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17 国際金融部──M&Aとオイルマネー


 中南米投融資調査団から帰国して一カ月余りが経過した一九七三年(昭和四十八年)四月二日、新設の国際金融部へ次長として異動した。

 この部の主要な業務は、国際シンジケートローン(協調融資)と船舶金融の二つに加え、証券関連業務の推進とM&A(企業の合併・買収)などの新しい国際的なサービス開発という四つの班から成り立っていた。

 シンジケートローンは、世界中から資金を集めて国や大企業に融資するもので、出張の多い部署であった。船舶金融は、日本輸出入銀行の融資案件の一部を民間銀行が補完する形で貸し出すもので、その後の「プロジェクトファイナンス」の萌芽となるものであった。香港船主向けがほとんどを占め、利幅の大きな案件が多かった。

 一方、M&Aは、当時としては画期的な取り組みであった。証券会社が手掛け始めており、顧客の日本企業も海外での企業買収案件を求めるようになっていた。

 ところが、M&Aの仲介手数料を計上する勘定科目が、当時の銀行会計にはなかった。そのうえ、大蔵省銀行局は「銀行の本来の業務ではない」との見解で、なかなか銀行の本格的な業務として認可してくれなかった。このため、銀行側は表向きは手数料を取らず、仲介は企業への無償サービスという形にしていた。手数料部分は預貸金金利の調整などで回収する「潜り業務」的な状態になっていた。

 そんな折、住友銀行が一九七二年(昭和四十七年)十月に資本参加した多国籍銀行SFE(ソシエテ・フィナンシエール・ヨーロピエンヌ)から、スペインの電機メーカー、リアー・シグラー社が売りに出ているという話が持ち込まれた。ちょうどスペイン進出を計画していた松下電器産業(現・パナソニック)に持ち込んだところ、渡りに船とばかりに同社の買収に踏み切った。

 当時のスペインは外資の新規投資は認めていなかっただけに、松下電器もタイミングの良さに喜び、手数料をぜひ取ってほしいと言ってきた。私もM&Aを「正式にフィー・ビジネスとして確立すべきである」と強く主張、大蔵省と折衝を繰り返した結果、ようやくM&Aの仲介手数料を計上する認可を得ることができた。これが、正式な形での銀行による海外M&A案件第一号となった。

 海外市場だけに的を絞って設置された新設の国際金融部であったが、一九七四年(昭和四十九年)六月に起こった西独ヘルシュタット銀行の破綻をきっかけとするシンジケートローン市場の縮小などから、その年の十月には国際関係部の再編で国際業務部に統合され、国際金融部は一年半の短命に終わってしまった。一九七九年(昭和五十四年)に国際投融資部として復活するものの、国際金融関係業務の足腰がまだ弱い時代の証左でもあった。

 個人的にも大きな出来事があった。三鷹の武蔵野寮に住んでいたが、三人の子供たちも成長し、手狭になったため、自宅を新築する決断をした。しかし、地価が高騰し、入手できる土地となると、都心から西へ西へと離れざるを得なかった。

 ようやく一九七四年(昭和四十九年)三月に東久留米市の花小金井に土地を求め、自分で設計した希望通りの家を完成することができた。もちろん、銀行から借金をして建てた。

 二年ほど在籍した国際業務部のことにも触れておこう。この部では、一九七三年(昭和四十八年)末の第一次オイルショックの結果として発生したオイルマネーの獲得に中東各国を飛び歩いた。その端緒となったのは、一九七四年(昭和四十九年)八月にイラクの中央銀行が大量のオイルマネーを溜め込んでいるとの情報が入り、夏休みを返上してバグダッドに赴いた出張であった。

 中央銀行との交渉は比較的簡単に片付いたので、一人でタクシーに乗ってバグダッドの南方九十キロメートルのところにあるバビロンの遺跡を見学に行った。ところが、タクシーには冷房もなく、灼熱の暑さで熱射病に罹った。空港へ急ぎ、ほうほうの(てい)でベイルートの病院へたどり着いたのは忘れられない経験となった。

 これを契機に、膨大なオイルマネーを獲得するための特命チームのヘッドとして頻繁に中東への出張が重なった。中東との付き合いはその後も長く続き、南北イエメンを含む全ての中東諸国を訪ねた。

 中東には風光明媚な観光地はないが、紀元前三〇〇〇年に遡る歴史的な遺産は豊富にある。「中東の3P」と呼ばれた三大遺跡、ペルセポリス(イラン)、パルミラ(シリア)、ペトラ(ヨルダン)も訪れた。このなかで、今でも観光旅行で安全に行けるのはペトラだけとなってしまった。

 国際業務部次長、東京営業部副部長を経て、一九七六年(昭和五十一年)八月、ロンドンの住友ファイナンス・インターナショナル社長として赴任することになった。東京営業部は、わずか半年ほどの勤務であった。同部では、外国為替課と総合商社を担当した。

 こうしたさまざまな経験を積んで臨んだロンドン。住んだのは、ケンジントン公園近くのブレイマー・マンションの五階。同じマンションの通産官僚や自衛官など日本からの駐在員の方々とも親しく付き合って、大いに英国生活を楽しんだ。


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