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サッチャー時代の英国に学ぶ 

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1、首相登板-働かざる者、食うべからず 

 「不和があるところには融和を、誤りがあるところには真理を、疑いがあるところには信頼を、そして絶望があるところには希望をもたらすことが出来ますように。」1979年5月4日、5年振りに保守党政権を誕生させ、英国憲政史上初の女性宰相として颯爽と登場したサッチャー女史は、就任直後の国民へのアッピールをこの聖サンフランシスコの言葉で結んだ。彼女の歯切れよい自信に満ちた演説は今でも私の脳裏に鮮やかに残っている。 

 この年までの5年間、私はロンドンに駐在して、当時「イギリス病」と呼ばれた停滞した経済を具さに見てきた。イギリス病の原因としては社会福祉の行き過ぎで英国人が働かなくなったこと、戦後保守党と労働党が交代で政権を担当したため、いわば熱湯と冷水を交互にかけるような政策の不連続性が、経営者のやる気を喪失させてしまったことなどが挙げられていた。サッチャー首相は一転して「働かざる者、食うべからず」の信条を前面に打ち出し、11年半に亙る長期政権で自由競争原理をフルに活用して市場経済への転換に成功した。サッチャリズムに圧倒されて、イギリス病という言葉自体完全に死語になってしまったが、彼女の改革で英国経済は本当に再生したのであろうか。 

 私はサッチャー登板の翌年に一旦帰国した後、再び1984年から9年近くロンドンに駐在し、彼女の改革の歩みを目の当たりに見てきた。この間の出来事とその後、メージャー政権になってからの反動をも踏まえて、いくつかの問題に絞って彼女の功罪を分析して見たい。英国と日本はユーラシア大陸を挟んで遠く隔たっているが、コンセンサスを重んずる政治風土には似通った処もあるので、英国の壮大な実験は日本にとっても大いに参考となるのではなかろうか。 

 もっともこの間サッチャー首相が英国民大多数の支持を得ていたと解するのにはやや無理がある。サッチャー信奉者は英国よりもむしろ日本をはじめとする外国人に多かった。と言うのも、彼女が率いる保守党が総選挙で3回も続けて議席の過半数をとることが出来たのは、彼女のツキと選挙戦術の巧みさに加え、小選挙区制のいたずらと思えるからである。 現に、保守党が大勝した1987年の選挙でも、得票率は43%に留まり、投票者の57%は反サッチャーであった訳であるが、第三党に票が流れたお陰で保守党は議席の58%を獲得したのである。 

2、フォークランド戦争-強い信念と果断な行動力 

 1982年3月31日にアルゼンチン軍によって突如占領された英領フォークランド諸島を軍事力の行使によって僅か三か月で取り戻した戦争ほど、サッチャー首相が強い信念と果断な行動力をフルに発揮した出来事はなかった。彼女自身にとってもダウニング街10番地で過ごした11年半を通して余程印象深かったとみえて、辞任後に刊行した「サッチャー回顧録」の中でも当時のやりとりを克明に描いている。国際法からみてアルゼンチンが不法に侵攻したとはいえ、フォークランド諸島は英国からはるか13,000粁も離れた南太平洋の孤島で僅か2千人の住民が羊を飼って細々と生活しているに過ぎない。経済的にはとるに足らないこの小島を奪い返すのに、彼女は100隻以上の艦船と25,000人を超す兵員を投入、交渉による解決を求める国際世論にも耳を貸さず、直ちに軍事行動に出た。その動機について、戦争終結後米国へ渡って行なった演説で、彼女は武力による自由と独立の侵害は断じて許されないと訴え、故ルーズベルト大統領の言葉を引用して「自由に生まれ、自由を信ずる我々は、跪(ひざまず)いて生きるより、立ったまま死にたい」と述べている。

 この戦争の顛末の中で驚嘆させられるのは、軍事行動そのものよりも、この間の外交交渉と国内での侵攻反対派説得に彼女自らが正に八面六臂の活躍をした点である。当初、米国のレーガン大統領はむしろアルゼンチン寄りの姿勢であり、フランスのミッテラン大統領も非協力的であったが、彼女はトップ同士の直談判で英国の正当性を認めさせ、国連安保理も味方に付けてしまうという離れ業を演じている。国内では軍事行動に反対した外相を直ちに更迭した。議会での演説やテレビを通じての彼女の国民への呼び掛けは、第二次大戦を勝利に導いたチャーチル首相を彷彿させるものがあった。

 時は移り1990年8月2日、イラク軍が突如クエートを武力制圧した際に、真っ先に武力によるクエート奪回を主張したのもサッチャー首相であった。この時には英国だけの手には負えないので、彼女自ら米国へ飛んで米軍を中心とする国連軍の派遣を実現させた。フォークランド戦争での実体験がなければ、これ程機敏な行動はとれず、湾岸の事態はより悪化していたのではなかろうか。もっとも、クエート解放の立役者となった彼女が戦い半ばで、湾岸戦争とは無関係の国内政争で降板に追い込まれたのは、誠に残念であった。

3、日本企業の誘致-80年代後半に急増 

 1982年の秋、首相就任後初めて来日したサッチャー首相は、経団連首脳との懇談や筑波研究学園都市の見学など日本の産業界の要人と精力的に接触した。日本企業のハイテク分野での優位性に驚き、産業界のトップにエンジニア出身者が多いことが、その理由を解明する一つの手掛かりだとの感想を述べている。この時に日産自動車の社長に直接会った彼女は自ら北イングランドへの工場進出を強く働きかけた。交渉の最終結着にはその後二年の歳月を要したが、彼女の来日が契機となってサンダーランドに年産30万台の乗用車生産工場が建設されたのである。英国日産は今や20万台を欧州などへ輸出、英国にとってネットで年間1,700億円相当の外貨収入をもたらす最大の輸出企業に成長している。 

 日系メーカーの在英工場はサッチャー首相就任前には十指に満たなかったが、80年代の後半に急増し、1993年には200を超えた。日系企業の対欧州投資の過半が英国に集中しているのも、雇用の増加を通じて英国経済の活性化に寄与する外資を国内企業以上に優遇すべしとの彼女一流の割り切った考え方の成果と評価出来る。彼女のとった手法で感心させられるのは、中央政府の誘致機関である対英投資局よりも各地域の自治体や開発公社の機能を強化し、競争原理をフルに活用して相互に競わせた点である。東京にもウェールズ、スコットランドから北アイルランドに至るまで各地域の開発機関が事務所を構え、今なお熾烈な誘致合戦を繰り広げている。 

 わが国企業にとって、英国が欧州域内での工場進出先として優れているのは、有能な労働者を比較的低い給与水準で雇えることに加え、労働組合が穏健で協調的であることが挙げられている。かつては激烈な労働運動と多数の職能別組合との交渉を強いられたことを想起すると、日系企業の努力もさることながら、サッチャリズムによって急速な意識転換をした英国人労働者の柔軟性に驚嘆せざるを得ない。最近では日系企業が口火を切って導入したシングル・ユニオン(単一労組)協定が一般化しているという。更には欧州統合の憲法といわれているマーストリヒト条約で謳われている労働者の経営参加権や労働時間の上限規制などを含むソーシャル・チャプター(社会労働協約)に英国は参加していない。この独自路線が外資にとって大きな魅力となっているのも彼女の功績の一つである。

4、経済活性化-国営企業の民営化 

 サッチャー首相が行なった数多くの英国経済活性化策の中で最大の効果を挙げたのは、国営企業の民営化であろう。サッチャー登場以前には、英語の辞書にPRIVATIZATIONという単語すら存在しなかったが、彼女が英国で成功を収めた民営化の動きは全欧州から日本にまで波及し、今や世界の常識となった観すらある。彼女の言の通り、「在任中に国有産業を六十%減少させ、国民の四人に一人を民営化企業の株主にして、英国は社会主義への進行を逆転させた最初の国となった」のである。彼女の信念によれば、如何なる企業であっても競争原理に基づく利益の追求がなければ、国民経済にとって有益に機能しないし、政治家や役人が企業の指揮をとるのは悪である。このような観点から、国有資産を民間に売却する際、国家財源としての配慮はそれほど問題とならず、一般国民に抽選方式により可成り低い売却価格で幅広く売り捌かれた。

 民営化は1981年のブリティッシュ・エアロスペースを嚆矢として、ジャガー、ブリティッシュ・テレコム、英国航空、ブリティッシュ・スティールと順調に進み、1990年には電力、更には水道事業まで実現した。流石に水道事業については国民感情として割り切れないところもあり、「サッチャーは空から降ってくる雨までも民営化するのか」といった批判もあった。これに対し、彼女は「水は天の恵みかも知れないが、水道管や配水工事は電気・ガスと何ら異ならない」との主張で反対を押し切ったものの、今でも国民の三分の二は水道の民営化には反対の意見を持っているという。しかし、民営化路線はメージャー首相にもそのまま引継がれ、野党労働党のトニー・ブレアー党首も従来の方針を変えて、英国はステイクホールダーズ・エコノミーを目指すべきと唱え始めている。

 民営化は大筋では成功しているが、反面、いくつかの問題も出て来ている。一つは、民営化企業経営者の給料が高過ぎるとの批判である。もう一つは、過渡的措置として設けられた他社からの買収攻勢に対し政府が拒否権を発動できる所謂「黄金株」の期限が到来し、民営化後のリストラ努力で業績が向上した発電・配電会社などの株式が他産業や外国企業からの買収の標的となっている事態である。こういった問題にどう対処すべきかを巡って、昨今活発な議論が巻き起こっているのは、民営化成功の代償と見るべきなのであろうか。

5、ビッグ・バン~為替管理を一夜にして全廃 

 1986年10月27日を期して英国で断行された金融・証券制度の大改革は、宇宙創生時の大爆発になぞらえてビッグ・バンと呼ばれている。証券手数料の自由化、従来分化していたブローカー機能の一元化、証券会社への銀行の出資自由化、SEAQと呼ばれるスクリーン表示による自動取引システムの導入など、従来の枠組みを根底から一変するものである。この改革は、ニューヨーク市場活性化の煽りを受けて地盤低下傾向にあったシティーの復権を狙ったもので、サッチャー首相の意にも適った当然の流れと受け止められている。しかしながら、大部の「サッチャー回顧録」にはビッグ・バンに関する記述は全くなく、彼女自身が直接関与した形跡はない。 

 元来、サッチャー首相は金融業者が大嫌いで、在任中に銀行や証券の代表者と会合を持ったことはなく、面会の申し入れもすべて断っていた由である。金融は虚業で、生産業の復活こそが英国経済にとって重要事と考えていた節も見られるが、結果的には彼女の時代に実現した改革によってシティーの金融業が最大の雇用創出を果たし、民営化で証券業界が多大の利益を享受したのは皮肉である。 

 ビッグ・バンよりもシティーへのインパクトが大きかったのは、私の見るところでは、彼女の首相就任直後の1979年10月に突如実施された為替管理の全廃であった。それまで英国では厳しい為替管理が敷かれており、しかも非居住者の保有する所謂「投資ポンド」資金は可成りのプレミアム付きで売買されるという二重為替レート制がとられていた。この厳しい為替管理が一夜にして全廃され、英蘭銀行で管理業務に従事していた職員300人余りが全員解雇されたのには、流石のシティー子も驚いた。職を失った人々は英蘭銀行の斡旋で民間銀行などに引き取られた。この英断が規制を嫌う世界中の資金をシティーに流入させる契機となり、ロンドンの国際金融センターとしての地位が確立出来たのである。 

 昨今、SGウォーバーグ社をはじめ英国の名門マーチャント・バンカーが次々と欧州大陸の大銀行に買収されている。これは単なる株主資本の入れ替えで、英国人の活躍する場は従来通りシティーにあって、合併による資本力強化によってロンドンの国際市場としての役割は益々大きくなるものと予想される。シティーを貸し座敷と割り切れば、これも英国にとっては歓迎すべき事態と受取るべきかもしれない。

6、フーリガン~「小さな政府」がウラ目に 

 サッチャー首相が君臨した1980年代に英国で突如出現したのが、フーリガンと呼ばれる「ならず者群団」である。大きなサッカー試合の行われる週末の夜などは、例えばリバプールから列車を乗り継いで地元チームの応援に来る序でに所構わず乱暴狼藉を働く若者で、ターミナルの駅周辺は大騒ぎとなる。警官も多数出動して一般人に迷惑が及ばないように奮闘しているが、多勢に無勢で、フーリガンは列車のシートを全部剥がしたり、窓を割ったり、コンビニ店に押し入ってビールを略奪するなど、手の施しようがない。 

 その後、彼らは英国チームにくっついてローマをはじめ外国の町へも繰り出し、商店街の窓ガラスを片っ端から割ったり、無賃乗車や掻っ払いなど悪行の限りを尽すほどエスカレートし、外交問題にまで発展している。フーリガンという言葉は乱暴者のアイルランド人の名前に由来するそうだが、オックスフォード英語辞典に収録されたのは1976年のことで、ビートルズなどと同様に比較的最近の流行である。彼らは金銭目当てではなく、エクスタシーを楽しむために乱暴を働き、サッカーとビールを愛好すると共に、女王様やサッチャー首相を敬愛している一面もある。サッカーはあらゆる球技の中で手を使うことを禁じられている唯一のスポーツであるが、そのフラストラションから場外では手で出来る悪事を働く癖がついたという珍説もある。 

 それにしても、このように精神の荒廃したフーリガンが群を成して発生したのは、やはり中学・高校教育に問題の根源があるように思える。英国では一部の金持ち階級がイートン校などで知られるパブリック・スクールと呼ばれる私立の名門校へ進むのに対し、一般庶民の子弟はグラマー・スクールと呼ばれる公立校へ進む。ところが、公立校は一クラスの人数も多く、勉強も放任主義で、道徳などは教えない。

 サッチャー首相も教育問題の重要性は十分認識しているが、彼女は教育分野についても徹底した経費の縮減を打ち出した。彼女は首相になる前にヒース内閣の教育相を務めたが、従来公費で負担していた公立校の学校給食でのミルク代を自己負担に切り替えたため、ミルク・スナッチャー(牛乳泥棒)とあだ名を付けられたほどである。小さな政府を指向するサッチャー首相の施策がフーリガンのような暴徒を大量生産し、警察力の強化をはじめ秩序維持に大きなコストが掛かるようになったのは、なんとも皮肉である。

7、EC統合~エゴ丸出しの外交政策 

 私が英国勤務を終え、ロンドンを離れる直前の1992年5月31日、シティーの西はずれにある聖クレメント教会の前の広場で、一寸したハプニングが起きた。英国の在郷軍人会が音頭をとってアーサー・ハリスという空軍司令官の立派な銅像を建立、皇太母を招いて除幕式を挙行した時である。この司令官は第二次世界大戦で連合軍の猛攻により広島と並ぶ大きな被害を受けたドレスデン空爆の指揮をとった将軍であったが、世間では既に全く忘れられていた存在であった。この寝ている子を起こすような動きに反発した反戦デモ隊が銅像にペンキを投げつけ、警官隊が出動する一寸した事件になったが、銅像の建立自体は大多数の英国人にとって格別の違和感もなく受け容れられたようである。EC統合の第一段階の完成を翌年に控えても、英国の一般大衆の意識の中には今なおドイツをやっつけた将軍を賞賛するムードが根強く残っていたからである。 

 サッチャー首相のECに対する考えもこれと軌を一にしており、表向きにはEC統合の推進を唱えながら、その実、英国にとって都合の良い施策のみ受け入れ、英国が犠牲を強いられるのは一切お断りというエゴ丸出しの外交政策をとっていた。当時EC予算の80%は農産物価格維持のための補助金に使われ、ヨーロッパはチーズの山とワインの池で身動きがとれない状況に陥っていた。英国は一方的に補助金を負担させられる立場にあったため、彼女は強硬に補助金の削減を主張し実現させた。その後もあらゆる問題で「鉄の女」サッチャーは欧州各国首脳に猛攻をかけた。中でも、老練なミッテラン大統領やコール首相を相手に、英国のEC分担金引き下げを呑ませた外交手腕は流石と賞賛された。為替相場の安定についても、国内金利は景気循環に合わせて上下させるべきで、対外為替レートを一定水準に保つために国内金利を動かすべきではないとの信条を変えなかった。彼女はEC通貨統合には程遠い消極論者といえる。 

 更に印象的であったのは、英仏海峡を結ぶユーロトンネルへの対応で、1981年の計画当初より国家予算は1ポンドたりともつけないという方針を打ち出し、民間が勝手にやるなら認めようという姿勢を貫いた。その結果、昨年完成したものの事業は大赤字の上、ドーバー海峡・ロンドン間160KMがノロノロ運転のため、全長460KMのパリーロンドン間をノンストップで3時間余りもかかっている。

8、人頭税騒動~政権幕引きの前奏曲 

 1990年3月31日、英国での人頭税(POLL TAX)導入の前日、この新税に反対する大規模なデモ隊がロンドン中心部のトラファルガー広場周辺で暴動を引き起こした。広場近くの建築現場にあった鉄パイプを振り回し、乗用車に火を放ったため、3百人以上のデモ参加者が逮捕されたが、死者が一人も出なかったのが不思議なほど、激しい抗議暴動であった。この人頭税騒動がサッチャー政権幕引きの前奏曲となり、その年の11月に行われる保守党党首選挙への立候補を彼女は断念せざるを得なかった。後継者に選ばれたメージャー首相は党首選への立候補に当たって人頭税の廃止を公約し、翌年の9月末に人頭税は実施後僅か一年半で廃止された。どんな難局をも断固たる信念で乗り切ってきたサッチャー首相にとっては、何とも後味の悪い結末となった忌まわしい出来事であった。 

 もともと、英国では土地・家屋の評価額に基づいて家主に課税されるレイトという固定資産税が地方税として100年以上に亘り定着していた。サッチャー流の考え方によれば、自治体のサービスの大半が土地・家屋に関連した道路や水道・排水溝の整備であった時代にはレイトもそれなりの合理性があったが、昨今のようにサービスの主体が教育・福祉・運動施設など個人の生活充実に向けて提供される時代には、その直接受益者が自ら負担するのが筋である。レイトのメリットは徴税が比較的簡単という点にあるが、この利点に乗じて福祉の拡充を唱える労働党支配下の自治体がレイトを安易に値上げし、地方財政の放漫化を進めてしまった。彼女はこれに強い嫌悪感を抱き、レイトを廃して世帯の頭数に応じて課税する人頭税に置き換えた訳である。この結果、自治体間の格差が鮮明に焙り出され、同じ大ロンドン地域の中でも福祉ばらまき型の労働党首長の自治体では隣接する保守党首長のところに比べて人頭税の税額が二倍にもなったのには、我々も驚いた。 

  英国では所得税率は最高35%に抑えられている一方、課税最低所得は妻帯者でも年間100万円程度と低い上、消費税が17.5%と高率である。このように重税感に喘いでいる低所得者層にとって、受益者負担が筋とは云え、一人当たり年間10万円を優に超える人頭税が新たに賦課されたのは、庶民感情として耐え難いことであった。この人頭税騒動は庶民感情を理屈で抑えつけるのが如何に難しいかという教訓を残したのではなかろうか。

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 (1996年4月1日付け発行から同年5月27付け発行の「週間、税のしるべ」所収)

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