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アルバニアの悲劇

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 本年二月下旬にねずみ講式投資会社の破綻が引き金となって武装暴動にまで発展したアルバニアの内乱は、国連多国籍軍の介入によって総選挙も平穏裡に完了し、漸く沈静に向かいつつある。

 私がこの国を訪れたのは、12年前の1985年9月5日であった。当時、アルバニアは完全な鎖国状態で、入国するには予め政府からの招待状を取得し、訪問先の責任者に空港まで出迎えて貰わねばならなかった。幸い世界第二のクローム産出国のアルバニアは鉱石を日本へ輸出し、機械類を輸入していたので、この取引に関連した貿易金融のオファーなどの用件で中央銀行へ交渉に出向いた次第である。ところが、中銀総裁は開口一番、アルバニアは憲法で一切の借入を禁止しており、ごく短期間の支払猶予を受けるユーザンスLCの開設すら不可、輸出入共に現金決済しか出来ないとのご託宣で、交渉は早々に打ち切らざるを得なかった。

 遠路はるばる来たのだからと、総裁の好意で美人秘書が案内してくれたのは、15世紀中頃に一時的にオスマン・トルコから独立を達成し、今なお民族的英雄として叙事詩や伝記に語り継がれている闘士スカンデルベグが築いた城塞の跡であった。彼の掲げた軍旗の赤地に黒の双頭の鷲が現在のアルバニア国旗となっている。

 アルバニア人はバルカン半島では、最も古い民族の一つに属しているが、この一時的独立を別にすれば、常に異民族の征服下にあった。1912年に独立宣言をしたものの、第二次世界大戦ではイタリアに併合され、真の独立を果たしたのは戦後1945年のことである。

 独立後は、旧ソ連圏に属し、独裁者ホージャ大統領のもとでマルクス・レーニン主義に最も忠実といわれた模範的な共産主義社会を構築した。憲法で個人所得の上下格差は5倍以内、男女は完全に平等と定められた。宗教活動は厳禁され、戦前には国民の70%が信仰していたイスラム教のモスクのみならず、キリスト教会はすべて閉鎖された。一方、文化活動や教育には力を入れ、ティラナの中央広場に面して立派なオペラ座が建っている。

 アルバニア国立大学も広大な敷地に5~6階建ての校舎が整然と並び、立派な大スタジアムを持っていた。もともとアルバニアは有能な人材を輩出し、古くはコンスタンティヌス帝をはじめ傑出したローマ皇帝を送り出している。最近では、カルカッタの貧民窟で奉仕活動を続け、1979年にノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサもアルバニア人で、彼女は自国の平和回復を神に祈るだけではなく、アルバニアの同胞に冷静な行動をとるよう外から呼び掛けている。

 アルバニアは国民総生産が1996年で一人当たり380米ドル、中央アフリカ諸国並みの最貧国であるが、人口は330万人と少なく、地味も豊かで食糧の自給体制は確立している。私が訪れた当時の印象では、鎖国の影響で自動車や家電製品などは乏しいものの、住宅は全国民に供給され、国民すべてがほぼ同一の生活水準が保障されている平等な共産国家であった。

 首都ティラナでは夕方5時頃になると、車がないので広々とした市内の大通りに市民の殆どが繰り出して、仲間とぺちゃくちゃ喋りながら夕餉前の一時を楽しむといったほかの国では見られないようなのんびりした生活慣習が根付いていた。この夕暮れ時の全員散歩は政府が強制したことではなく、自然発生的に定着したとの説明であった。

 このように生活水準は低くとも物心両面で安定した生活を続けてきた国民が、何故に突如、ねずみ講式の投資会社の破綻を引き金に内戦に走り、統治能力を完全に失った政府が外国に支援を求めるという極度に混乱した事態に陥ったのであろうか。

 アルバニアは1990年に鎖国が解かれて市場経済に移行し、その後も米国などからの積極支援もあって順調に経済発展しているものと思われていた矢先の出来事だけに驚きも大きい。そもそも、この国でねずみ講式の投資会社が隆盛を極めるに至ったきっかけは判然としないが、どうやら隣国ユーゴの内戦に求められそうである。

 ユーゴでは昨年末の和平実現まで数年に亘って民族紛争が続き、外国からの経済制裁もあって物資が極端に不足していた。この間、アルバニア経由で武器だけではなく、石油や食糧などの必需品が密輸され、これを扱う商人は特需景気に潤ったが、同時に多額の資金を必要とした。正規の金融機関が少ないアルバニアで裏金融の投資会社が急成長したのは頷ける。ボスニア和平成立後は、アルバニア経由の密輸ルートは不要となったが、一旦高利運用のうまみを知った国民も投資会社も、破綻に陥るまで自己増殖せざるを得なかったのであろう。

 かつての幾多のバブルの歴史と軌を一にしているが、アルバニアでは他の投資対象が乏しかったため、全家庭の70%がねずみ講投資に参加した結果、被害総額が国民総生産の30%にも達した訳である。

 もう一つの疑問は何故、一般国民が武装し、国土の半分を制圧するような異常事態にまで発展したのかという点である。この国の過去との関連でいくつかの点が目につく。一つはアルバニアでは余りにも理念通りの共産主義体制が確立していたため、国民が資本主義や民主主義の本質を理解できなかった点であろう。また、全く資本の不十分な段階で急激な市場経済化を推し進めようとした政府の方針にも大きな誤りがあったといえよう。

 二つ目は政治体制の問題で、西欧化・資本主義化を旗印に政権をとったベリシャ大統領は、経済面での自由化は強力に推し進めたものの、政治では旧共産党などの反対勢力を容赦なく弾圧した。これは事実上、形を変えた一党独裁で、共産党政権下でのホージャ大統領のやり方と本質的に何ら変わらない。アルバニアの民主化自体、冷戦の終結で外部から与えられたものであったため、共産主義に代わる新しい政治体制の目標も定まっていなかった。

 加えて、旧体制下では全人民武装による国家防衛が唱えられて、武器が全家庭で保有されていたことが、人々を暴動に駆りたて混乱に拍車をかけた一因となった。共産主義という悪い制度を捨てさえすれば、たちまち万事巧くいこうというのは幻想である。旧い樹が倒れた後に新しい樹が育たなくてはならない。

 それには時間もかかるし、途中で困難に直面するのが常である。アルバニアの悲劇から体制転換の難しさをつくづくと痛感した次第である。

(明光証券㈱相談役)

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 (1997年8月発行、日本証券経済倶楽部機関誌「しょけんくらぶ」第62号所収)





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