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幕末維新を駆け抜けた英国人医師ウイリアム・ウィリス

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  ウイリアム・ウィリス(1837-1894)は1862年(文久2年)に英国総領事館付医官として来日し、1877年(明治10年)に帰国するまで約15年にわたって、黎明期にあったわが国の医療システム構築に多大の功績を残した。明治維新前後のこの激動の時代に、幕末の歴史の流れをはやめる起因となった生麦事件や薩英戦争に直接関わり、戊辰戦争では双方の負傷者治療に活躍した。さらに、明治2年には東大医学部の前身である東京医学校兼大病院の院長に31歳の若さで就任したが、一年弱でこの職を退き、のちに鹿児島大学医学部となる鹿児島医学校兼病院で治療の傍ら、忍耐強く医学教育の確立と公衆衛生の改善に貢献した。

  このウイリアム・ウィリスが在日中に書き残した長兄への手紙や上司への報告類など約700点すべてを日本語に翻訳した900頁に及ぶ大著「幕末維新を駆け抜けた英国人医師ウイリアム・ウィリス-蘇るウイリアム・ウィリス文書」(創泉堂出版刊、14,000円)が昨年末に刊行された。「ウイリアム・ウィリス文書」は、同時期にわが国で活躍した英国人外交官アーネスト・サトウの研究家であった萩原延壽氏が、アーネスト・サトウの日記からその存在を知り、それを大切に保存していたウイリアム・ウィリスの甥の息女から譲り受けて、1976年に日本への里帰りが実現したものである。

  この文書は外国人の目で客観的に眺めた130年前の日本の文物や明治維新前後の政治情勢を活写しており、読んで飽きることがない。ただし、決して美文ではなく、医療については地味なものが多い。たとえば、明治元年に東京大病院(後の東大附属病院)の立上げを任された時の4月23日付けの長兄への手紙では「私の給料は以前の二倍以上になるでしょう。しかし、日本人たちは上等の品物を非常に欲しがり、とくにシャンペンは彼らの好物なので、私の接待費も増えるのではないかと懸念しています。私はこの病院のことで忙しくてなりません。私なりに苦労がたくさんあるのです。これまでの日本の医者はみな、漢方の概念に凝り固まっているか、蘭方に執着するものばかりであり、私がイギリス系統の医学の基礎を確立することになるかどうかは、時間だけが解決してくれるでしょう。私は全力を尽くす積りですが、それで失敗したならば、どうしようもありません。

  毎朝、私は8時に出掛け、12時まで病院の患者を診察し、午後は外来患者を診たり、病気や治療についての講義をしたりしています。毎週、たくさんの手術をしています」と多忙の故か簡単な日記風である。

  この文書の行間からウィリス医師の誠実な人間像が窺われ、同時に幕末維新史に新たな一ページを加える歴史の証人ともなっている。また、多くの手紙がわが国の保健衛生面の実情を明らかにし、医療界の幕開け時に彼が貢献した足跡を記録している。手紙類の現物は1998年に鹿児島県歴史資料センター黎明館に寄贈され、一般公開されている。1985年には、ヒュー・コタッツィ元駐日英国大使が、この文書を基に「ある英人医師の幕末維新」を著している。

  ウィリス医師の生涯の友であったアーネスト・サトウは著書「日本における一外文官」の中で、「われわれがよく良心と言っている資質を、個人的関係においても職務の遂行に際しても、ウィリス医師ほどはっきり示した者はいないだろう。幸運にも彼の手術や投薬を受けた患者たちは、ウィリス医師ほど病人にたいして親切で同情的な人はいないと思っている......当時、医師は他の文官には降りかからないような危険に遭遇しなければならなかった。負傷者を救助するために、彼はためらいなくその危険に身をさらしたのである」と評している。

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  ウィリス医師は、1837年に北アイルランドの南端のエニスキレン市郊外で、七人兄弟の四男として生まれた。父親を終生憎んでいたほど、彼にとって家庭環境は決してよくなかった。また、彼が8歳から11歳の時にアイルランドは大飢饉に見舞われ、四年間で、百万人が海外などへ流出して、人口が八分の一に減少した。

  このような悪環境下にもかかわらず、ウィリス医師の生家は比較的裕福で、彼は身長2メートル弱、体重108キロの巨漢に成長した。青年時代はスコットランドのグラスゴー大学、エディンバラ大学で医学を学び、ロンドンのミドルセックス病院に2年間勤務した。この病院での一時的な間違いによって、看護婦との間に子どもができたこともあって、心機一転、外交官試験を受けて、江戸駐在公使官の補助官兼医官として日本に赴任した。

  ウィリス医師は1862年に来日後、薩摩藩に請われて鳥羽・伏見の戦での負傷兵の外科治療に当り、会津征伐にも明治新政府の要請に応えて従軍医師として八面六臂の大活躍をしている。しかしながら、前半の7年間は医師としてよりも、むしろ英国公使館員としての情報収集活動などに多忙を極め、明治元年には正式に副領事に任命されている。

  一方で、ウィリス医師が西洋医学に基づく永続的な病院の建設を建議してきた経緯から、明治新政府は明治2年の初めに、ウィリス医師を東京大病院開設のために領事職を1年間休職して大病院へ出向してくれるよう英国公使に要請した。ところが、大病院に移って2ケ月も経たないうちに、彼は英国流の臨床重視の地域医療制度をつくることの難しさを思い知らされた。同年5月に新政府から医学校の責任を任かせられた相良知安、岩佐純の二人が、伝染病研究主体のドイツ医学採用の計画を強引に進めていったからである。この二人は徳川幕府以来の伝統である長崎養生所の出身者で、オランダ医学を学び、英国流の臨床医学や地域医療という発想はまったく持っていなかった。

  当時の外国語は長崎を通じて学んだオランダ語が主体であり、オランダ医学がドイツ医学を模範としていたことから、新政府がドイツ医学に目をむけたのはむしろ自然のなりゆきであった。大病院を任せられてからわずか6ケ月でウィリス医師の夢は破られたのである。もっとも、ウィリス書簡からは彼自身が東京大病院に留まるように希望して、その線で交渉をしたという事実はまったく読みとれない。むしろ、彼自身も西洋医学の進歩について行けず、臨床医としての道を望んでいた節がある。

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  ウィリスの医師としての本格的な活動は、明治3年(1870年)に公使館を辞して、鹿児島へ赴いてから明治10年に帰英するまでの7年間の業績が重要である。本稿では、この間に彼が行なった医学教育と地域医療に絞って紹介したい。

  薩摩藩時代から教育熱心であった鹿児島では、明治元年に医学院を設立、西洋医学の適切な指導者を求めていた。この医学院は明治3年1月にウィリス医師の着任と同時に、鹿児島医学校(鹿児島大学医学部の前身)と改称されている。

  ウィリス医師と薩摩藩との親密な関係は、鳥羽・伏見の戦いで、頚部に貫通銃創の重傷を負った西郷隆盛の弟、西郷従道(後に海軍大臣、元帥)の治療に当り、見事に快癒させたことが機縁となった。鹿児島県は、西郷隆盛のバックアップを得て、医学校、病院の体制、医学の基礎から臨床教育まで広範囲にわたってウィリス医師に任せた。彼も東京でできなかった病院の整備や医学教育を実現したいという情熱をもって組織作りに取り組んだ。

   1871年12月に出された県当局の覚書では、県内各地域から20歳以下の医学生2名を入学させてほしいという要請が出されている。ウィリス医師の主張が通って、各地域で病気の知識や薬剤法、外科治療のできる医師養成の必要性が認識されて来た結果である。

鹿児島医学校は、彼の在任中に一学年の入学者数60名、教員を含む総勢250名に達する本格的な医科大学に拡充された。ウィリス医師は臨床現場での実習指導に加えて、自ら植物学、ラテン語、病理学、薬物学などの講義を隔日に担当し、早い日は朝六時から、この医学校で教鞭を執った。

  鹿児島医学校にウィリス医師が着任当初に入学した学生の中に三田村一と高木兼寛がいた。二人は、すでに開成所などで英語を学び、漢方や蘭方医学の基礎を身につけていた俊英で、高木兼寛は鳥羽・伏見の戦いにも医師として従軍していた。二人は鹿児島では初めての死体解剖にも参加、昼夜付ききりで診察や外科手術の実技をウィリス医師から直接学んだ。入学後まもなく二人はウィリス医師の助手兼通訳を任され、別科学生の教官も勤めた。

三田村一はその後、西南の役に従軍して戦死したが、高木兼寛は後に海軍軍医総監となり、慈恵会医科大学を創設した。ウィリス医師が足跡を残した最大の功績の一つは、高木兼寛に英国流の臨床重視の医学を教え込んだことにあったといっても過言ではない。

  高木兼寛は鹿児島医学校のウィリス医師のもとで2年余り勉学に励んだところで、彼の恩師であり鹿児島医学校設立にも尽くした石神良策から海軍軍医になるように勧められ、明治5年4月に東京へ赴任した。明治8年には、海軍初の医学留学生としてロンドンのセント・トーマス病院附属医学校へ派遣された。彼はこの医学校に4年間在学、卒業時には優等賞を獲得した。この間、英国へ一時帰国中のウィリス医師とも再会している。

海軍軍医総監となった高木兼寛は、当時国民病として蔓延していた脚気の原因説を巡って陸軍軍医部を代表する森林太郎(鴎外)と宿命的な対決をした。ウィリス医師からと英国の大学で学んだ兼寛の実証主義に徹した「白米食説」と、鴎外の学理を重視するドイツ医学を信奉する「細菌説」との対決であった。

  高木兼寛は副食をあまり摂らず多量の白米を食べている人に脚気が多いことに着目、遠洋航海の海軍軍艦2隻の乗組員を白米組と麦飯組に分けて、脚気の発病を調べる大々的な実験を行なった。この結果、麦飯組からは脚気発病者がほとんど出なかったので、海軍では主食を麦飯とパンに全面的に切り替えた。

  これに対し、陸軍と東大医学部の学者は栄養量において白米の方が優れているとして、陸軍では白米の支給に固執した。この結果、日露戦争では陸軍の総兵員中221千人が脚気に冒されて、28千人が死亡した。この脚気による病死者の数は戦死者数を優に上回ったのである。

  一方、海軍では病死者はほとんど出なかった。これは高木兼寛が自ら行った実験結果をもとに、原因の追求よりも実証による結果重視の医療を実践して、食事内容の改善を行なった見事な成果であった。陸軍での無策に対する非難の議論が高まったものの、この陸海軍対決は両人の死後にビタミンBが発見されるまで最終的な決着をみなかった。

  高木兼寛の実証研究論文は英文で公表され、国内よりも海外での評価が極めて高かった。彼のもとには、コロンビア大学をはじめ多くの有名大学から講演の依頼が寄せられた。欧米の医学者たちは、栄養バランスの崩れた食物の摂取が脚気の原因であると主張した兼寛の説が、ビタミンB欠乏を原因であるとする説に発展したものとして、兼寛を脚気治療法開発の第一人者と評価したのである。

  英国の極地研究所は、南極大陸の一角に世界的に著名な栄養学者、ビタミンの研究に業績をあげた研究者の名前を冠した地名をつけたが、その中に「タカキ岬」と命名された岬がある。この命名の由来について、「日本帝国海軍の軍医総監にして、1882年、食餌の改善によって脚気の予防に初めて成功した人」と説明されている。高木兼寛が印したこのように世界的に認められた歴史に残る偉大な業績自体、平成3年に吉村昭の力作「白い航跡」が著されるまでは、知る人も少なかった。

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  次にウィリス医師が残した地域医療への貢献について、「ウィリス書簡」から知りうる概略を紹介したい。鹿児島でウィリス医師が仕事を開始した当初、同地の医師は彼に反発するばかりであった。当時は漢方医学が主体であり、ウィリス医師が医学校で育てた医師はすぐに東京や京都へ去ってしまった。西郷隆盛の支援はあったものの、このような状況下での英国式西洋病院の建設は当初困難を極めた。彼は鹿児島の支配階級は日本のどの地域よりも傲慢で、日本のなかでも特別に異なっている地域という印象を抱いていた。風俗も多くの点で異なり、食物に無頓着で、無闇に酒を飲む人が多いと観察している。

  鹿児島では家畜を殺す際に、当時は下水だめに追い込んで溺死させるという方法をとっていた。これが伝染病などの原因になるので、廃止すべきであると彼は主張して、県の役人と激しいやりとりをしている。一方で、彼は牛や羊を放牧して牛乳やバターの生産する酪農を奨励し、具体的にその技術的方法をも指導した。この結果、牛肉や牛乳の価格が下がり、一般の民衆でも容易に手に入ることができるようになった。

  ウィリス医師は鹿児島へ来て4年後に一年間の休暇をとって英国に一時帰国したが、その際に大山鹿児島県令(現在の知事)あてに鹿児島での医療活動、医学教育を総括した報告を出している。この報告には、この4年間に彼が設立した病院で入院・外来併せて15千人の患者の治療に当り、患者の自宅への往診も数千件に上ったと記されている。また、彼が実践した講義と現場での医術の指導を一体化した臨床重視の英国流の医学教育と病院での診療方式が成功し、多くの県民から感謝されたことに満足の意を表明している。また、彼の進言を容れて公衆衛生などの面でも鹿児島県で幾多の先進的で重要な改革が行われたことは喜びに絶えないと回顧している。そのうえで、伝染病などの予防には上水道や下水などの整備が急務であるとして、一時帰国の途次にヨーロッパ各地の水道設や下水処理施設の工法を調査したいと提言している。

  ウィリス医師は鹿児島での生活が気に入って、日本永住を決意し、八重という日本女性と結婚、息子アルバートをもうけた。しかし、西南の役の勃発で、庇護者の西郷隆盛を失い、失意のうちに英国に帰らざるを得なかった。その後、再び来日して職を求めたが、西郷と親しかったことが災いして果たせなかった。そこで、英国で最新の医学知識を学び直した後、日本を離れて3年後に、その時にはバンコック駐在公使になっていたアーネスト・サトウの推挙で英国公使館付き医官としてタイ国へ赴任した。8年間同地で医学教育と医療活動に従事して、タイの近代医学の基礎をつくりあげたが、永年の激務が祟って肝臓を痛め、英国へ帰国した2年後に56歳で逝去した。

(2004年6月医療経済研究機構発行「Monthly IHEP(医療経済研究機構レター)」No.121 p24~27 所収)

 

 

 

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