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クレディ・スイス・ファースト・ボストン懐旧 岡部陽二

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先般破綻したクレディ・スイスの盛衰

 クレディ・スイスは、1856年にスイス鉄道システムの開発資金を調達するために設立された、UBS、SBCと並ぶスイス三大銀行の一つであった。

 1970年には、ボストン本拠の米ホワイト・ウエルド商会(White Weld & Co)と提携し、合弁会社クレディ・スイス・ホワイト・ウエルド(CSWW)を設立した。ジョン・クレ-ヴンに率いられた同社はユーロ債市場を牽引、業容を急拡大した結果、投資銀行業務、資産運用などの総合金融を世界的な規模で提供する9大「バルジ・ブラケット」の一つに数えられるに至った。この9社はゴールドマン・サックス、シティ・バンクなど米系5社とドイツ銀、UBS、バークレース、クレディ・スイスであった。

 ところが、クレディ・スイスは1978年に、ホワイト・ウエルドとの提携を解消し、米国投資銀行のファースト・ボストンと資本提携して、ユーロ市場ではクレディ・スイス・ファースト・ボストン(CSFB)を設立した。1988年には同社の経営権を取得してファースト・ボストンを自行内に取り込んだ。この併合により、クレディ・スイスはニューヨーク市場での大手投資銀行グループに仲間入りした。

 1978年にクレディ・スイスとの提携を解消したホワイト・ウエルドは、メリル・リンチの傘下に入った。クレディ・スイスとホワイト・ウエルドの提携は1970年から1978年の8年間で終焉したのである。

 片や、ファースト・ボストンは、1932年にファースト・ナショナル・バンク・オブ・ボストンの証券部門として発足した。銀行と証券の分離を定めたグラス・スティーガル法の導入に伴ってスピンオフしたもので、発足後から急拡大したものの、ジャンク債をめぐる損失で危機に陥り、1978年にクレディ・スイスから3億ドルの資本注入を受けて傘下に入ったものである。

 クレディ・スイスの投資銀行業務は、ファースト・ボストンの人材の活躍でその後順調に進展し、2007年のリーマン・ショック時には、早期に住宅ローンの債券化業務を縮小したため、最も危機の影響を受けなかった投資銀行として評価を高めた。

 ところが、その後の積極策が裏目に出て、内部の不祥事も重なり、2021年には投資会社アルケゴス・キャピタル・マネジメントに関連する運用に失敗したことで44億スイスフラン(約5,200億円)もの損失を喫した。さらに、グリーンシル・キャピタルとの関連での巨額損失や不祥事などで顧客が離反し、慢性的な赤字が続いた。2022年には、内部告発によってマネーロンダリングや人権侵害、汚職などに関与する口座を管理していたことが報じられ、同行の信頼はますます毀損された。

 相次ぐ不祥事が重なった結果、同行は2022年度に73億9,300万フランの巨額損失を出したことで、事実上、過去10年間の利益は帳消しとなり、株価が急落した。これを受けて、2023年3月15日にスイス政府が介入して、UBSが32億5,000万ドルで買収することとなった。米国市場では6月12日をもって、クレディ・スイスは消滅したが、スイス国内での営業は引続きクレディ・スイスの名称のままで行われている。



住友ホワイト・ウエルドから住友ファイナンス・インターナショナルへ

 住友銀行は1973年にホワイト・ウエルドとの対等合弁会社「住友ホワイト・ウエルド(SWW)」を設立した。登記上の本社はスイスのツーク市とし、活動の本拠は英国のロンドンに置いた。

 当時、邦銀は米国のグラス・スティーガル法に倣った銀行・証券分離の法制下で、銀行は証券の引受・販売といった証券業務は手掛けられなかったが、米国の大手銀行は銀行・証券の併営が原則である欧州、ことに「ユーロ市場」における証券業務に乗り出してきており、邦銀もユーロ証券市場への進出を切望してきた。

 大蔵省は、この要望を容れて、1972年に至り、証券業務に手慣れた欧米の投資銀行やマーチャント・バンクとの対等合弁であれば、証券現法の設立を認めるとの方針を打ち出した。これを受けて、大手行は一斉にロンドン証券現法の設立に動き、住友ホワイト・ウエルド、富士・クラインベルト・ベンソン、三井ハンブロス、第一勧銀ウォーバーグ、三和ベアリング・ブラザーズ、東海モルガン・グレンフェルの証券現法が発足した。興銀・長銀・東銀の証券現法には当初より100%出資が認められた。

 他の大手邦銀は英国のマーチャント・バンクを合弁の相手方に選んだのに対し、住友銀行は米系のホワイト・ウエルドと組んだのは異色ではあったが、ホワイト・ウエルドもユーロ市場での業務は1970年からすべてスイス籍でロンドンを本拠とするCSWWに移管していたので、実体はCSWWとの合弁であった。

 市中銀行の証券現法は、大蔵省からの認可条件に縛られて相手方との対等合弁方式で発足したものの、対等であれば双方の見解が合致しないと業務が進まないため、業務運営はどこともに暗礁に乗り上げた。この実態を理解した大蔵省も2年後には邦銀優位への出資比率変更を認めざるを得なくなり、将来的に漸次邦銀側の出資比率を引き上げることが認められるに至った。

 SWWは、1976年11月に出資比率を60%へ引上げ、社名を「住友ファイナンス・インターナショナル(SFI)」と改めた。この出資比率は翌年に70%に引上げられたものの、当方の都合で直ちに100%とすることは叶わず、最終的に100%化が実現したのは設立後9年を経た1982年であった。

 SWWの初代社長は住友銀行から出向の清水照久氏とホワイト・ウエルドから出向のM・D・マックミラン氏の2名であったが、1976年8月に私が2代目社長に就任、マックミラン氏は同年末に辞任した。

 さきに述べたように、1978年にはクレディ・スイスが資本提携先を変更し、CSWWはCSFBとなったので、SFIの合弁相手先株主は同年以降4年間はCSFBとなった。期間限定の30%出資者とはいえ、お世話になった重要な株主であったので、毎年ジュネーヴにあるCSFB本社へ業況説明に出向いた。

 SFIの30%株主がCSFBであることを積極的に公表はしなかった。ところが、1980年9月に「日経ビジネス」誌の「海の向こうのニッポン経営」という日本企業海外現法の活動を紹介するシリーズに金融機関では唯一SFIを取り上げていただき、この記事に掲出されたSFIの下掲概要紹介で、この事実が明らかにされている。

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(2023年7月1日に開催されたSFI・OB懇親会での挨拶から)








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