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満州ノスタルジーの旅 ~ 「滬友・建大・長春ツアー」に参加して

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 終戦の一九四五年、当時小学校五年生であった私は、四月からの一学期を旧満州国新京(現在の長春)の東安小学校へ通った。父が終戦の前年の十一月に建国大学に奉職することになり、半年ほど遅れて母・祖母・妹二人の一家五人も渡満したからである。父は建国大学には半年勤めただけで、国民兵として召集され、終戦後はソ連に三年間抑留されていた。残された家族五人は、八月初めにソ連軍が侵攻してきたので、北朝鮮へ疎開、終戦後安東(現丹東)に一年余り抑留されて、翌年の十二月に故郷へ引揚げてきた。

 父が勤めていた建国大学(建大)の地を再訪したいものとかねてより念願していたところ、東亜同文書院同窓の滬友会、建大同窓会、愛知大学同窓会が組成する「滬友・建大・長春ツアー」に建大教員遺族としての参加を歓迎したいとのお誘いを受けた。おかげで、今年の八月二十一日から二十六日まで、じつに六四年ぶりに長春再訪が実現し、瀋陽・大連・旅順にも立ち寄ることができた。

〇愛知大学現代中国学部の中国現地研究実習と「日中学生国際シンポジュウム」

 愛知大学現代中国学部は、夏季休暇中に三週間ほどを費やしての中国各地でのフィールド研究実習を、すでに十年連続して行なっている。今年はその第十一回目が長春の東北師範大学と提携して行なわれ、その最終日二日間に企画された締めくくりの「シンポジュウム」の傍聴に父兄や同窓生が招かれたものである。

 この日中交流プロジェクトでは、愛知大三年生四十名が農村班、企業班、都市社会班に分かれて、二週間掛けて、中国側の学生の斡旋で、学生各自が設定したテーマに即した対象先を往訪する。そこで、インタビューをし、アンケートを回収し、現場を見学する。シンポジュウムでは、その結果を一人八分間内にとりまとめ、中国語で報告をする。レジュメは日中二ヵ国で用意され、パワーポイントで画像などもふんだんに披露される。

 丸一日を費やして愛知大生が研究成果を発表し、これに対して中国側学生から質問が出され、翌日に日本側から回答、さらに討議を重ねると言った形式で、周到に準備されていた。とり上げられたテーマは、中国農村のごみ処理の現状、長春農民の結婚観、農村と都市との収入格差、企業の環境保護対策、長春市民の娯楽事情といった興味深い話題が多岐に亙っていた。現地調査をスムーズに進めるために春休みには東北師範大学の学生数名が愛知大学に滞在して綿密に打ち合わせたといった徹底ぶりである。学生の手によるこのようなフィールド調査の実施は、中国はもとより、日本でも稀な実地研修である。

 愛知大生の発表で感心したのは、いずれも問題意識が明快で要点が的確にまとめられていたことであった。また、愛知大学生の中国語のレベルは高く、専門家に絶賛されるほどのものであった。大学教育の質が劣化している昨今、このように手間隙をかけた手作りの現場教育を実践して来られた先生方の指導と中国側の真摯な対応には頭が下がった。

 愛知大学は一九〇一年に上海に設立された東亜同文書院の教職員が中心となって、終戦の翌年に四九番目の旧制大学として創立された異色の大学である。創立当初から中国をはじめアジアに向けて開かれた情報発信基地としての使命を掲げて、一九九七年に現代中国学部を設置、二〇〇二年には文部科学省から「二一世紀COEプログラムに「国際中国学研究センター」が採択されている。学生による現地でのフィールド研究もこのような土壌の中で育ってきたものと言えよう。

 今回の旅の機縁となった亡父は、建大の助教授になるまで京大大学院に在籍して中国経済のフィールド研究に従事していた。その一つであった中国紡績業における労働慣行の実態調査報告は、委託元の東亜研究所に提出されたが、終戦で日の目を見ることなく忘れられていた。父は晩年にこの五〇年前の研究成果の出版を思い立って、全面的に書き直したのであったが、原稿の完成直後に亡くなった。そこで、この原稿を九州大学の西村明教授にお願いして監修と出版を引受けて頂き、父の没後一年目に五二五ページに及ぶ大部の「旧中国紡績労働の研究」上梓に漕ぎつけた。本書に対し、愛知大学の川井伸一教授から「本書は戦前の中国紡績労働状況に対する極めて詳細な事実調査報告書であり、本書の価値はまずこの徹底した事実調査にある」として、懇篤な書評を専門誌にご寄稿頂いたことを感謝の念とともに思い起こし、今回の旅行で愛知大学の現地調査研究を重視する土壌に改めて感じ入った。

 長春で最高ランクの東北師範大学との提携は、建大五期で、愛知大の卒業生でもある佐藤達也氏と東北師範大学で教鞭を執ってこられた中国人同窓生との建大同窓会を通じての交流が端緒となり、実現したとのことであった。佐藤氏とご同期の中国人四名の方々との会食に、建大教員の遺族として招かれた懇談の席上、中国人にとっては日本人中心の建大在学が戦後に障害になったものの、全員が別の大学に移って、卒業後は大学での教職や教育行政に携わってこられた経緯をお伺いした。建大での絆が、七十年後に生かされた縁の素晴らしさに感激を覚えた次第である。

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〇旧満州・建国大学の回想

 父が終戦の前年から半年あまり奉職した建大は、「五族協和」の理念をもって満州国の中核的人材を育成するために一九三八年五月に開学した。当初から国際性豊かな満州国立の最高学府であった。前期(予科)三年と後期(政治学科、経済学科、文教学科の本科)三年の六年間一貫の教育で、全寮制を敷き、授業料も寮費もすべて官費で賄われて無料、大学から学生に毎月五円のお小遣いが支給された。卒業後には、満州国の高官ポストが用意されていた。このため、受験生の建大人気は高く、入試競争率は百倍を超え、建大は海兵や一高・三高並みの難関校であった。

 建大は、陸軍の石原莞爾の「アジア大学」構想に端を発し、辻政信参謀によって原案が作成され、関東軍が敷地を確保した。基本的に日本人学生は半分以下に抑え、中国人・朝鮮人・蒙古人・白系ロシア人学生を幅広く受入れ、寮では五族の共同生活を強いた。授業は日本語で行われたが、中国語が重視され、建大卒業生には中国語に堪能な方が多い。

 前期三年間は、午前中授業、午後は実習、夜は寮などでの集団討議といった時間割であった。期末の筆記試験はなく、レポートの提出だけといった自己啓発重視のユニーク教育方式をとっていた。一九四五年八月に終戦により閉学するまで八期一、四〇四名が在学していた。

 設立は関東軍主導で進められたが、関東軍から独立した満州国の大学としての自由な校風を目指し、当時としてはかなり人間的な学生生活を送ることができたようである。このような自由な学風は、京大経済学部教授から転じて、開設準備を手掛け、初代の副総長(総長は、形式上満州国首相が兼務)に就任した作田荘一先生の人柄によるところが大であった。しかし、作田副総長は一九四二年に抗日地下活動に励んでいた中国人学生が大量検挙された責任をとって辞任され、後任が関東軍から送りこまれた時点で、この学風は潰えたとされている。それでも、私の父のように、マルクス主義者と言うだけで、日本国内の大学では受容れられなかった学者を、副総長に軍人が就いた後の一九四四年になっても採用する度量を持っていたのは、やはり創立時からのリベラルな伝統が残っていたものと思われる。

 建大は、新京(現長春)駅から大同大街(現人民大街)をまっすぐ南に約十キロ、南湖という人造湖を右に見て南湖大路を過ぎたところにある歓喜嶺という二一四・五万平方メートルの広大な敷地に建てられた。もっとも、学生定員は最大でも九百人であり、校舎と九つの寮などの建物自体は簡素なもので、緑の木々もなく、敷地の大部分は農場となっていたようである。

 南湖に面した前期の校舎跡は戦後空軍士官学校に転用されたが、その南に位置した後期の校舎跡は現在「長春大学」となっている。長春大学の設立は、建大五期の中国人で戦後中国の札幌総領事や中日友好協会副会長を務めた後、北京で教育関係の要職に就いていた陳抗氏が構想し、一九八五年に日本の建大OBにも支援が求められてきたプロジェクトであった。これに応えて、日本の同窓会が募金活動を行い、神戸大学の百々和先生など四名が現地に赴いて助言をされた結果、現在では十五学部で学生数一万人を超す総合大学に成長している。

 建大はわずか七年あまりの短い歴史の大学であったにもかかわらず、日本人六三〇人、中国人・朝鮮人・蒙古人・白系ロシア人併せて七七四名と教職員六五六名の同窓生の絆は固い。戦後の混乱時に行方不明となった方も多いが、毎年総会を開き、名簿と会報を発行し、中国や韓国の同窓会と連携するほかに、日中友好に資するさまざまな活動を行なってきている。なかでも、日本人同窓が身元引受人となって、中国人同窓生の子弟など常時百人ほどに日本への留学や就職の便宜を計っているのは、有意義な社会貢献である。五族協和の理想は、開学中には日中戦争の拡大と相容れず実現しなかったものの、戦後にいろいろな形で花開いている。

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〇長春市内観光

 長春は、現在中国東北地域の中央に位置し、南は北朝鮮に接する吉林省の省都で、人口二八〇万人(二〇〇九年末推計値)、東北地域では瀋陽に次ぐ大都市で、大連よりもすこし大きい。長春市の人口は旧満州国の首都・新京であった終戦時の八〇万人に比し三倍以上に膨張している。中国の五大自動車メーカーの一である第一汽車集団の本拠地で、最高級車「紅旗」を生産し、一時は中国内での生産シェアの四割を占めていた。また、大学が二六校もある大文教都市でもある。 

 街路樹はポプラ(漢名は楊柳)が多いが、満州国時代に植えられた松の木もたくさん見られる緑の多い町である。また、空港からの大通りの分離帯には市花である「君子蘭」をデザインしたネオンの飾りが輝いていた。君子蘭は一九三〇年代に日本から持ち込まれたものが、高貴な花のイメージが好まれて戦後爆発的に流行し、一九八四年に「市の花」と定められた。彼岸花の一種で、緑濃い葉は根元で堅く重なり合い、その先から太い茎が立っている。春先に橙色の花が咲き、晩秋には赤い実をつける。

 長春は清朝末期には吉林省内でも吉林に次ぐ地方の小都市で、この地域の軍閥の本拠も吉林に置かれていた。このローカル都市の開発を最初に手掛けたのはロシアであるが、ロシアは大連や旅順のような大規模な建設は行わなかった。市街地の開発が本格化したのは、ポーツマス条約で長春以南の鉄道を譲り受けた日本が満鉄にこの地域の開発を委託してからである。

 日本にとって長春駅は南満州鉄道の終着駅であるだけではなく、ロシアと対峙して全満州の覇権を競う前線基地となったのである。長春は今でも北京と直結する新幹線の終点であり、交通量が飛躍的に増えたために、戦前の長春駅は取り壊されて、一九九五年に近代的な駅ビルに生まれ変わっている。

 私ども家族が六四年前に旧新京駅に着いたその日、満州国の高官になっていた父の友人が四頭立ての馬車で出迎えて下さった。ガランとした大通りを威風堂々と走り抜けた驚きは、今でも鮮やかに思い出される。今や、幅員五四米のこの大通りも乗用車で満杯である。市域はこれまで南東部へ大きく拡大してきたが、二〇〇五年に長春の東方にある吉林市との中間に新空港が建設され、西側への拡大も期待されている。

 満鉄は一九〇七年から新京駅に隣接する用地買収にとりかかり、京都のような格子型の市街地造成に着手した。まず、駅前に大きな円形広場を造成、まっすぐ南に長春大街を作り、この大通り中央の大きなロタリーで放射状に二本の大路と交差させた。建大はこの長春大街の南端辺りに建てられたが、この大通りは現在では延々と南に伸びている。

 大同大街と並行して南北に延びる道は「~~街」と名づけられ、私どもが住んでいた南湖に近い「東安街(現在の岳陽街)」は大同大街の一筋東側で、すぐ近くに都心には珍しい原生林があった。町並みはすっかり変わっていたが、この原生林はその面影を留めたまま「動植物公園」として整備されていたことは、感慨無量であった。そこで探検ごっこをして遊び呆けた少年の日々が蘇ってきたのである。

 長春市内には近年の高層ビルが林立しているが、満州国時代の歴史的な構築物も大事に保存されている。長春駅前の旧ヤマトホテル、日本の国会議事堂を模した旧国務院、旧満州国中央銀行、満鉄支社など多数のビルがそのまま使われている。旧関東軍司令部が置かれていた天守閣風の豪壮で堅牢な建物には、現在中国共産党吉林委員会が入居している。屋根の両翼に鯱鉾を載せて辺りを睥睨する感のこの建物は、いささか異様で周囲の景観にマッチしていない。

 一方、満州国の元首であった皇帝・溥儀が政務を執っていた「勤民楼」は、現在「偽満州皇宮博物館」として観光スポットになっている。隣接する「同徳殿」は「ラストエンエンペラー」のロケにも使われて有名になった。いずれも、故宮を模した本格的な宮殿が完成するまでの間の仮宮殿ではあったが、関東軍司令部と比べるとまことに貧相で、溥儀が軽んぜられていた様子がよく分かる。

 旧日本時代の建造物を保存し、観光資源としても活用する方針は、大連や瀋陽でも広範に見られ、一貫している。建造物は大事に保存されているものの、一九三二年から終戦まで十三年間存続した旧「満州国」については、「偽満」と称して、現在の中国政府はその存在自体を否定しており、歴史教科書からも抹殺されている。満州国の実体はたしかに関東軍の傀儡政権であって、日本軍の侵略そのものであったという解釈も分からないではないが、満州国が清朝の末裔を元首に戴き、「五族協和」の理念を掲げた独立国家であったこともまた紛れもない事実である。

 国際連盟が派遣したリットン調査団の報告書も満州国のこの地域に対する実効支配を認めたうえで「中国が満洲に無関心であったために、満洲の今日の発展は日本の努力による」旨を述べている。また、当時の世界約百二十ヶ国のうち二三ヵ国が満州国を承認していた。因みに、現在の台湾を独立した主権国家として承認している国は二六ヵ国である。

 ことの善悪は別として、中国東北地域を現実に支配していた「満州国」の歴史的存在そのものを否定するのは、それこそ欺瞞ではなかろうか。「偽満」という便宜的な新語に抵抗を覚えるのは、建大に奉職した亡父への愛着であろうか。

 長春では日中両国の建大同志にお会いすることができて、往時を懐かしむとともに、過去と現在の乖離の大きさにいささかの戸惑いを覚えたことなど、旧満州国へのノスタルジーたっぷりの旅であった。

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(岡部陽二 元住友銀行専務取締役・元広島国際大学教授)

(2009年12月25日、社団法人・日本工業倶楽部発行「会報」第231号p41~48所収)
(2010年9月、愛知大学同窓会東京支部刊行の「愛知大学同窓会東京支部50年史」p184~186に転載)

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