、「7 中高生時代──鉱物に出会う」の項でも記述したように、京都薬科大学教授の益富壽之助先生が主催する「日本鉱物趣味の会」に参加したのが始まりであった。

 ただ、社会人になってからは採集に出掛ける時間的余裕もなく、コレクションの一部を手元に残していただけで、石の世界からは遠ざかっていた。

 ところが、相次ぐ出張でスイスやフランスなど欧州各地を訪れると、チューリッヒやパリといった大都会だけでなく片田舎の小さな町でも「ミネラル・ショップ」とか、「ネイチャー・ショップ」とかの看板を掲げて、きれいな鉱物や化石類を売っている趣味の店が多いことに気付いた。そのうち、暇をみつけて、こうした石の専門店を探しては、少しずつ買い集めた。

 ついには休暇を取って、原石を求めてブラジルや南アフリカにまで足を延ばすようになった。その甲斐もあって、数年で五百種余りの立派な鉱物コレクションを作り上げることができた。

 石を求めて頻繁に出掛けたのは、ロンドンから日帰りのドライブで行ける、ドーバー海峡に面したドーセット海岸のライム・レジス(Lyme Regis)であった。この町には、地元で採れるアンモナイトの化石に加え、輸入鉱物を商う店が数軒あり、休日にはよく訪ねた。

 欧州で最も強く印象に残っているのは、ドイツのイダール・オーベルシュタインである。ここは、フランクフルトの西方ルクセンブルクとの国境に程近い人口約五千人の小さな町で、昔はメノウなどを産出していた。現在は、この谷間の町が世界中から原石を買い集めて、装飾品などに加工して再輸出する生産基地になっている。立派な鉱物博物館を中心に、珍しい貴石の置物や原石を所狭しと並べている土産物店が軒を連ね、その様は、町全体が石の加工工場とも言えるほどで、一日中見て回っても飽きなかった。

 宝石のパラダイスといわれるリオデジャネイロも興味深かった。ここでは、世界一の宝石商といわれるジュリオ・サワー氏と会うことができた。「生き物は必ず死に絶えるが、石は地球の続く限り存在し、変わることがない」というのが、サワー氏の信条。素晴らしい原石をコレクションとして、そのまま保存しており、自宅に招かれて門外不出のエメラルドやルビーの見事な原石を見せてもらい、大いに感激した。

 地球上に存在する鉱物の種類は細分してもせいぜい四千種、図鑑に載っているのは三百種程度。ただ、同一種であっても形や色合いは人間の顔形同様に全部違っており、「石にも顔がある」と信じている。

 話は飛ぶが、二〇一七年(平成二十九年)八月、長野県塩尻市にある鉱物博物館「ミュージアム鉱研 地球の宝石箱」で、私が収集した鉱物を展示した「岡部陽二コレクション」が公開された。私の傘寿(八十歳)を機に終活の手始めとして、同博物館に寄贈した約五百点の標本特別展示である。それまでの十年ほどは管理できなくなって埃をかぶっていただけに、安住の地を提供して頂いたこの博物館に感謝している。

 この博物館と私とのつながりは、二十年以上前に遡る。鉱研工業の株式公開に関与された山一証券の三橋正則氏から「同社に素晴らしい鉱物標本が多数あるので、見せてもらいましょう」というお誘いがあり、一九九六年(平成八年)の春に同社諏訪工場を訪ねたのが始まりであった。

 工場の周辺には同社がボーリング工事を手掛けた南米やアフリカなど世界各地から集められた巨大な標本が所狭しと積み上げられており、多くの鉱物標本を見慣れた私もその規模の大きさに目を見張り、その素晴らしさに感嘆するばかりであった。ところが、開設準備委員長の加藤信一氏(初代博物館長)はじめスタッフの方々から、鉱物博物館のあり方についての質問が矢継ぎ早に寄せられ、主客が転倒したのには驚いた。

 それは、その前年の一九九五年(平成七年)十一月二十一日付の日本経済新聞文化欄に私が寄稿した「〝地球の滴〟神秘さ永遠に~鉱物収集の趣味の輪、日本でも広がる」をご覧頂き、世界の鉱物博物館を回ってきた私から何らかのヒントを得たいという熱意であった。


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 私が申し上げた感想の大きなポイントは、同社で蒐集された巨大標本は際立って立派なものであるものの、博物館と称するからにはあらゆる種類の鉱物を系統的に展示すべきではなかろうか、という点であった。

 その解決策として、当時、東北大学に眠っていた「南部コレクション」を譲リ受けてはと提案した。それは、その半年前に次男の徹が東北大学素材工学研究所(現・多元物質科学研究所)に赴任、この有名な南部コレクションの管理を任されており、物好きの私はすぐに見に行って、このように整った国産鉱物の標本群が死蔵されているのはもったいないと痛感していたからである。

 東北大学の資産は国有財産であるため、民間への譲渡は難しいのではと懸念したが、鉱研工業の素早い対処によりとんとん拍子で話がまとまった。コレクターの南部松夫博士と当時の江口工鉱研工業社長のお二人の間を私が仲介する形で、ミュージアム鉱研が約千点の学術鉱物標本を一括無償で譲り受けることができたのである。

 私のささやかな鉱物コレクションもいずれはこの博物館に収めて頂きたいものと、この時すでに密かに心に決めていた。ただ、当時は自宅の車庫を展示スペースに改造したばかりであり、寄贈のタイミングを見計らっていたのである。


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 話のついでにゴルフや囲碁の趣味と健康法にも触れたい。ゴルフは二十八歳で始めたものの、一向に上達せず、ゴルフ下手で通ってきた。ただ、七十歳後半ともなると、高校・大学や銀行での同期は皆辞めてしまい、最近はもっぱら数歳下の同僚とプレーしているが、彼らの腕も落ちてきたので技量の差はだいぶ縮まってきた。

 こうしたなかで、二〇一六年(平成二十八年)一月十七日に、神奈川県厚木市の中津川カントリークラブで、八十二歳にして生まれて初めてのホールインワンを達成した。住友銀行OBによる「第二二四回親芝会ゴルフコンペ」でのことである。


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 もう一つ、好スコアで記憶に残っているのは、一九八四年(昭和五十九年)にゴルフ発祥の地、セントアンドルーズのオールドコースで行なわれた邦銀のロンドン支店長の集まりである「火曜会」で、珍しく百を切って優勝者と同ネットの好成績を収めた快挙である。

 室内競技では、銀行時代はもっぱら麻雀にのめり込んでいたが、ロンドン勤務の後半に日本人会の囲碁クラブに参加して囲碁の勉強も始めた。帰国後は、帝国ホテルにあった杉内寿子先生の会や日本工業倶楽部の中山薫先生の会などに参加してヘボ碁を楽しんでいる。二〇一二年(平成二十四年)十二月には日本棋院から囲碁五段の免状を頂いたが、実力は二~三段といったところである。


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 趣味ではないが、健康法にも触れておきたい。四十代から五十歳にかけては、腰痛に悩まされ、歩行に困難をきたしたこともあった。この克服法として、ロンドン在勤時に友人の勧めで真向(まっ こう)法を始め、帰国後も一貫して毎日続けている。二〇一六年(平成二十八年)には真向法協会から七段の免状を頂いた。この段位は一段昇段するのに、最低三年間継続して実践していることが求められるので、間違いなく二十年以上続けていることになる。

 この年の十月には所属しているスポーツクラブ主催のメガロスマスターズ水泳大会で平泳ぎとリレーそれぞれ二種目ずつに出場し、金メダル二個と銀メダル一個を獲得した。八十歳超のクラスでの参加者は数人と少なく、リレーは組成できれば入賞できたからである。プールへは七十七歳から継続的に通うようになったが、その効は顕著であった。肩甲骨が鍛えられ、胸囲が一二%も大きくなったのには驚いている。


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