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圓光寺とのご縁


日おもてに空を透かせて冬もみぢ  伊佐

お彼岸の中日、3月21日の昼前、紅葉の名所として有名な京都洛北の名刹、瑞巌山圓光寺境内で昨年10月に他界した母の句碑除幕法要が営まれた。広島から駆けつけた孫二人が両側から白幕の紐を曳くや、どっしりと構えた美しい句碑がその全容を顕わし、ご住職の俳句詠唱が朗々と響き渡った。母は70歳を過ぎてから句作を始め、亡くなる直前まで14年間毎月投句を欠かさなかった。体の自由が利かなくなってからも、東山山麓の自宅を離れず、日常のちょっとした会話や自然の移り変わりを俳句に託すのが、唯一の生き甲斐であったようだ。

そこで、残された兄妹三人で相談して、形見代わりに句碑建立を思い立ち、この日の句碑建立に漕ぎ着けたのである。石碑の原石は、瀬戸大橋の西側に浮かぶ広島で採取した選りすぐりの青御影石の銘石である。表面は長年風雨に晒されて茶色がかっているが、五センチほど削るとすべすべした黒光りの岩肌が現れ、その上に句が刻まれている。高さは二米余、形も槍ヶ岳に似て、背景に広がる緑濃い孟宗竹にもよく調和して美しい。

この圓光寺とのご縁は七年前に父が亡くなった直後に始まった。先祖代々の墓は、日本海に面した兵庫県浜坂町諸寄の龍満寺にあったが、浜坂までは車でも京都から八時間と遠く、墓参りにも不便であった。たまたま、葬儀をお願いした近くの金福寺の住職にご相談したところ、すぐ近隣の兄弟寺である圓光寺に墓地を紹介下さった。この地域一帯は一乗寺と呼ばれているが、一乗寺というお寺は現存しない。吉岡一門との宮本武蔵決闘の地として名高い「下り松」から東山の方向に坂道を上がると、江戸初期の詩人、石川丈山が隠棲した詩仙堂にぶつかる。

そのすぐ手前を左手に50米も進むと圓光寺の山門が見えるが、聞けば、圓光寺は徳川家康が建立した学問寺である。万巻の書物に埋もれて研究をすることが生き甲斐の学問の虫であった父が永眠するのに相応しいお寺と思い、葬儀の直後に菩提寺を墓石ごと丸々浜坂から圓光寺に移した次第である。

圓光寺はもともとは学校であって、慶長6年(1601年)に家康が閑室元佶という高名な儒学僧を足利学校から招聘して伏見で開学、66年後に現在の一乗寺の地に移った。圓光寺が伏見にあった時期に出版された「伏見版」とか「圓光寺版」と称される木製の活字を使って印刷された図書群は、わが国文化史上に残る貴重な出版文化財である。圓光寺には当時の木製活字五万点余が保存されており、これらは重要文化財に指定されている。現在はそのごく一部が展示されているが、再来年には宝物収蔵庫が完成するので、その全貌が一般に公開される予定である。

木製活字が使われる以前の印刷物は一頁大の木版に彫刻して原版を作っていたが、桃山時代にはキリシタンからの情報や秀吉の朝鮮出兵で入手した金属活字がヒントとなり、活字の作り溜めによって印刷期間を短縮できる木製活字による印刷が盛んになった。この手法は江戸初期まで50年余り続いたが、その後は読者層の拡大に伴い振り仮名、漢文の返り点など要求が複雑化して、磨耗の激しい木製活字では対応できなくなり、再び一枚ものの製版印刷が復活した。アルファベット26文字の活字を大量生産すれば済んだ西欧の先進技術もわが国の複雑怪奇な文字には適合しなかったのである。

この木製活字を使って家康が出版させた書物は主に「孔子家語」、「貞観政要」といった政治の心構えを説いた本と、太公望が書いた「六韜」、黄石公著の「三略」といった中国の戦略・戦術書であった。宗政竜谷大学教授によると、慶長五年の関ケ原の合戦で家康勢を勝利に導いたのは、家康がいち早く短期間で書物ができる活字印刷という新技術を採用して、配下の武士に政治と戦略の重点教育を施した成果であったとされる。

一方、石田光成側では、このような組織的な武士教育は行われておらず、家康は知能戦で勝利を収めたものと考えられる。宗政教授の調査で、圓光寺には実際に使用された片カナ活字も千六百個現存することが判ったが、これを使った印刷物は残されていない由である。この片カナ文字が何に使われたのかは今も謎で、通信文かちらしか、はたまた子供の教育用に使ったのか興味深いものがある。

圓光寺のもう一つの見所は、径を散策してもよいし、方丈や客殿からの眺めも静寂の中に多様な変化が感ぜられる回遊式庭園である。この庭は、方丈から眺めると手前に大小十個の庭石が点在し、「十牛の庭」と称されている。これは、人生を牛の姿になぞらえ、自性を追求し心を修錬する過程を十の段階に分けて、一頭の牛とそれを飼い慣らそうとする牧童にたとえた禅宗の教えに由来している。その先には、洛北で最も古く、龍が棲むという「栖龍池」が横たわっているが、現に住んでいるのは色とりどりの錦鯉である。父が生前手塩に掛けて飼育していた実家の鯉も、今は引取って頂いたこの広い池で大きく成長しているのは嬉しい。

秋の紅葉の時節には、比叡山の山麓にまで広がる妖麗でまばゆいばかりの紅葉が、池の面や周囲の竹林の緑とか苔の緑に映えて、その妙なるコントラストは見飽きない。このお寺は、紅葉ライトアップの元祖としても名を上げ、雅楽が流れる池を中心に庭園全体を舞台にした晩秋の催しは年々盛況になっている。また、昨年にはNHKの番組「深まりゆく秋」で、京都・奈良にある代表的な紅葉寺の一つとして紹介された。この番組の解説によると、圓光寺をはじめとする洛北一帯の真紅の紅葉がことのほか色鮮やかなのは、秋の深まりとともに急速に冷え込む比叡山からの吹き降ろしがもみじ葉の色調に強く作用するためとのことである。

石碑に刻んだ冒頭のもみぢの句は、母の晩年作である。紅葉の句はいくつかあったが、寒空のもとで木々の間に楚々として朱を散らしている冬もみぢに心を惹かれて詠んだこの句を選んだ。石碑の題字は高名な書家にお願いし、それを腕利きの石匠の手で彫刻して頂いた。句碑の建立は、関係者のご理解を得てトントン拍子に進んだものの、全く無名の一市井人の句碑というのはあまり例がなく、非常識と謗られるのではと懸念もしていたが、結果的には俳句の先生方をはじめ、多くの方々からありがたいお言葉を頂き、安堵している。

考えてみれば、句碑は句集の刊行とは異なって通常生前には許されず、没後に遺族や門弟が故人を偲んで建てるものであるから、残された者の気持ちだけの問題であろう。また、石碑が建てられるのは作品ないしは作者と由緒や関係の深い場所であるが、圓光寺住職のご配慮で、この句碑は母の墓標からも紅葉の木々の隙間を通して池越に見通せるところに建てて頂いた。除幕の翌日は三月にしてはめずらしく猛吹雪となって、この句碑にも薄化粧をしてくれた。

亡きははの句碑にはんなり春の雪  陽二

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(平成11年7月21日発行日本証券倶楽部機関誌「しょうけんくらぶ」第66号6-7頁所収)

 

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