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三大経済学者の生家と墓碑 

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 父が本の虫ともいえる経済学者であったので、家の中の至る所に経済学の原典が転がっており、子供の時分からアダム・スミスの「国富論」やカール・マルクスの「資本論」といった大部の書物の背表紙を眺めて育ったが、私自身はこれらの本の内容に興味を持つには至らず、経済学の勉強はついぞしなかった。ところが、13年に及ぶ英国在勤中、父の同僚や教え子の先生方が英国へ遊学に来られて、マルクスやケインズなどに話題が及ぶことも多かった。また、幸いロンドン大学の森嶋通夫教授の謦咳に接する機会もあって、歴史上の大経済学者の生い立ちや生きざまに多少は関心を持つようになった。そこで、偶々英国に所縁のある三大経済学者の生家と墓碑について、私なりに見聞した成果を一道標としてご披露したい。 

 アダム・スミス(1723~1790)はスコットランドのエディンバラが面しているフォ-ス湾を挟んで対岸の港町カーコージーで生まれた。グラスゴー大学で教鞭をとった後、1766年から10年の歳月をかけて「国富論」を書き上げた。一生独身で過ごし、晩年はエディンバラ旧市街ハイ・ストリート突き当たりの英皇室離宮の手前左手にあるパンミュア館と呼ばれる白い漆喰壁の煉瓦造り二階建ての大きな家で過ごした。この家は今も当時のまま保存され、玄関には「アダム・スミスの家」と刻まれた金属板が掲げられている。

 スミスの墓はこの家から少し離れたキャノンゲート教会の墓地にあり、教会に向かって左側の旧キャノンゲート市庁舎裏の壁の一角に鉄格子で囲まれた侘しい造りである。石碑には「諸国民の富の著者アダム・スミス、此処に眠る」とだけ書かれている。ジョン・ガルブレイス著の「経済学の歴史」には、「経済学に些かでも興味のある人はここを訪れるべきである」と書かれているそうだが、態々ここまで来るのは一苦労。

 スコットランド出身のスミスが経済学の始祖となったのは、17世紀にヨークを中心に始まった産業革命が1707年のイングランドとスコットランド合邦の結果、グラスゴー辺りに一挙に拡大し、この辺りが産業発展の中心地となったことを想い起こせば、成る程と頷ける。スミスは完全に自由で競争的な市場が成立すれば、個々の企業が自己の利益のみを追求したとしても、その意図とは関わりなく「神の見えざる手」に導かれて、需給は均衡し、社会全体の利益も増進されると結論づけた。スミス没後二百年を経て、その間には経済理論も目まぐるしく変遷したが、今日では、結局のところ、スミスの唱えた自由競争社会に回帰しつつあるということであろうか。

 カール・マルクス(1818~1883)の生家はワインで知られるモーゼル河の上流、ルクセンブルグとの国境に程近いドイツのトリアーという町にあり、マルクスの生家も博物館として観光コースに組み込まれている。マルクスはボンとベルリンの大学を出た後、欧州各地を転々としたが、1849年には家族と共にロンドンへ移住、ソーホーのディーン・ストリート28番地で長屋の三階の粗末な一室に住みついた。マルクスはここから10分程で行ける大英博物館の図書館へ毎日通って、指定席Gー7で「資本論」の想を練ったと伝えられている。この部屋は現在、階下のイタリア料理店「クォ・ヴァディス」が当時のまま保存しており、店主に頼めば室内を案内して貰える。

 一方、マルクスの墓碑はロンドン北郊のハイゲート墓地にある。地下鉄ノーザン・ラインのアーチウェイ駅で降りて、ハイゲート・ヒル通りを西へ上り切ったところにある公園のすぐ先。道案内の標識も出ており、墓地の入口には地図や写真を売っている案内所まであって、休日には訪れる観光客で結構賑わっている。貧窮の中に65才で生涯を閉じたマルクスの墓は素々は質素なものだったらしいが、戦後1956年に有志の手でスエーデン産の黒御影石に胸像を乗せた見上げるばかりの立派な石碑に造り変えられた。台座の最上部には「万国の労働者よ、団結せよ」と金文字で大きく彫られており、その下には「フォイエルバッハ論」の中の一節、「哲学者達は世界を様々に解釈したに過ぎない、大切なことはしかしそれを変えることである」という有名な言葉が刻まれている。私の好きな含蓄に富んだ古典の名句の一つである。

 ジョン・メイナード・ケインズ(1883~1946)は、マルクスが没して二ヶ月余り経った6月5日、奇しくもアダム・スミスが生まれた日から丁度160年目の同月同日、古い静かな大学町ケンブリッジのハーヴェイ・ロード6番地にあるヴィクトリア風の広壮な家で生まれた。彼は生涯の大部分をこのケンブリッジで大学教授として過ごした。

 ケインズが展開した華麗な学説は経済恐慌に対する極めて適切な処方箋として高く評価され、彼自身、今世紀最大の経済学者としての声価も確立しているが、生来の超エリート指向と独善的且つ風変わりな気質のため、厳しい批判や反発が集まったとも言われている。また、雄弁で、芸術への造詣も深く、多趣味でもあったが,同時に金儲けにも大変熱心で、株式や商品投機を自ら手掛けた。

 今や、難解な「一般理論」よりも有名になった感のある「美人投票論」、即ち,美人コンテストの優勝者を当てるには,自分の判断,あるいは客観的な判断に基づいて投票するのではなく,「誰が美人であると多数の人が考えるか」をよく考慮して投票すべきであるという論理を実践し,一時はかなりの財を成した。正に「翔んでる男」といった生きざまであったらしい。その所為かどうかは詳らかではないが,彼の生前の居宅は現在は他人の手に渡り、「ケインズ生誕の家」などの表示はどこにもない。

 また、ケインズには墓も存在しない。この理由は謎に包まれているが,愛知学泉大学の米村司教授の研究によれば、生前仲の悪かった弟が遺骨を捨ててしまったという説と,ロシア人バレリーナのリディア・ロボコヴァと42歳で結婚したケインズは,それ以前は有名なホモとの付合いが派手だったので,死後こういった事実の暴露を避けるため遺族が彼のプライバシーを一切公表しないという説がある由。更には無神論者であった彼自身の遺言に従って遺骸は灰にして北海に撒かれたという説もある。私としては一番ロマンチックなこの最後の説が、ヴィクトリア朝の香りを残すハーベイ・ロードで育った大経済学者に最も相応しいと思っている。 (明光証券会長)

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 (1995年7月20日発行「しょうけんくらぶ」第58号所収)

 

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