個別記事

青柳校長先生と同窓会

971020rakuhokukoukouLogo.jpg  

 私の記憶では青柳校長先生とのお付き合いは洛北高校を卒業した年に始まり、京大在学中の四年間で終わっている。勿論、高校在学中も年に二・三回は講話を拝聴する機会があったが、どんなお話であったのか内容は全く憶えていない。ただ、感じとしては校舎の改修とか校章・校歌の制定など新設校のインフラ整備に精力を傾注され、生徒各自の個性を存分に伸ばして自由・闊達な校風を築くことに意を用いられていたという点が印象的であった。先生も当時は30歳代の青年校長で、老練な教育者というよりはむしろ意欲的な若手経営者乃至は調整能力に優れた行政官に似つかわしいタイプであられた。

 私自身、洛北高校へ進んだのは、この自由で気侭に振る舞えるであろう新設高校の雰囲気に期待した面が非常に強い。というのも、当時は鴨沂高校への通学区域であった銀閣寺の近くに住んでいたが、学芸大付属中学の友人の多くが洛北へ進学することヽなったので、下鴨にお住まいの父の友人宅に寄留して洛北高へもぐり込んだからある。期待に違わず、上級生は鴨沂高などからの転校組一学年だけで、一年生として入学した我々こそが真の第一期生であるとの自負をもって、時にはかなり行き過ぎた自由を謳歌できたように思う。 

 洛北高の同窓会は第一回卒業生を送り出した昭和27年に一応結成されたが、翌年春に我々第二回生が卒業した直後に京一中同窓会との合体の話が持ち上がった。その準備のために第二回卒業生を中心に高坂正尭君や私を含めて在学中に生徒会の委員などを務め、大学へも入れて暇な連中が数名、青柳先生のご指名で駆り出されたように記憶している。急な話であったが、青柳先生の陣頭指揮で合体の打合せは短期間で纏まり、一中の大先輩から萬養軒で豪華な洋食をご馳走になった。昭和28年11月23日に開かれた第一回総会では、会長に青柳校長、理事長に先年亡くなられた永末英一さん(当時府会議員、昭和34年に参議院議員に当選されるまで6年間ご在任)、副会長には京一中卒の藤野さんと洛北第二回卒の北川盛一君、副理事長にも第二回卒の阪田務君が選ばれている。 

 京一中と洛北高同窓会の合体については、一中が閉鎖されて洛北が同じ学舎で発足するまで二年間の空白があった上、制度も教育内容も異なっているので一緒になる必要はないとの意見も強く、殊に男子のみの学校であった京一中卒業生には男女共学校との合併に抵抗感があったようである。しかし乍ら、当時の洛北に欠けていたのは伝統であり、湯川秀樹博士や朝永振一郎博士といったノーベル賞学者を輩出した京一中と合体することのメリットには大きなものがあると、迷わずに決断して推進された青柳先生のご判断には狂いがなかった。

 京一中側には既に78年の歴史があったので、永末さんが中心となって各年次の意見を精力的にとり纏められた。我々が準備会に呼び集められた時には、青柳校長と永末さんの間で基本的な合意は出来上がっていたのではなかろうか。推測ではあるが、校長ご就任前は京都府の視学官として戦後の教育制度確立に尽力された青柳先生と、府会議員として教育を含む幅広い問題を採り上げてこられた永末さんとの友情のパイプは太くしっかりと固まっていたものと確信出来る。

 因みに、お隣の鴨沂高校の場合には旧府一高女と継続して同じ校舎を使い、校名も府一の同窓会である鴨沂会に由来しているにも拘らず、別々の同窓会が並立してきたが、府一側の高齢化で運営難に陥って漸く一昨年に至り合体した由である。

 合体して発足した同窓会の活動は先ず毎年総会を開くこと、次いで記念事業として図書館を建設して母校へ寄付することであった。第二回総会で議決された図書館建設資金募金活動の一環として、当時盛んであったダンスパーティーを企画し、八坂辺りの会館で二回程開催した。そのパーティー券の売り捌きに奔走したことだけは、どういう訳か昨日のことのように憶えている。図書館は総工費六百万円で昭和三十三年九月に竣工、同時に同窓会の専用事務所も出来た。このような事業も京一中との合体によって初めて可能となった次第である。

 私事乍ら、私の家内・多賀子(旧姓中村、洛北第四回卒)と初めて知り合ったのも、この同窓会での活動を通じてであり、青柳先生は我々夫妻にとっての大恩人でもある。謹んでご冥福をお祈り申し上げる。

(洛北高第二回卒=岡部陽二)

 (1997年10月20日、京都府立洛北高等学校発行「京都府立洛北高等学校・初代校長・青柳英夫先生追悼文集所収」

 

 

コメント

※コメントは表示されません。

コメント:

ページトップへ戻る