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東京農工大学名誉教授・遠藤章氏とのMonthly IHEP有識者インタビュー「自然からの贈りもの~史上最大の新薬誕生の物語」

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話し手: 農学博士、バイオファーム研究所長
   東京農工大学名誉教授 遠藤 章 氏

               聞き手: 医療経済研究機構
 専務理事 岡部 陽二

 
 今回は、青カビから、HMG-CoA還元酵素阻害剤「コンパクチン」を1973年に発見、度重なる障害に遭いながらも、コンパクチンの優れたコレステロール低下作用を実証して、超大型新薬の開発に貢献された遠藤章博士に、新薬開発に関わる広範な課題についてお伺いしました。

 遠藤章博士は、1957年に東北大学を卒業、同年三共㈱に入社され、醗酵研究所主任研究員、研究室長などを経て、1966年農学博士、1979年東京農工大学助教授、1986年同教授、1997に退官されて、同年設立された㈱バイオファーム研究所代表取締役を勤めておられます。

 コンパクチンから派生した7種のコンパクチン同族体「スタチン」系薬剤は、いまや全世界で3,000万人の患者が服用し、コレステロール値を下げる薬ですが、脳梗塞や心疾患を引き起こす動脈硬化の治療に欠かせない治療薬となっています。

 遠藤博士は、コンパクチン発見の業績に対し、1987年にドイツで「ウィーランド賞」を受賞、2000年には米国で「アルバート賞」を受賞、2006年にはわが国最高の科学賞である「日本国際賞」を受賞されました。

 ご著作には、数多くの研究論文のほか、コンパクチン発見30周年を記念して刊行された「自然からの贈りもの~史上最大の新薬誕生~」(2006年、メディカルレビュー社刊)があります。また、遠藤章博士の足跡をドキュメンタリーとして詳細に追跡して記述されている山内喜美子著「世界で一番売れている薬」(2007年、小学館刊)は、第13回小学館ノンフィクション大賞を受賞した読みごたえのある好著です。

〇生い立ちと微生物研究の動機

岡部 一昨年の「日本国際賞」ご受賞に続いて、このほど秋田県で5番目の名誉県民にとしてご顕彰されましたことをお慶び申し上げます。

その秋田県の山村のお生まれで、少年時代からカビやキノコに親しまれたとのことですが、微生物に関心を持たれた動機、青カビからペニシリンを発見したアレキサンダー・フレミングへのご傾倒など、生化学・微生物生物学者を志された経緯などお聞かせください。

遠藤 生まれは1933年、秋田県の下郷村というところで、現在は由利本庄市になっています。うちは農家で、裏はすぐ山、前には小川が流れているという典型的な田舎でした。ここで高校途中までの17年間を過ごし、その後秋田市の市立高校に転校、大学は仙台の東北大学へ進みました。どういう基準で名誉県民が選ばれるのかは、よく分かりませんが、私は国連事務次長をしておられた明石康さんに次いで5人目だというだということです。

岡部 秋田県の広葉樹林に囲まれた農家で育たれた環境が、子供のころからハエトリシメジのようなキノコや菌類に特別な関心を抱かれた動機になっているのでしょうね。 

遠藤 子供のころは、自然の中で毎日生活していました。私の祖父が、家督を私の父に譲ったあと、キノコ採りによく一緒に連れて行ってくれました。祖父は物知りで、孫にいろいろ教えるのが、楽しみだったのでしょうね。キノコのことをよく教わりました。キノコにはいろいろな種類があります。食べられるキノコもあり、毒キノコもあります。毒キノコでも、煮汁を捨てて水洗いすれば、食べられることも教わりました。

岡部 カビとキノコは仲間ですね。カビはキノコより小さいという大きさの問題でしょうか。

遠藤 キノコとカビはどちらも菌類に属しますが、キノコをつくるものとつくらないものがいます。キノコをつくらないものがカビです。昔は、餅によくカビが生えました。みかんにも青カビが生えました。

岡部 そうですね。

遠藤 それから、農家は、いもち病が発生すると大騒ぎをしていました。いもち病の原因はカビなのです。父から教わりました。母は毎年冬になると、麹を作っていました。麺づくりにはおばあさんの代からずっと受け継いできた麹カビを用いていました。

岡部 麹といえば、今作っておられる「紅麹」も、まさにそこから来ているわけですか。

遠藤 そうです。その延長です。子供のころの生活体験が原点だと思います。カビとキノコには子供のころから興味がありました。 

〇大学での生化学専攻と三共㈱(現第一三共)への入社

岡部 大学は秋田大学には農学部がなく、県外の東北大学へ進まれたのは、やはり、そういうカビを排除して農業の生産性を上げるということに興味をお持ちであったわけでしょうか。

遠藤 小学校の頃は、ちょうど第二次世界大戦のさなかでしたが、野口英世のような科学者になりたいと思いました。私も、農家の生まれで、5歳のときに火傷しました。こんな生まれ育ちと祖父の影響で野口英世に憧れたのだと思います。高校時代は戦後の食料難時代だったので、大学の農学部に入って農業技師になるつもりでした。秋田大学には農学部がなかったので、東北大学にいきました。

岡部 そうですか。戦後間もなくは、大変な食糧難時代でしたからね。

遠藤 そうです。米不足が特に深刻だったので、米の増産に役立つ研究をしようと思いました。ところが、大学へ入ってから、ペニシリンを発見したアレキサンダー・フレミングの伝記やストレプトマイシンを発見したセルマン・ワクスマンの自叙伝を読で、微生物を利用して医薬と食品を開発する研究に興味が変わりました。

岡部 それで、農芸化学科を選ばれたのですね。

遠藤 そうです。

岡部 そうですね。戦後すぐにストレプトマイシンも入ってきたのですね。

遠藤 結核の特効薬ストレプトマイシンは、アメリカの技術を導入して、国内で製造していました。大学でも抗生物質の研究が始まっていました。そういう時代だったので、そのほうに興味が移っていったのです。

岡部 三共へ入社されて、そこでペクチナーゼというカビの酵素の開発研究した経験がペニシリンと並ぶ「奇跡の薬」と呼ばれるスタチン系コレステロール低下剤の開発へと繋がったものと承知しています。今から50年も前にコレステロールに着目された契機などにつきお伺いできますでしょうか。

遠藤 三共に入った理由のひとつは、子供のころから興味があった人間には無害で美味しいのにハエを殺ハエトリシメジというキノコを殺虫剤として実用したかったからです。当時は、ハエがものすごく多かったのですが、よく効くハエ取り剤はなかったのです。成功すれば、人のため、お国のため、会社のためにもなると考えたのですが、会社はやらせてくれませんでした。 

岡部 それはちょっと、がっかりされましたでしょうね。 

遠藤 私が配属された職場ではカビを使ってペクチナーゼという酵素を製造していました。非常に運がよかったというか、ここで子供の頃から興味があったカビとキノコに再会できたわけです。
 入社から1年半後に、当時使っていたカビよりも5倍生産性の高いカビを発見し2年後に新製品として発売されました。非常に貴重な経験になりました。入社2年で新物質の発見と実用化を体験できたからです。

岡部 会社にも大いに貢献されたわけですが、そのペクチナーゼは、何に使っていたのでしょうか。 

遠藤 ワインとか果汁のにごりと澱を取るのに用います。

岡部 そのご功績で、二年間の海外留学が認められたのですね。  

遠藤 そうです。留学前に学位が必要だったので、その後数年間学位を取るために、ペクチナーゼの研究を続けました。

〇アメリカへの留学の成果

岡部 1966年には、三共からニューヨークのアルバート・アインシュタイン大学へ2年間留学され、糖代謝の研究で有名なバーナード・L・ホレッカー博士のもとで研究されたそうですが、そこで得られたもの、当時の米国の基礎科学分野での研究体制から学ばれたことなどお聞かせください。 

遠藤 若い研究者がのびのびと研究をしていること、業績が合理的に評価されること、世界中の優秀な科学者に門戸を開き、受け入れていること、学閥を感じさせないことなどを留学で再認識しました。

岡部 基礎化学の分野でも、当時のアメリカはお金に糸目をつけず、研究資金を投入していたのでしょうか。

遠藤 アメリカの大学は、当時の日本の大学に比べはるかに研究費も潤沢でした。それに加え、何しろ研究者が優秀で馬力がありました。アグレッシブだし、自分たちが世界一だという顔をしているし、仮に研究資金が十分あってもまともに喧嘩しては勝てないと悟りました。   

岡部 アメリカ留学時に、メルク社のCEOになったロイ・パジェロス博士とすれ違われたのは、その後のスタチン開発競争に大きく影響したのではなかろうかと言われていますが。

遠藤 その頃から、アメリカでは企業と大学や研究所間の人の交流が随分ありました。パジェロス博士は、私が留学する直前の1966年夏にNIHからワシントン大学の生化学科へ移りチェアマン(教授)をやっていました。私は彼に留学希望の手紙を出したのですが、なかなか返事がこなかったので、アルバート・アインシュタイン大学に決めたのです。その直後に、「返事が遅くなったが、ぜひ来てくれ」と連絡してきましたが、断らざるを得なかったのです。それから9年後の1975年に、彼はメルク社の研究所長に引抜かれ、そこで私たちがコンパクチンを発見したことを知ったのです。 

岡部 産学共同というのは、もう当時から常識だったわけですね。 

遠藤 そうでした。パジェロスが大学からメルクに移ったのはその一例です。日本が産学官連携に目覚める20、30年も前から、産学官の緊密な繋がりがあったということです。

岡部 そうですね。やはり、そういう繋がりがあるわけですね。金融の世界でも、連銀の総裁や財務長官に、ゴールドマン・サックスの社長などがなるのですから。ところで、アメリカには、当時から大学や研究所でも自由に研究ができる環境が整っていたのでしょうか。日本のようにピラミッド型になってないフラットな研究体制ですね。 

遠藤 上下関係や、しがらみにあまりとらわれないで、本当に好きなところで、やりたいことができるという雰囲気がありました。自由に動けるし。のびのびと研究ができて、しかも、成果が出ると、それがもう、すぐ合理的に評価される体制ができていました。
 もう一つ、アメリカがすごいのは、博士号をとった若い優秀な研究者を世界中から集めて育てていることです。日本からもインドからも。

岡部 そうですね。医療分野でも、アメリカの医師の3割近くはインド人と言われていますから。

遠藤 アメリカはそういう人たちを手足に使って研究をしているわけですから、彼らと喧嘩してもダメだと思いました。でも、いくら強い相手でも、どこかにやはり弱点があります。舞の海が足を取って、千代の富士を倒したこともあったのですから。

岡部 それにしては、新薬開発の分野では、最近の日本は結構健闘していますね。アメリカには、足元にも及ばないにしても、ほかの先進国と比べると、開発力がある方ではないでしょうか。 

遠藤 私の経験は、40年前の話です。今は随分よくなってきました。その頃は、海外で売れる日本の薬は、いくつもなかったとおもいます。

岡部 その当時に比べると、開発段階だけではなく、基礎研究の体制もよくなったのでしょうか。 

遠藤 国際的な視点で基礎研究の体制が整備され、研究者の視野が広くなったのは、大きな変化です。

〇コンパクチンの発見

岡部 アメリカ留学から帰られて、2年後の1973年にコンパクチンを発見されたのですが、コンパクチンの成分は、基本的には、ペニシリンと同じようなものでしょうか。ちょっと分子式が違うだけで。 

遠藤 そういう見方もできます。コンパクチンもペニシリンと同じ仲間の青カビが作る天然物です。構造(分子式)はかなり違いますが、神さまから見れば同じようなものかもしれません。 

岡部 カビという点では同じなら、おそらく、フレミング博士も、何千種というカビの中から、ペニシリンのような抗生物質を探したのでしょうね。

遠藤 いいえ、そうではありません。そこのところが、大きく違っているのです。フレミング博士は医師で、細菌学者です。フレミング博士は、感染症の予防と治療に興味がありました。そういう思いから、卵白、涙とか鼻汁の細菌を殺す物質を研究していたのです。その研究中に、たまたま置いておいたシャーレ(実験皿)の中に、青カビが飛び込んできて、病原菌を殺していることに、彼は目をつけたのですね。1928年のことです。

岡部 それはたまたま誤って起こったことで、そのような働きをするカビを探索した結果の成果ではなかったのですね。

遠藤 そう、たまたま発見したのです。ただ、たまたま見付けたのですが、普通の研究者なら、変なカビが生えたぐらいで、捨てるわけですが、彼は、そこが普通の科学者と違っていたのです。

岡部 ストレプトマイシンはどうなのでしょうか。これは、結核菌を殺すような細菌があるという仮説を立てて、意図的に探したのでしょうか。

遠藤 そうです。ワクスマンはメルクの支援を受けて、1939年に、土壌微生物から抗生物質を探す研究を立ち上げました。その中で、1943年に結核の特効薬ストレプトマイシンを発見しました。ワクスマンは計画的に探して成功した最初の科学者です。 

岡部 フレミングのペニシリンとワクスマンのストレプトマイシンは発見の動機が、まったく異なるということを、初めて知りました。

遠藤 ワクスマンは土壌中の微生物を研究する農業微生物学者で、多くの微生物を収集していました。それにメルク社が目をつけて、お金を出した産学共同研究です。ワクスマンは4年間かけて数千の土壌微生物(放線菌)を調べ、1943年にストレプトマイシンを発見、その1年後か2年後に、メルク社が売出したのです。 

岡部 先生の発想は、このワクスマン博士に近いわけですね。コレステロール値を引下げる作用を持つカビが必ず存在するという仮説を立てられたわけですから。

遠藤 そうです。ワクスマンとフレミングが狙ったのは抗生物質です。私の研究も微生物から薬を作るという点は同じですが、抗生物質以外の世界に目を向けた点が、根本的に違います。抗生物質以外の薬を微生物から探して成功したのは私が最初です。 

岡部 手法としては、ワクスマンに似ていますが、高脂血症のように細菌やウィルスとは全く関係のない病気まで、カビ由来の薬で治せるという仮説を立てられたのは、すごく独創的な発想ですね。まったく違う分野で、探せば見付かるという確信をどうしてお持ちになれたのですか。

遠藤 100%確信があったわけではありません。私が考えて100%確信を持てるようなことは、他の人がやっているでしょうから。

岡部 そこで、有効なコレステロール低下剤の開発を目指して、2年間で6,000株もの菌類を調べ、73年には73年にはコンパクチンを発見されたものの、動物試験でラットには無効であったために、開発中止となったのですね。たまたま雌鶏と犬のコレステロールを劇的に低下させることが分かった経緯は有名ですが、基礎研究での検証体制にどのような問題があったのでしょうか。

遠藤 世界中の研究者が「(健常)ラット」に効けば人にも効く、ラットに効かないものは人にも効かないと考えていたのです。高コレステロール・ラットはそもそも存在しなかったのです。

岡部 新薬の効能は、必ずラットで検証しなければならないというのは、私ども素人には、理解できないところです。高血圧ラットを作って血圧降下剤の検証が行われているのは、よく知っていますが、それであれば、高コレステロール・ラットを作ってから試験をするのが、筋ではないかと思うのですが。 

遠藤 薬を含む医学の領域には、予測不可能な想定外のことがたくさんあるのです。生命のことは、分かったようなつもりでも分かってないことが多いのです。私の例で言えば、当時は世界中が、新薬はラットで効かないとダメだと決めつけていた時代でした。第一関門がラットに効くこと、しかもラットで安全であることでした。 

岡部 決して三共の研究所だけが頑固であったというわけではなくて、世界中がそういう状況であったわけですね。 

遠藤 そうです。ところが、私はへそ曲がりなのか、薬を飲むのはヒト、患者だろう、最後は患者に効けばよいだろう、ラットに効かなくても、ヒトに効くものがあったっておかしくはない、と考えたのです。 

岡部 それで、雌鶏と犬で著効が確認されて、第一関門は突破されたのですが、その後もラットでの試験で肝毒性が出たとして、開発中止となり、大阪大学の山本章医師の協力で、重症患者に顕著に効くことが分かって開発が軌道にのりましたが、1980年には発ガン性騒動でコンパクチンの開発が中止されてしまいました。ようやく1989年にメバロチンが売出されたわけですね。イヌの毒性検査の段階で、発ガン性があるとして三共がコンパクチンの開発を中止した判断で、結果的にメルク社に先を越されたわけですね。

遠藤 日本人は、理詰めでものごとを進めていくことが苦手です。新薬開発は、未踏の山登りと同じで、途中で予測しなかった障害にぶつかるのは当たり前です。安全性の障害が出てくると、日本はことのほか弱い。基礎医学の最新の成果に基づいて、論理的に攻略しようとせずに、みな萎縮して、護身にまわり、退却してしまうのです。 

岡部 当時は、大きな薬害訴訟もあり、慎重対応を選択した気持ちも分からないではありませんが、患者の立場からいえば、効いて安全なのが一番よいには違いないとしても、薬にはある程度の副作用は必ずあるので、要は、比較衡量で決めるべき問題ではないかと思うのですが。 

遠藤 アメリカでは「リスクとベネフィット」を合理的に評価する習慣が科学者だけでなく、一般にも浸透していました。しかし、この方法は日本では通用しなかったのですが、阪大第二内科山本章医師による重症患者の治療が決定的な役割を果たしました。これがなかったら薬になっていなかったと思います。 

岡部 そうでしょうね。だけど、それで山本章先生の患者さんも助かったわけですね。 

遠藤 そうです。でも、山本章先生のような進取の気に満ちた方は日本にはあまり見られません。アメリカには大勢いますけど。そこが、結局、勝敗の分かれ目で、想定外の困難を乗り切るところから、新しい発見が生まれるし、医学も科学も進歩するのです。そのような進取の精神に蓋をしてしまっては、進歩が止まります。そこのところが、日本は弱いですね。足腰が弱いというか、力不足です。

岡部 それは、問題ですね。メルク社が、水面下で動き出したのは、先生がすでに三共を去られてからですが、彼らの底力はどこからでてきたのでしょうか。

遠藤 コンパクチンの発ガン性騒動でメルクもロバスタチンの開発を一時中止しました。しかしその後、アメリカでは、ノーベル賞受賞者2人を含む、世界トップクラスの医師たちがチームを組んで、メルク社をサポートして問題を解決し、ロバスタチンを先に上市することができたのです。日本にはそういうものがなかったのです。アメリカのチームを日本に引っ張ってきてやればよいわけですが、残念ながら、なかなかそこまでいきません。やはり、本当に世界のトップランナーとして、戦っていくとためには、そういう国際的なネットワークをいつでも作れるようにするところまでいくことが、必要だと思います。

〇日本国際賞の受賞

岡部 一昨年に受賞された日本国際賞というのは、日本のノーベル賞みたいなものですね。

遠藤 ありがとうございます。

岡部 この日本国際賞は、1985年に、ノーベル賞に匹敵するわが国最高の科学技術賞として発足し、毎年二つの科学技術分野を定めて独創的な研究成果を挙げられた1~3名の研究者に賞牌と5千万円の賞金が贈られるもので、これまで24年間の受賞者64名中、日本人は11名となっています。江崎玲於奈博士は1973年にノーベル物理学賞を受賞、1998年に日本国際賞を受賞しておられますね。

遠藤 昨年(2007年)春に日本国際賞を受賞した中の二人が同年秋にノーベル物理学賞を受賞しています。この二つの賞のダブル受賞が多くなることを関係者は喜んでいるようです。

岡部 受賞歴だけではなく、やはり国際的に学会で認知されることが重要ですね。

遠藤 そうです。世界中で使われている医学の教科書"Lehninger Principles of Biochemistry"には、パスツールをはじめとする100人の生化学者が顔写真入りで紹介されています。最近出版された改訂版には私も出ています。大変名誉なことです。 

岡部 その100人の生化学者のなかに、日本からは遠藤章博士お一人だけが入っておられるのは、すごいことですね。

遠藤 その100人のうち、70人近くがノーベル賞受賞者です。

岡部 先生のこれだけの業績に対し、2年前に日本国際賞が贈呈されたのは当然ですが、それにしても、1973年にコンパクチンを発見され、1987年にロバスタチン(商品名;メバコア)がメルク社から、1989年にはメバロチンが三共から発売されてからでもすでに20年近くが経過しています。最初のウィーランド賞は、ロバスタチンが上市した1987年にドイツで貰っておられるのに、日本で評価されるのに、どうしてこんなに時間がかかったのでしょうか。

遠藤 それは、私からもお聞きしたい質問です。あえてお答えしますと、ひとつには、この仕事の特徴にあると思います。というのは、新薬の開発には、成分の発見から15~16年はかかります。その薬が売れ出してから、本当に効いて、しかも安全だということが分かるのに、また10年ほどかかるのです。 

岡部 なるほど。成分が発見されてから、それが本当に効いて、安全であることが実証されるには、30年近くかかるという、そういう必然的な要素もあるわけですね。

遠藤 ですから、仕方がない面もあります。 もうひとつつけ加えますと、抗生物質は、今日飲んだら、効いたか効かないか明日分かるのです。けれども、このスタチン系薬剤の最終目的は、コレステロール値を下げることではないのです。コレステロール値を下げて、それで心筋梗塞が減少して、しかも長生きしなければならないのです。それが全部分かるのには、やはり最低10年はかかります。それが分かったのが、1990年代の半ば以降です。 

岡部 その後5年ぐらい経って顕彰されたというのは、そんなに遅くもないということですね。 

遠藤 そうも思います。それと、スタチン剤には、発見に関するメルク社との主導権争いがありました。この主導権争いは苛烈なものでした。

岡部 でも、先生の発見であることは、ちゃんと研究論文で証明されていたのではないでしょうか。しかし、三共のメバロチンが製品として、第1号にならなかったことも、発見に関する主導権争いに影響しているのですね。 

遠藤 そういうことです。しかし発見の主導権争いでは、メルクも最終的には私がパイオニアであることを認めました。

岡部 今は、メルク社も、先生を賞賛しているわけですね。

遠藤 そうと決まったら、それ以後はフェアです。日本の一部の企業のように義理だの人情だのと言っていつまでもこだわっていたのでは、国際社会からとり残されてしまいます。 

岡部 現在では、ワーナー・ランバートからファイザーが引継いだリピトール(アトルバスタチン)が3番手か4番手で出てきて、年間137億ドルと世界一よく売れている薬になっていますが、これは他のスタチン剤と根本的に薬効に違いがあるのでしょうか。

遠藤 いいえ、根本的に違うのではなく、効力が強いか弱いかの差です。

岡部 でも、ロバスタチン、プラバスタチン、今のリピトールといったスタチン系の薬は、ほんのちょっと構造が違うだけで、基本は先生の発見されたコンパクチンと同じであるわけですね。 

遠藤 そうです。重要な部分の構造はすべてコンパクチンと同じです。コンパクチンの発見がなければスタチンは存在しなかったということです。

岡部 そのコンパクチンの化学構造が分かっておれば、その変種を合成できるわけですね。

遠藤 大事な部分をそのまま残して、他の部分を変えるだけで、色々なスタチンができるわけです。 

岡部 そのコンパクチンの特許は、発見時にとられなかったのでしょうか。 

遠藤 特許権は会社の名前で持っています。でも、私が発見したのは1973年、特許を出願したのが74年ですから、1994年に20年間の特許期間が切れています。

岡部 1994年に切れているのですか。今や、この新薬としてのピークは過ぎて、後発薬が次から次へと大量に出てくる時代ですね。 

遠藤 よく、中村さんの青色発光ダイオードと対比していろいろ聞かれますが、コンパクチンの発見は青色発光ダイオードよりも20年も昔の話です。

〇若手研究者へのメッセージ

岡部 ところで、基礎研究に戻って、研究者の大先輩として、後進の研究者へのメッセージを頂けませんでしょうか。

遠藤 若い研究者には、国際的な視野を持って、大きな夢に向かって挑戦してほしいと思います。大きな夢は、若い人の特権です。30代で挑戦することです。

岡部 何事もそうでしょうが、基礎研究は、まさにそうでしょうね。 

遠藤 ノーベル賞物理学賞と医学・生理学賞をもらった受賞者が、受賞対象になった研究を何歳で始めたか、という統計がありますが、80%が30代です。もちろん、仕事を完成させるのは40代、50代なってからということもありますが。20代では、ちょっと早過ぎ、30代がやはり一番大事な時期のようです。私は、37歳でスタチンの研究を始めました。 

岡部 ちょっと遅かったわけですね。 

遠藤 そうです。いろいろ、寄り道をしました。でも、寄り道のお蔭でできたのかもしれません。若い研究者たちには、ぜひ30代で挑戦してほしいものです。
 それから、国際的によい師、よい仲間を持つことが非常に大事だと思います。私は、非常によい師と仲間に恵まれました。30代半ばに、コレステロール生合成の研究でノーベル賞を受賞したコンラード・ブロックと出会い、40代半ばには、ジョセフ・ゴールドスタインとマイケル・ブラウンの2人と知り合いました。2人はその後ノーベル賞を受賞しました。私はこの人達から研究の進め方だけでなく、科学者の生き方も教わりました。

岡部 そうすると、ずっと日本にいてはダメですね。

遠藤 いいえ、海外とも簡単に交流ができる時代です。

岡部 そうですね。本日は、ありがとうございました。

(2008年9月10日、医療経済研究機構発行「医療経済研究機構レター(Monthly IHEP)」No.168 p1~9 所収)

<追記>本稿掲載誌発行直後の2008年9月14日に遠藤章博士は、米国で「ラスカー賞」を受賞された。 以下に、これを報じた産経新聞紙の記事を転載させていただいた。
 

遠藤章氏にラスカー賞 日本人で5人目

2008.9.14 18:54

ラスカー賞に選ばれ、喜びを語る遠藤章氏=14日午後、東京・丸の内の東京商工会議所 ラスカー賞に選ばれ、喜びを語る遠藤章氏=14日午後、東京・丸の内の東京商工会議所

 動脈硬化の主要原因として知られるコレステロールの血中濃度を下げる薬を発見した遠藤章東京農工大名誉教授=写真=に14日、米国最高の医学賞「ラスカー賞」が贈られることが決まった。同賞は「ノーベル賞の登竜門」ともいわれ、日本人受賞者は、ノーベル医学・生理学賞を受賞した利根川進マサチューセッツ工科大教授らに続き5人目。授賞式は26日にニューヨークで行われる。

 遠藤名誉教授は東北大農学部卒業後、三共(現第一三共)発酵研究所第3室長、東京農工大教授を経て、現在、バイオファーム研究所長。1973年にアオカビの培養液から発見した血液中のコレステロール値を劇的に下げる物質は、世界で3000万人以上が使うコレステロール低下薬「スタチン系薬剤」に発展した。

 遠藤名誉教授は米国のウォーレン・アルパート賞、マスリー賞、日本国際賞などを受賞している。

 遠藤名誉教授は「開発には十数年かかり、山あり、谷ありの困難があってようやく今日にいたった。国内外の協力がなければ成し得なかった」と話した。

 東京農工大は14日、遠藤名誉教授に特別栄誉教授の称号を授与した。

 

 

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