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平成11年、故岡部イサの第二句集 『冬もみぢ』

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句集

冬 も み ぢ

 



  伊佐さんが亡くなってはや、半年がぎてしまいました。お別れの日、ご自宅の軒先まで伸びた朝顔は、十月とは言えまだまだ綺麗に咲いていました。小さいながらもそのコバルトの色は、今も私の眼に残っています。近年お側でずっとお世話なさった、次女晶子さんが、お母様に見せて差し上げようと、一生懸命育てられた花の一つでした。朝顔は期せずして、供花となってしまいました。
 
  伊佐さんと私が一諸に俳句を作るようになり、かれこれ十六、七年がたってしまいました。最初はどうも、お隣のよしみで会員の頭数になれば、と言うお気持ちからだったようです。お隣と言っても急な坂道を息も絶え絶えに、句会に来て下さいました。「七十の手習い」と申され謙遜なさっていましたが、いつしか手習いを超えたものになっていたようです。八十歳のお喜びには「三味線草」を上梓なさいました。そして今回は、遺句集となってしまいましたが、ご遺族の手でこの「冬もみぢ」が纏まりました。又春には岡部家の菩提寺「圓光寺」の境内にお心のこもった句碑
    
  日おもてに空を透かせて冬もみぢ    伊佐

が建つはこびです。
 
  「三味線草」の序文に、当時の「南風」編集長山崎秋穂先生は、「伊佐さんの短期間での俳句の勉強が以上のような句を生んだということはおどろくばかりである(中略)句業は、華美、豪華なものでもないかもわからないが、堅確に自然の美をとらえ、着実に自身の生の充実と賛歌を詠いあげるものであろう」と書いておられます。私も同感いたします。この「冬もみぢ」にもそれが見られるように思います。そして晩年多少弱られたものの俳句に打ち込んで居られたし、優しいお身内に囲まれての日々の、幸せ一杯の句も素晴らしいものと、嬉しくなります。
    
    撫子やいつも近くに吾子の声
    
遺されておぼつかなしや春の闇
    蝸牛動くともなく位置変へる
    
吉兆笹かかげ帰りし父ありき
      (今宮戎神社十日戎献詠  入選)
    煮ふくめる高野どうふや春の雪
    沢水のくだけて光る春の昼

    凍てる日も直くたつ青き木賊かな

    追憶はよきことばかり暖炉燃ゆ

    渓水や夏鶯の声ながく
 
  このような確実な自然観照の句、優しくて芯の強い句、私などまだまだ見習わなければなりません。また、なによりも感心していることは、字を書きづらくなられてからも、結社「南風」への投句を一度も休まれなかった事、まして私たちの「さわらび会」への不在投句も欠かされませんでした。手をとりお世話なさる方があっての事ですが、驚くべきことです。
 
  一乗寺の山麓に同じ頃から住み、四十数年がたちました。私たちは木々の芽吹きを共に見、鶯を耳にし、桜を一緒に愛でたことです。そして、秋には「さっき蜩聞いたでしょ」と隣から隣へ電話がかかりました。私に珍しく良い句が誌上に載った時には、共に喜んでくださいました。本当に優しい方でした。もう不在投句をおあずかりする事は無くなりました。伊佐さんが頑張っておられるのだからと、私も頑張って今日まできた次第です。亡くなる数日前まで作句なさったご様子、私たちにはとうてい真似は出来ないと思いますが、時に思い出して精進したいと思います。

ありがとう伊佐さん。

 

朝顔の紺のきはだつ別れかな    倫子

冬青き木賊残して逝きしかな     倫子

合掌

一九九九年三月
垣根越しに

小松 倫子

 

 
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冬 も み ぢ

伊佐

 

日おもてに空を透かせて冬もみぢ

人気なき墓地の大樹の紅葉せり

糠雨に洗はれ紅葉艶めきぬ

久々の雨の洗ひし紅葉かな

ものの芽の伸びし疎林や風渡る

溝走る水音高し梅雨晴れ間


あたたかき立冬の空雲うごく

黒土に触るやふれずや春の雪

やは土に花あらはるるクロッカス

暮れぎはの雪雲の隙光りけり

肩先のつめたき目覚め今朝の秋

梅雨明けの風のすき間にからす鳴く


日の匂ひ夜具にほのかや秋小寒

秋蝶のみえなくなりし空の色

水陽炎木を這ひのぼる鯉の昼

飛行雲どこまでつづく五月晴

裸木に今日もつがひの鳩並ぶ

樹に積る雪より白く鷺たてり


そろそろと鯉よみがえる雪解水

菜の花の色の明るさ墓の供華

春の雪疾風に散りて消え失せぬ

老われに眩し過ぎたる松の芯

寒うらら綿菓子のごと雲出でて

映るもの水面にゆれる今朝の秋


鈴懸けの乾ける音の落葉踏む

年古りし木賊の青し冬の雨

労はりの身のうつろひの春落葉

若楓緋鯉の影の水にあり

雨はれて葉うらにひそと萩の秋

しばらくを照りて艶もつ桜紅葉


親しみのくらき葉うらの紅椿

春雨の緋鯉ゆっくり尾を振れる

冬晴に山並色を重ねけり

雑煮もちほのぼのとして旨かりし

雨に折れしどけなくなる水仙花

脳細胞激減したるおぼろかな


花冷えの米ふきあがる匂ひかな

重たげに雨粒宿す紫木蓮

たんぽぽや並木の土をいろどりぬ

孫たちに四人の子供鉄線花

三人の子の心うべなう藤の花

ゆっくりと団扇を使ひ人憶ふ


老いてなほ生きゆくあてや天の川

短夜を咳に明かしてしまひけり

沙羅の花落つすばやさや人の死す

大小の杉の木密に梅雨の闇

どくだみの花一面や庭昏し

夏深し実生の桐のかく延びて


熱帯夜子の病む夢にさめにけり

おとろへて自負失せにけり夕蛍

杉山の空蒼々と今朝の秋

竹の春思ふがままにもの言はな

草の花子の気配りのすみやかに

名月をよぎりし雲のかがやけり


恍惚の刻のしづけき良夜かな

吾がために小菊買ひけり誕生日

撫子やいつも近くに吾子の声

露けしや雨に信号灯濡るる

運び出す人に柩に北しぐれ

墓の花をちこち美しき年の明


霜月の主なき書斎真暗がり

雪しまき生きざま顕てり骨納め

冷さまじやきびしく生きて地に埋まる

つつが身の残されし生の大旦

よせ鍋に亡き夫在らぬまどひかな

亡き夫の孤影ゆらぎぬ冬の月


遺稿集燃え尽くはやさ寒の暮

身ほとりの雑然として冬籠

足馴らす径そこにあり草芽ぶく

走り根の啓蟄の土掴みゐし

節分の豆を八十路の手くぼかな

花も香も吹きとぶ風の梅林


雪やなぎ煽りて風のつのりゐし

遺されておぼつかなしや春の闇

茶畑の覆ひひらかれ春の雲

夫在らば書斎にひそと鳥雲に

しみじみとひとりの昼餉花吹雪

叱る子のやさしさおもふ花菜漬


噴水に風のいたづら濡れにけり

竹の皮脱ぐ寂けさにたか女の墓

荒草のいきほひ得たり男梅雨

杉苔に生まれしごとく沙羅落花

われに翳ありやなしやと走馬灯

枝失せし雷禍の大樹夏の雲


人間に忘れる知恵の敗戦日

夫の発つ闇を明るく大文字

魂ゆくや送り火しばし消えのこる

かにかくに老いは疾きもの十三夜

しづけさに人声ありて良夜かな

看取らるる余生となりぬ法師蝉


友の訃にしんと香のたつ金木犀

柩出づ急坂道の秋日和

しづけさのなほ深まりてちちろの夜

雑木山風吹きぬけて秋深む

露の夜の行方にまどふ齢かな

間をおきてちちろかすかに鳴きにけり


こんじきの没日たちまち山眠る

杉の実や世の変り見て老いにけり

時雨くる気配の風や山の寺

大空の闇に凍てつく三日月

忌の膳のとりどりの彩山眠る

朝の冷え山茶花の白ひしめきて


古家のあちこちきしむ余寒かな

積雪や煮炊のにほふ家の中

あけ暮に杉見るたつき春を待つ

つき合ひの減りゆく老の春寒し

福寿草の群の明るく夕日さす

雪解けの地面現はに息づけり


いのち想ふまなざし深く鳥雲に

疾風に宙翔ぶさくらとなりにけり

風薫る銀色の月緊りをり

うちふるふ草うつくしき青嵐

囀りのせはしくなりて雨上がる

ゆるやかに車窓みどりの移りゆく


夕茜かすかに照りて梅雨の憂さ

梅雨晴や山なみにそひ雲光る

夏衣わが身にそはぬつかれかな

梅雨寒や遺句集開きゐたりけり

蝸牛動くともなく位置変へる

果てるまで寡黙の夫の盆供養


濡土にころがる蝉のむくろかな

仏壇の中を明るく盆供養

鈴懸の大樹秋暑の日を鎮む

肢体ままならぬ日々なり鉦叩

青空に声あげてゐる紫苑かな

残されし時のはやさの望の月


実のあとの柚子の木高く寂しかり

散策に口の渇きて秋桜

行き止る径に落葉の音たつる

白粥の食べたきあした秋深む

立冬や家を囲める杉木立

放埓に生ふ杉林冷え深む


ばら色の夕日のしばし冬至くる

シクラメン冬ざれの部屋灯すやに

明け初めて熱き白味噌雑煮かな

吉兆笹かかげ帰りし父ありき
 (今宮戎神社十日戎献詠入選)

亡き夫との組椀のこる雑煮かな

煮ふくめる高野どうふや春の雪


身を縮めゐる間に去りし二月かな

一人居の窓外の雪降り止まず

春愁の今日一日の過ぎにけり

黒々と土あらはれて芽立ちをり

夫在りて競ひ聴きゐし初音かな

名園の石のしっとり暮春かな


沢水のくだけて光る春の昼

ドライブに花爛漫の堤かな

かたちよき指もつ嬰やつばくらめ

雨晴れし朝の日射の若葉山

干されたるシャツのにほへる薄暑かな

闘病の果てに逝きしや梅雨の冷


明るさや雨粒のこる額紫陽花

新築の甍に映ゆる大西日

聞きづらき言葉に耐ゆる団扇かな

訃報抱き眠れぬ夜の明易し

鯵おろす手元すばやくはづむかな

大輪のひまはりの黄の日に遊ぶ


人々の雑多なくらし軒すだれ

ミニチュアのガラス細工や夜の秋

吹かれつつ真白き綿の実となりぬ

もぎたての柚香りたつ卓の上

秋うらら淡き昼月仰ぎをり

せせらぎの水底澄める賀茂大社


吹く風に音たてて落つ木の実かな

わがものと小鳥食みをり木守柿

ふり向いてくるるひとあり薮柑子

凍てる日も直くたつ青き木賊かな

伐りたての枝にほひたつ焚火かな

明るさや冬木の上を雲流る


淡雪の消えてあけゆく大旦

杉林の中に住み古り去年今年

木を敲く小鳥見上ぐる冬帽子

被災地より封書届きぬ葱の花

墓道の高きより降る紅椿

つつぬけの空より朝日シクラメン


芽吹く木を透かす茜の夕日かな

老梅のちぢれまばらに春寒し

つくづくと古き免状鳥雲に

窓にせまる大木伐りて春日差

遠眺む花の堤や小雨降る

すみれ色の暮春の空や二日月


雪やなぎ揺れてさは立つ眞昼かな

葉桜や織工房をわたる風

義太夫節娯しみし父黙阿弥忌

六月や笑顔の父の忌日来る

万緑へ開け放ちたる大廊下

久々の身内の会や杜若


外出も臥せもせぬ日日水中花

長らへてうす汚れゆく晩夏かな

舗装路に水流れ出すあばれ梅雨

ぬか漬や吾子の手料理たのみ生く

晩夏光つんぼ桟敷に置かれゐて

雨あとの草木の息吹夜の秋


木をゆらす風こころ良し今朝の秋

紙を切る一途なる子や蝉しぐれ

煮ころがし酒しほ利ける秋思かな

秋空や雲のはざまに夫の顔

コスモスのゆれつづきゐる一日かな

栗をむく手力こめて孤独なる


吾子と居て話すことなき夜長かな

流れゆく雲に想ひを日向ぼこ

すみやかにことば紡げぬ枯木道

大根焚せかせか山に日の入りぬ

看病のなやみ聞きゐる冬ざくら

雪しまく中に日輪見えかくれ


積る雪美しと見ゐしに吾子ころぶ

草も木も雪の重さにひれふしぬ

追憶はよきことばかり暖炉燃ゆ

長らへしこと夢に似て芽吹山

齢重ね生きざま想ふ涅槃西風

籠る身の独りに馴れて春の昼


啓蟄や雪の下にて動くもの

手ひねりの茶碗の重く春の雪

竹落葉墓のまはりを埋めたり

精進揚げ衣のうすき花の冷

薮つばき土の温みにころがりぬ

切株に腰すゑてをり春の風


家の廻りどっと花咲く五月かな

下校の子言葉はきはき花菜風

籠る身の消炭に似て梅雨の冷

泣きわめく子に母つよし葱坊主

倒木の荒地あをあを梅雨入かな

さゑづりや明るくなりし空の色


初生を珠玉のやうに茄子きゅうり

ハンカチは白ときめゐる齢かな

ひぐらしの声消え去りて訃報かな

幾人の面影よぎる盆の入り

杉林伐りたるあとの茂りかな

をりをりは笛吹くように小鳥啼く


賀茂なすの味噌香ばしき斎の膳

遺されしひとのくり言秋ざくら

やうやくに屋根師に及ぶ秋日かな

としよりの心に聡し秋の風

秋麗の日を呼び込めるガラス窓

明るさや忌明け帰りの十三夜


柚子の実の黄色くっきり遠眺め

雨あがり枯かまきりの色変る

冬木立生気ひそめて風にたつ

音もなく一夜に積る雪の朝

椎茸の春を呼ぶごと榾に生ふ

山茶花の花のさかりに散るを見る


霜解や陽ざしにひかるガラス細工

春の雪さはがしく降り土に消ゆ

梅だより母の忌日のおぼつかなし

草も木もほとほと芽立ちはじめたる

晩年の不覚子に倚るおぼろかな

切り株の裂目大きく日脚伸ぶ


榾たせばすぐ焔舞ふ春炉かな

籠る身の独り天下の桜かな

のどごしの嵯峨の豆腐や花の冷

裏山の風ごうごうと桜かな

美しき鮨の出前や桃の花

水底にザリガニさがす夏はじめ


三色すみれ咲きて静かな雨となる

鞍馬路の杉の苗木の直くと伸ぶ

喫茶店のコーヒー熱し走り梅雨

梅雨入りして一本杉の伐られたり

青芒つがひの鳩の水をあぶ

初蝉をふと聴きとめし雨のあと


重たさのふりこめられし花あぢさゐ

亡き夫の齢に近づく大暑かな

盆ちゃうちんともして部屋の暗さかな

余生ながし昼餉のあとの葛桜

新涼や瓶にあふるる庭の花

足萎えの椅子にしばしを虫の秋


子の声のしじまに消ゆる秋の暮

ギヤマンに若き日の彩秋日さす

名月を子にささへられ仰ぎみる

暮れ迅し雲の片側かがやきて

風邪の僧読経短かくをさめらる

もう会へぬ人かも知れぬ返り花


没ちてゆく冬日のふつと空燃やす

鳥の声よく透るなり冬もみぢ

玻璃ごしに鳥の翔びかふ冬ごもり

屈託を見せぬ賀状のここちよき

次々と雲の流るる大枯木

青空の裸木の秀の力かな


晴天のをちこち芽吹く雑木山

春の雪牡蠣のシチューのふっくらと

母の忌の梅の白きを賞でゐたり

やはらかく舌になじみぬ雛の菓子

さっぱりと切ってうなじに春の風

谷川の水ほとばしる芽吹きかな


うぐひすや四方より山の晴れて来て

わらび山雲ゆっくりと動くなり

コーヒーに舌焼く窓辺夏の雨

思ひ出は通り過ぐもの櫻餅

ブルースカイ雲ひとすぢや百千鳥

夕づつや御輿の後の町寂し


蛙鳴くだんだん眠くなって来し

大根のしっとり煮えて梅雨深し

花石榴空家となりて枝のばす

渓水や夏鶯の声ながく

椅子により仰ぐ空晴れ半夏生

揚げものの天つゆうまし日雷


かなかなの声すぐ消ゆる明けの空

亡き父母を深く偲びぬ濃い朝顔

 

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あとがき

  母は七三歳頃から俳句を始め、平成十年十月八日に亡くなりましたが、その直前まで句作を嗜んでおりました。母が最初の句集「三味線草」を七年前に上梓した直後に父が他界し、その後は生き甲斐の一つを失って心なしか、人生を達観したような句が多くなりました。

  このたび、関係者の皆様方にご協力を頂きまして、「三味線草」以降、この七年間の作品をまとめた遺句集「冬もみぢ」の出版にこぎつけ、また父母の霊が眠る名刹「圓光寺」の境内に句碑が建つ運びとなりました。残された私どもにとってこの上ない喜びです。

  母は、私どもの子育てに加えて、学問以外に全く興味がなく本と文房具しか買物もしなかった父や、姑の世話で生涯いろいろと苦労しました。その最たるものが満州からの引揚げという苛酷な体験です。この機会に、母の生前の作品二点、引揚げの体験を綴った「終戦に思い出す三つの品」と俳句二句をご披露いたします。

 

終戦に思い出す三つの品

 昭和二十年八月十二日の夜、突然、満州・建国大学の職員の方が、応召軍人の留守家族に疎開を勧めに来られた。「すぐに帰れるから、明朝新京駅に集合せよ。荷物は身の回りの品だけでよい」とのこと。

 七十三歳の姑と十一歳を頭に三人の子供連れなので、荷物は吟味して少なくしたが、余分かなあ、と思いつつも食卓塩と、くぎ抜きのついたかなづちと電球一個を持った。

 ごったがえしの暑い駅で長時間待ったあげく、すし詰めの無がい貨車に乗り、死ぬのではないか、との思いを繰り返して着いたのは、北朝鮮の宣川という町だった。下車したとたん、日本の敗戦を知らされた。ぼう然自失のまま、捕虜として古い校舎の教室に入れられた。

 総員百十九名なので、私ども五人の場合でも、たたみ一畳くらいのスペースで、荷物を置けば、人は横になれない。早速、校舎のあっちこちからくぎを抜き、教室の周囲に打ちつけて、荷物をつるす作業をした。私のかなづちが大いに役立った。

  それと、トイレには電灯もなく夜は真っ暗だ。幸いソケットが一つぶら下がっていたので、私の電球を提供した。

いつまで? この先どうなるかわからぬまま共同炊事をすることになったが、さし当たっての給食に大豆入りの三角にぎり飯を一人当て二個ずつ与えられた。おなかがすいていたので、喜んでパクついたところ、全く塩気がない。食べても食べた気がしない。

二回目の時は食塩を出し、皆さんにお分けしたところ、一度に無くなってしまい、心細かったが、幸いすぐに共同炊事に入ることになった。

あとで知ったことだが、宣川では塩不足で岩塩を使用していたとか、思いがけず役立った三つの品のことを、終戦の日が近づくとよく思い出す。それにしても、塩気のない大豆入りのにぎり飯を食べた時の索漠とした気持ちは忘れられない。

(京都市岡部イサ主婦・六九歳)


この小文は昭和五五年(一九八〇)八月八日付け朝日新聞朝刊「ひととき」欄に掲載されたものです。

俳句は、昭和六三年(一九八八)八月十五日発行の昭和万葉俳句集「昭和二〇年八月十五日を詠う」に収録された次の二句です。

トンネルの灼熱地獄無蓋貨車

(新京から貨車で北鮮宣川へ緊急疎開)

疎開貨車降りて捕虜たり敗戦日

(主人が旧新京建国大学に勤務中現地応召となり、 留守家族は終戦三日前に緊急疎開。姑七三歳、長男十一歳、長女七歳、次女四歳を連れ、手回り品のみ持ち新京駅から無蓋貨車で運ばれ、北朝鮮の宣川という所に降ろされたのが八月十五日の正午でした)


  この二句は、母が北朝鮮への疎開、 ついで引揚げという難行苦業を余儀なくされ、あの混乱の中で、母も死んでいたかもしれないし私ども兄妹も残留孤児になっていたかも知れない情景を詠んだものでしょう。母はあの地獄絵の中で絶対に子供たちを連れて帰らなければという強い使命感と度胸があったからこそ運よく生きて帰れたものと思います。その約二年後、父も奇跡的にシベリヤからの生還を果たしました。

母が離れるのは絶対にいやと執着していた現在の家は、引揚げ後八年目に母が足を棒にしてようやく探し求めたもので、まわりは真っ直ぐ立ち並ぶ杉林で、今も鹿や猪や猿が庭や畑を荒らしにくるような、自然がいっぱいの山の家です。この家に住んで四十有余年、当初は京に田舎ありというような風情でしたが、 日々変化する森羅万象、池の鯉、庭のそこかしこにかたまって咲く季節の花々は、母の短歌や俳句の源となりました。

   父が他界してからの母は、身体もいちだんと小さく不自由になりましたが、心はいつも寛大で自由自在、好奇心が強く、常に新しいものにとびつくという生まれつきの性格は、最期まで変わりませんでした。母は、「はんなり」という言葉が大好きで、年を重ねるほどに、「はんなりとしたものを着なさいよ」、とよく言っていました。数々の辛酸をなめながらも、それをプラスに変える努力を惜しまず、はんなりとした母らしい生涯が、残された俳句の中に宿っているように思います。

   圓光寺に奉納させて頂く石碑に刻む句は、

日おもてに空を透かせて冬もみぢ

としました。この句は母の晩年に近い作であることと、紅葉が見事に美しい圓光寺に因んで決めました。もみぢは、全山もえるような妖艶で華麗な眺めも優美でしょうが、木々の間に楚々として朱を散らしている冬もみぢにも、何となく惹かれるものがあります。

  句碑の建立にあたりましては、私ども先祖の菩提寺であります圓光寺のご住職、古賀慶信様のご好意で、境内庭園の見栄えのする場所に建立させて頂くことができました。圓光寺は、天下統一を成した徳川家康が一六〇一年に伏見に開山、七十年後に一乗寺の山すそに移転した学問寺で、「圓光寺版」と称される孔子家語・貞観政要などの書籍を刊行したわが国出版文化史上も特筆される名刹ですが、最近では雅楽が流れる庭園で紅葉が照明に浮かぶライトアップの元祖としても有名になってまいりました。

  句碑の書は、母が俳句のご縁で以前より存じ上げておりました書家、田中塊堂、伊藤鳳雲両先生に師事されていた芦内くに様(現「白桃」同人)にお願いしましたところ、快くお引き受け下さいました。

  石碑の素材選択と彫刻は、圓光寺の墓碑を三代にわたり手掛けておられる「石悛」のご主人、山本清一様にお願いしました。山本さんは実力派の石匠として優れた技術を持たれ、京都府石材業共同組合石青会の会長を務められるなど業界でも活躍しておられます。圓光寺の山門から進んで左手に立っている十一面千手観世音菩薩像も同氏の十年前の力作です。石材は、圓光寺の自然林の色調にマッチするようお願いし、石の硬度、粘り、光沢などあらゆる点で銘石とされております青御影石を瀬戸内海に浮かぶ香川県・広島から特に取り寄せて頂きました。

  序文は、「三味線草」の序文をお願いしました「南風」の前編集長、山崎秋穂先生があいにく病後ご静養中のため、今回は母を俳句の世界にお誘い頂きましたお隣の小松倫子様にお願いしました。母は小松倫子さんとは、四十数年のお付合いですが、俳句につきましては七十の手習いで壁にぶっかり通しの母を終始暖かく励まして頂きました。母が最期まで句作を続けられたのは、まさに小松倫子さんのお蔭です。母が生前ご指導頂きました「南風」主宰の鷲谷七菜子先生、前編集長の山崎秋穂先生にも厚く御礼申し上げます。

   亡きははの句碑にはんなり春の雪  陽二
   笹鳴や御霊のそばにははの句碑   瑛子
   主のなき椅子に彼岸の近づけり    晶子


一九九九年三月

 

岡 部 陽 二
宮 軒 瑛 子
西 岡 晶 子

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  <追記> 2014年8月31日に本句集の復刻版40冊を㈱帆風にて作成しました。

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