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ミレニアム・オペラの夏

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 昨年の夏、ヨーロッパはミレニアム記念の行事で沸いていたが、英国の夏の風物詩といえば、やはり昔ながらのアスコット競馬とヘンレイ・レガッタ、それにグラインド・ボーンのオペラということになる。八年前までのロンドン在勤中には毎夏二・三回は観劇の機会に恵まれたグラインド・ボーンのオペラを、今ロンドンに住んでいる子供達にも一度は見せておいてやりたいと思い立ち、漸く伝手を求めて入手困難な「コジ・ファン・トッテ」のチケットを確保した。

 ところが、偶然にもグラインド・ボーンの劇場で旧知の樋口廣太郎さんご夫妻と三枝成彰さんご夫妻にお会いし、両ご夫妻からロンドンへ来る前に観てこられたオーバーアマガウでのキリスト受難オペラが、これまでにご覧になったオペラの中でも最高に感動的であったというお話をお伺いした。「パッション・プレイ」と呼ばれるこのキスト受難オペラは十年に一回の催しであり、ぜひ今年観ておいたらと強く勧められたので、インターネットで交渉したところ、幸運にも一年前に売切れ済みの筈のチケットが二枚手に入った。お陰で家内と南ドイツへの二泊三日の小旅行を楽しむことができた。

 グラインド・ボーンとオーバーアマガウのオペラに共通しているのは、どちらも劇場が大自然に囲まれた辺鄙な場所にあり、役者の教育に熱心で素晴らしい演技が観られるというだけではなく、旧いオペラに常に斬新な演出で新鮮味を加え、世界最先端の創造性を目指している点にある。このことを肌身で感じることができたのが、昨夏の大きな収穫であった。

 グラインド・ボーンはロンドンの南六五キロ、サセックス州にあって車でも汽車でもロンドンから二時間ほどかかる。周囲は広大な牧場で牛や羊が悠然と草を食んでいるが、劇場の敷地との境には深い溝が掘ってあって侵入してくることはない。劇場を出ると色とりどりの花が咲き競う英国式庭園があり、その先の広い芝生で、九〇分の幕間にピクニック・スタイルの夕食を楽しむ人も多い。服装も依然として男はブラック・タイ、ご婦人方はイブニング・ドレスの慣例が守られており、ジーパンでも入れてくれるコベント・ガーデンとは一線を画している。

 このユニークな田園オペラ劇場を創立したのは、科学者で軍人でもあったジョン・クリスティー卿という金持ちである。親から相続したこの土地に、恋に陥った二二歳年下の新人オペラ歌手オードリー・マイルドメイのために三一一席のオペラ劇場を一九三四年に建築した。第二次大戦後に八三〇席に拡張され、還暦を迎えた一九九六年には最新技術を採り入れて音響効果も抜群の一二〇〇席の馬蹄形劇場に改築された。二代目の現当主サー・ジョージ・クリスティーは商売上手で、この改築費をシティーを中心とする大企業から集めた寄付金で賄った。コベント・ガーデンやパリのオペラ座のように公的支援に頼ることなく、法人会員比率を七五%にまで高めることで、運営の自主性を保ちながら質の高いオペラを提供し続けているのは立派である。

 グラインド・ボーンの創設者ジョン・クリスティー卿は、この劇場でワグナーなどの重厚なオペラの上演を計画していたが、妻のマイルドメイはこの規模と雰囲気に相応しい出し物はモーツアルトを措いてほかにはないと主張し、創設来毎年モーツアルトが公演の中心となっている。昨年話題となったのは、演出家ブレアム・ヴィックのアイディアで「コジ・ファン・トッテ」に「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァニ」を加えた三作品を同じセットを用いて上演するという奇抜な試みであった。しかも、歌手達は時代物のきらびやかな衣装やかつらは身につけず、現代風の軽快なスタイルが緞帳も取り払ったシンプルな舞台にマッチしているように思えた。モーツアルトの同じ歌劇を毎年くり返し上演しながらも、観客に飽きられないのは、このような弛まざる革新的なアイディアに支えられているからであろう。

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 南ドイツのオーバーアマガウはミュンヘン空港から汽車で二時間半、ミュンヘンとオーストリアのインスブルックのほぼ中間に位置するアルプス山麓の谷間の小村である。有名なノイシュバンシュタイン城からは車で三〇分ほどと近い。人口はわずか五三〇〇人、緑の原野に清冽な小川が流れ、小鳥が囀っている大自然そのままののどかな村である。木彫や酪農が主で、冬場はスキー・リゾートとして賑わう。この静かな村が十年に一回、五月から九月まで、毎週五回のキリスト受難劇を村中総出で公演する。

 この村は十七世紀の初めに黒死病が欧州を襲った時に、キリストの加護を祈って奇跡的に災難を免れた。信仰心に篤い村人達が感謝の念をこめて、神に捧げるキリスト受難劇を一六三四年に演じたのが最初で、爾来ほぼ十年毎に開催されている。二〇〇〇年は丁度四〇回目の公演に当たり、ミレニアムとも重なって一際力が入っていた。

 村外れにある四七〇〇席のかまぼこ型の劇場は昨年八〇億円を投じて改築され、音響効果もよく快適であった。舞台は吹き抜けで青空が見えたが、雨の日はずぶ濡れになっても公演を続ける。この舞台にピーク時には六〇〇人の村人がキャストとして登場するのは圧巻である。

 このキリスト受難オペラはロバに跨ったキリストのエルサレム入城から、最後の晩餐、ヘロド王の前での審問を経て十字架に架けられ、復活するまで十日あまりの出来事を十二幕で具に再現する。十二幕すべてが旧約聖書の故事による予示を背景に歌唱するオペラとシェクスピア劇のようなリアルなプレイの二部構成となっている。朝九時半に始まり、三時間の昼休みを挟んで六時半まで、正味延々六時間の長丁場であるが、プレイの迫力に圧倒されて居眠りをする暇もなかった。

 この受難劇は四〇〇年近く続いているものの、解説によるとテキストは頻繁に書き換えられ、音楽や演出にも次々と新機軸が打出されている。二〇〇〇年の公演では、金が目当てでユダがキリストを裏切ったというこれまでの聖書の解釈は間違っているとのユダヤ人グループからの抗議を学者に諮問した結果、裏切ったのは信条の違いに由来すると変更している。さらに台詞の六〇%を書き換えて判り易くしたという。

 このオペラに出演できるのはこの村に二〇年以上住んでいる者に限られており、素人集団かと思われ勝ちであるが、村からの助成金で音楽大学を出た若者が多く、激しい競争のオーディションに勝ち残った歌手や役者はプロ並みの技量を持っている。さらに驚くのは、辣腕で評価の高いクリスチャン・スチュックルという今回の総監督は十年前に弱冠二八歳で指名されている。また、主役・脇役のほとんどが二〇・三〇歳代の若者で占められており、伝統を受け継いできた古めかしいプレイを若々しく演じている豊かな創造性に感銘を受けたのは私一人ではなかろう。

(個人会員、広島国際大学教授)

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(平成13年2月22日日本証券経済倶楽部機関誌「しょうけんくらぶ」第69号22-23頁所収)

追補:2023年2月4日付け日経新聞「文化欄」

ドイツの村で劇を見た・栩木伸明.pdf






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