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10 結 婚──洛北高校同窓会で出会う



 東京・四谷の日米会話学院へ国内留学する八カ月ほど前の一九五九年(昭和三十四年)二月十五日、私は京都大学楽友会館で結婚式を挙げた。相手は、京都市立葵小学校教頭の中村重太郎とよし江夫妻の次女、多賀子。

 式は無宗教の人前結婚とした。無宗教にこだわった結果、式次第の考案や誓詞の作成など結構手間がかかった。仲人は父の四高時代からの親友であった倉石精一京大教育学部教授、司会は父のお弟子さんの高寺貞雄先生にお願いした。

 婚約は大学四年の時。二年余りを経ての結婚であった。銀行に入行したての頃は大阪市東住吉区にあった古い独身寮に住んだ。立売堀支店の業務がつまらないこともあり、悶々とした生活を送っていた時期である。

 結婚を機に大阪市阿倍野区針中野の新築の公団住宅に移り住んだ。公団住宅は人気が高く抽選の結果待ちだったが、運よく当たった。妻の多賀子は、まだ同志社大学英文科の学生であった。おかげで、新婚旅行は学生割引を使うことができた。社会に出て二年目、二十四歳での結婚は、当時でも早いほうであった。

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 私と多賀子の出会いは、洛北高校の同窓会がきっかけであった。

 洛北高校の同窓会は、第一回卒業生を送り出した一九五二年(昭和二十七年)に、とりあえず発足した。翌年春に、私たち二回生が卒業。その直後に、京都一中同窓会と合体する話が持ち上がった。洛北高校の校長であった青柳秀夫先生の指示を受けて私たちが合併準備に取り組んだ。青柳先生は、東大卒のリベラルな素晴らしい発想力を持った先生であった。

 準備チームは第二回卒業生を中心に、私や高坂正堯君ら在学中に生徒会役員を務め、大学に入って比較的時間のある連中が選ばれた。急な話であったが、青柳先生の陣頭指揮の下、短期間に合併の話がまとまった。この過程で一中の大先輩からフランス料理で有名な祇園の萬養軒で豪華な食事をご馳走になった時の味は忘れられない。

 一九五三年(昭和二十八年)十一月二十三日に開催された第一回合同総会は会長に青柳先生、理事長には政治家で民社党委員長も務められた当時日本社会党府議の永末英一さんが選ばれた。

 実を言うと、京都一中と洛北高の同窓会合併には反対意見もかなりあった。その理由は、一中が閉鎖になり、洛北高がスタートするまでに二年間の空白があり、制度や教育内容も違ううえ、一中卒業生のなかには男女共学の洛北高との合体に強い抵抗感を示す人も多かったからである。

 しかし、青柳先生は、同じ校舎を使っていたこと、発足したばかりの洛北高には伝統が必要なこと、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士や朝永振一郎博士を輩出した一中のイメージを引き継ぐメリットを訴え、合体を推進された。まさに英断で、運営のほうも事務局を設置し、機関誌の発行や会員名簿の整備にも力を入れた。

 こうした同窓会の管理体制の整備を手伝うなかで、二年下の多賀子と知り合うことになった。青柳校長先生は、私たちにとってキューピッドであり、大恩人である。


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 社会人二年目で結婚はしたものの、当時の生活は大変であった。銀行の月給は手取りで一万円もなく、背広を買うのにも苦労した。当時の背広は、一着一万五千円と高価であったので、背広ローンという行内貸付制度があり、借金をして背広を購入した。

 日米会話学院の頃の話に戻りたい。新婚間もない時期ではあったが、英会話の勉強には全力で取り組んだ。その成果は半年後に現れ、卒業時には成績優秀者に与えられる「Remarkable Progress Award」を受賞した。

 英語の勉強だけでなく、この半年の間に自動車の運転免許も取得した。住まいは吉祥寺の東急百貨店裏の間借りであったが、週末には日光や箱根などへ出掛け、新婚生活を満喫できた。

 楽しい新婚生活を送ることができたが、二年後に多賀子に災難が襲う。 

 一九六一年(昭和三十六年)九月十六日に大阪を直撃した第二室戸台風である。この日、午前九時に高知県の室戸岬に上陸した大型台風は、その後も勢力は衰えず、昼過ぎに兵庫県尼崎市と西宮市の中間に再上陸した。記録によると、風速は七十メートル近くに達する暴風雨だった。この猛威に私たちが住んでいた公団住宅が破壊され、飛んできた破片が多賀子の目に入り、片目を失う大けがを蒙った。

 その日は土曜日であったが、当時は休日ではなく、私は銀行に出勤していた。多賀子はお向かいの富永さんに助けられて、天王寺の大阪市立大学病院に運び込まれ、停電中のためカンテラの下で応急手術を受けることができた。

 妊娠中の多賀子は臨月を迎えていた。過去に流産を経験しているだけに、私たちの不安は筆舌に尽くしがたいものがあった。

 翌日、当時の人事部長で、後に頭取となられた磯田一郎さんが見舞いに来られた。京大付属病院への転院をお願いすると、すぐに聞き入れてくださり、銀行社用の現金輸送車で京大病院へ移してもらえた。一週間後に、長男・琢治が無事誕生した。





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