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私の教育改革論
~相互評価による教員評価と任期制・年俸制の導入が不可欠~

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 銀行を退職した一九九四年から七一歳で辞めるまで七年間、広島国際大学医療福祉学部教授を勤め、国際経営論などを担当、フルタイムの大学教員として働いた。この七年間に体験した私自身の経験と見聞に基づいて、四年制の大学教育に絞って最近とみに問題となってきた教育改革の要諦を考究し、教育を使命としている教員のあり方について提言を試みたい。問題意識は、教育職としての大学教員の資質確保が中心であり、大学院や研究所の研究職は対象としていない。
 教育改革のキーワードは、「教育現場への競争原理の導入」である。大学間・学生間での競争を促進するには、まず大学教員間の競争環境を作ることが肝要と考える。学校教育は小学校から始まって大学で一応完結するので、小中高校での教育についても、優良な質の教員を確保することが喫緊の急務であるものの、大学で教育職にある教員間の競争が始めれば、順次高校・中学へと広がるものと期待される。
 結論として、四年制大学の教育現場に導入すべきシステムは、
 (1)教育実績についての相互評価(ピア・レビュー)を中心とする教員の相対評価実施
 (2)この評価の仕組みを活用して大学教員への「任期制」「年俸制」の導入
の二点であると確信している。
 企業においては、当然のこととして役職員の業務実績の評価が重視され、評価の結果が昇給・昇格・退職勧告などの人事考課にストレートに反映される仕組みが組み込まれている。ところが、驚いたことに、大学には教員の教育実績を評価すべきであるという理念もなく、制度も慣行も存在しない。私自身、競争と評価に明け暮れた緊張続きの四〇年間の企業勤務経験の後に、評価されることも、他の教員を評価することもまったくない気軽な大学教員生活を楽しむことができた。幸にして、私は定年までの短期間に研究を手掛ける気はなく、学生の教育のみに専念できたので、何とか責務を果たしたとの満足感は持っている。本稿は、その現場体験と同僚や他大学教員の観察から得た、自らへの反省をも込めた改革への提言である。

1、教育の質の低下は日本の危機

 少子化が不可避であれば、その少ない学生を社会に有為な人材に精魂こめて丹念に育て上げるのが、大学の最大の使命である。しかしながら、過去十年間に一八歳人口は約三〇%減少したが、大学の数は逆に三〇%ほど増加し、二〇〇六年末には七四〇校に達している。その結果、入学定員割れの大学が三分の一を超えているにもかかわらず、経済界一般の需給原則に基づく淘汰は進まず、質の悪い教員が質の悪い卒業生の大量生産を続けている。
 ところが、一部の有名大学を別にすれば、大多数の大学経営者は授業料さえ払ってくれるのであれば、どんな学生でも入学させる。大学教員は例外なく、入学して来る新入生の質の低下を嘆いているものの、大多数の学生を質の悪いまま卒業させて平然としている。このようにたるんだ微温湯的な大学教育の現状に麻痺してしまって、教員もこれに抵抗する気力さえ持っていないように思える。大学教員が教育人としての使命を放棄してしまえば、大学教育は荒廃の一途を辿るのみである。
 もっとも、私の実感では、学生の基礎学力の低下には目を覆うものがあるものの、それよりも大きな問題は向上意欲、闘争心、探究心といった前向きの気力を失い、人と論争をしたりけんかをしたりすることを忘れてしまったような何事にも反応の鈍い柔な学生が大多数を占めていることである。これは、小中高校での教育方針の誤りによるところが大きい。子供は負けることによる挫折感や敗北感をばねにして強くなるものであるが、運動会でも差をつけないような教育をしていては、向上心が涵養されることはあり得ない。また、知力よりも、体力・健康度の低下が著しい。
 大学四年間でこのように柔な学生を再教育し、企業社会や黙っていてはとり残される国際社会に出ても充分競争していけるような強靭な気質を身につけさせる全人教育を施すのは、並大抵の努力では出来ない。ただ、これを徹底的にやることが大学人に課せられた使命である。
 教育の質の低下に気がついたのは、欧米諸国の方が早かった。たとえば、英国では二〇年近く続いた保守党政権を一九九七年に覆した労働党政権のブレア首相は「イギリスの最優先課題が三つある。それは、教育、教育、そして教育である(Education, Education, and Education)」と選挙の最中に絶叫して歩いた。このマニフェストが国民の圧倒的多数の支持を得て労働党政権が生まれたのである。
 米国でも、少なくとも一流とされている大学の学生はわき目も振らずに本当によく勉強している。教育熱心な先生が毎日大量の宿題を出すので、それに付いて行くだけでも大変である。数年前にポスドクで留学していた息子がMITのキャンパスを日曜日の夜暗くなってから案内してくれたが、結構たくさんあるコンピュタ室や図書館に煌々と灯が点り、勉強に勤しむ学生で全部満員であった光景に驚いた経験がある。
 一方、安倍内閣の最重点施策として掲げられた教育改革を審議する教育再生会議では、「国を愛する心」といった抽象論の議論で終始し、教育現場への競争原理の導入を初めとする教育の質の向上策については、ほとんど論議されていない。小中学校の免許更新制の導入は画期的と評価できるが、要は教員評価の具体的な運用に掛かっている。

2、教育者としての大学教員の使命

 大学はそもそも高い授業料を払って「教育」というサービスを求めている学生のために存在している。教員の給料は、その学生からの授業料と国などからの補助金から支払われているので、教員は将来社会に出て役に立つ人材に育て上げる責務を負っている。したがって、この責務を充分に果たさない教員は馘になっても仕方がない。
 大学教員の責務には大きく分けて、教育と研究があるが、日本の大学教員は大学の種別を問わず、研究重点志向である。
 世界一四ヵ国で行なわれたカーネギー教育振興財団の大規模調査の結果でも、日本の大学教員(研究専門職は除く)の七〇%が教育よりも研究が大切と自己判断しており、この比率が他国と比べて格段に高い。大学院や研究所の教授が研究に専念するのは当然であるが、四年制大学でしかも大学運営者は教育重点志向を目指している大学でも、教員の意識が研究重点志向となっているのは由々しい問題である。
 私の見聞でも「学会に出席するために授業を休講した場合には、自己都合ではなく公務であるから、補講を行なう必要はない」と主張する先生もあった。どのような理由で休もうが、その分は補講で償うのが当然という意識すらないのには、開いた口が塞がらない。また、一時間半の授業を半期で一五回行なうのが、一コマとされているが、半期に一二回か一三回行なえば充分といったことが慣行となっている大学も多いと聞く。これなどはまさに高い授業料を払っている学生に対する契約不履行であって、もっての外である。
 このように、教育よりも研究を重視する教員の意識は、研究は評価されて報酬増などにも結びつくが、教育ではいくら頑張って立派な教育をしたところで、誰からも評価されず、昇進や増収にも直結しない事実に由来するのではないかと考えられる。確かに、研究の場合には、学会発表、研究誌への論文掲載、出版などを通じて学会での評価、被引用回数、受賞などによる評価がなされ、それが学内での処遇にも大いに影響するが、教育についてはこの「評価」が完全に欠落している。
 四年制大学の第一の使命が教育である以上、その教員は原則として「教育職」と位置づける改革が必要である。研究については、原則として大学院や研究所に任せるべきである。研究専従を希望し、研究には向いているが教育には不向きな学部教員は大学院や研究所に配転するのが筋であろう。
 大学教員の教育者としての役割は、担当する授業とゼミをこなせば充分と考えている教員も多いが、これも大きな了見違いである。授業やゼミ、実習だけではなく、学生の生活指導や課外活動の指導、就職相談などのほか、各種委員会への参加などいわゆる雑務に一日二時間程度は専念する必要がある。また、地域社会との連携などにもある程度の時間を割かなければならない。教員評価の目的は、授業の巧拙に加えて、このような広範な範囲の教育者としての責務をきちんと果たしているかどうかを見極めることである。学部教員の平均ワーク・フローとしては、授業やゼミとその準備などに週二〇時間以上、学生指導などの雑務に一〇時間以上は必要であろうから、自分の研究に打ち込んだり、学外での活動に従事したりできる時間は限られざるをえず、通常は勤務時間外に行なうほかない。

3、四年制大学のカリキュラム(教育課程)のあり方

 大学のカリキュラムについても問題が多い。まず、一授業の定員である。百人を超える学生に講義をし、試験を受けさえすれば単位を与える慣行が蔓延しているが、これは改めなければならない。そのような大講堂での授業を主体とする体制をとっている大学は淘汰されて然るべきであろう。理想的には、一授業五〇名内とし、教員と学生との対話を活発化すべきである。一回の授業時間はわが国でも米国でも九〇分であるが、米国の大学では一方的な講義は四五分程度とし、後は教員と学生、学生相互間のディスカッションに使っている。九〇分ぶっとおしで教師だけが一方的に喋り続けるわが国の大学の授業方式は、学生に考える力をつけさせず、教育効果の点で著しく劣っている。
 ゼミナール(演習)についても、教員の指導のもとに少数の学生が集まって研究をし、発表・討論などを行なうという本来の形を逸脱した授業に近い一方的な教授形式がとられているケースが多いようである。私のゼミでは医療・福祉に関わる広い範囲から、学生が自ら選んだテーマについて自由に研究させ、私は学生が選んだテーマについて自ら勉強をして指導することとした。その結果、学生の数だけ異なったテーマについて私が勉強しなければならないのは大変ではあったが、学生にとっては自らが興味のある分野の突っ込んだ研究で理解を深めることができて、実力の向上に大いに役立ったものと自負している。教員が研究テーマを与えるにしても、学生の創造性を尊重して、その研究に学生を積極的に参画させることが肝要である。
 最近、学生に社会性を身につけさせるためにインターシップ(学外実習)を採り入れている大学が増えている。私が奉職した広島国際大学医療経営学科では、一年次から四年次まで毎年医療施設などでの実習がカリキュラムに組み込まれていた。一年次は、サービス業の基本を学ばせるために約一四〇名の学生を広島市内の一流ホテルと百貨店に委託してホスピタリティーの精神を身につけさせるという一週間の実習であった。このプロジェクトの総括責任者を引き受けたのが、私の教員としての最大の難行であった。まず、十軒ほどのホテルや百貨店にお願いして受け入れて貰う交渉が大変であった。ホテルや百貨店もリストラ続きで、社内教育も充分にできていないのに、足手まといとなる学生まで教育する余裕はないからであった。次に、いまだに未成年で、行儀教育を受けたこともない染髪やピアスの学生に一流企業が要求するレベルの身だしなみや服装を強制するのには多大の努力を要した。
 ところが、それよりも大変なのは、この実習を指導・監督する数名の先生方の教育であった。ご年配で社会経験豊かな先生方は極めて協力的であったが、大学を出てから教員しかやっていない若手の先生の抵抗には驚いた。実習の意義については理解しても、どうして専門分野に関係なく、しかも医療とも直接関連しない行儀見習いの実習を全教員が担当しなければならないのか、こんなことは外部委託すべきではないかといった議論であった。
 学生のための幅広い全人教育は専門科目担当教員の責務ではないと教員が思っている以上、まともな教育はできない。このような基本的な学生教育を率先して行なおうと志す若手の教員が乏しいのが、最大の問題である。
 
4、教員人事評価システムのあり方

 大学教員の教育者としての質の低下は、一にかかって「人事評価システムの欠如」に原因があるものと考えられる。教員の責務遂行状況を教員評価によって見極めたうえで、教育実績の面で優秀な教員には昇給・昇格を早め、劣っている教員は教育現場から放逐する職務遂行管理を厳格に行なえば、教員の意識も変わり、教育の質が高まる。
 一般企業においては、企業の競争力を維持するために、社員の能力評価に多大の労力を費やしている。私自身の経験でも、オン・ザ・ジョブで部下の働き振りを常時観察するだけではなく、年に二回の昇給・昇格時には、詳細多岐にわたる人事考課表の提出を求められ、人事部長などとの直接折衝にもかなりの長時間を割いたものである。
 ところが、不思議なことに、大学にはこのような教員の評価システムが存在していない。そもそも、評価をする上司や人事責任者が誰であるのかも明確になっていない。教員の採用時には、専門の部局が審査をし、教授会の承認を得て決定する方式をとっている大学が多いが、評価の対象は主に研究業績などであって、教育者としての資質はあまり論議されない。
 その結果として、一旦採用されれば、教育にかける時間を極力抑えて、研究のみに精を出したり、なかには学外での活動に専念したりするような不心得な教員も出てくる。評価システムが存在しないので、たとえば、十年前に廃れてしまった経営理論を十年一日のごとく講ずる先生や実用英語の授業でシェクスピアや聖書を教えるといった学生の期待に沿わない教員が現れるのも不可避である。
 一流大学でも、十年以上にわたり同じ教科書で同じ講義をし、受講生には出席の有無を問わず、すべて優をつけるといった有名教授もあるという話である。これでも充分に教授が務まるというシステムを改めなければならない。このような不心得な教員がはびこるままに放置されているので、悪貨が良貨を駆逐する結果となる。私は少なくとも2/3以上授業に出席しなかったり、遅刻をしたりした学生には単位を与えないことにしていたが、このような当然といえる規律の共通ルールさえ存在しないのが、大学というところである。
大学教員の第一の任務である良い教育を行なって社会の役に立つ人材を送り出すには、このような緊張感のある相互監視の下で、教育方法に絶えざる自己研鑽を積み重ねる努力を強いるシステムを確立することが必須の前提となる。
 評価のあり方という点で、学生の成績評価システムで驚いたのは、五段階評価を採用してはいるものの、段階別の割り振り率を指定しないいわゆる「絶対評価」が一般的に行なわれていることであった。そもそも、評価の目的は優劣を見極め、差をはっきりさせて、優れたものに報い、劣ったものを排除することにある。学生全員に絶対評価をよいことにして「優」をつけていたのでは、競争原理は働かない。
企業においては、これは当然のことであって、要は差別化を繰り返して昇格者を絞り込むことに勤務成績評価が活用されている。私の銀行時代の経験でも、「私の部下に可や不可の評価をしなければならないものは一人もいない」と主張して相対評価の一部を拒否しようと試みたが、人事部は頑として受け容れてくれなかった。学生時代から競争に慣れさせておかないと、企業に入ってからも競争に強い社員にはなれない。
 学生の成績評価と同様に、大学教員の教育実績についても、企業人並みの厳格な相対評価を行ない、これを処遇面に反映させる仕組みを確立しないことには、優れた教育者は育たない。

5、教員評価の具体的な方法

 評価には、自己評価、相互評価(ピア・レビュー)、第三者評価の三類型があり、それぞれに意味があるが、教育職については、なかでも「相互評価」が重視されるべきものと考える。
 自己点検評価で、「教育よりは研究が大事」「授業をきちんとやれば充分で、雑務はやりたくない」といった表明をする教員は、その段階で教育職としての教員には不適格である。
 第三者評価には学生による評価と学内の審査委員会方式での評価、それに外部組織による評価がある。学生による評価には、それなりの意義が認められるものの、授業の当事者であるためにバイアスが掛かる懸念もあり、必ずしも客観性が保たれないおそれがある。
 学内の委員会方式では、すべての教員の勤務実態を少数の委員のみで把握することは困難であり、形式的なものに堕しがちである。外部の第三者評価組織として二〇〇四年に「大学評価・学位授与機構」が発足したが、これは研究をも含んだ大学全体のガバナンスを評価するものである。「教育内容及び方法」といった評価項目もあるものの、カリキュラム編成の適否を評価する程度のことで、個々の教員の資質の評価を行なうものではない。
 そこで、教員の教育の質を客観的に評価するのには、複数の同僚教員による相互評価 (ピア・レビュー、Peer Review)が最適であると考えられる。全教員の授業を同僚の教員が聴講して評価をする方式が基本となるが、教育者としての日常の活動振りは同じ職場で働いていれば、よく分かるものである。学生から評判を聞くだけでもかなり的確な評価が可能である。教員相互の評価を集計すれば、優秀な教員と劣悪な教員との見分けが容易にできる。
 この相互評価システムは、具体的には学内で全教員が他の教員十人程度の授業やゼミを複数回聴講し、授業外での学生指導については学生の意見なども収集して相対評価を行なう方式である。相対評価であるから、五段階評価であれば、中間の三が四割、一と五は一割と定める。公平を期するためには一人の授業を数人で評価する要がある。他の教員の授業を聞くのは、教授法の勉強としても極めて有効である。評価の結果は、審査委員会で集計分析して、人事考課に随時反映させる。この方式を採用することにより、教員にも競争意識を持たせ、教育現場で真に学生の学力や品性向上に役に立つ教育をする優れた教員に報い、教育には不熱心で不向きな教員を排除することが可能となる。
 この相互評価の手法を採り入れて、看護・介護の質を高めている施設に「青梅慶友病院」がある。この高齢者療養専門病院では、年に二回全職員に自分が接触のある他の職員の評価を書面で求め、その結果に基づいて上位者は昇給、下位の何人かには退職を求めるという厳しい人事考課を実施している。この結果、この病院は全国でも有数の患者にとって居心地のよい施設としての声価が高まり、高料金にもかかわらず入院希望者が殺到している。
 米国の実例では、「ベスト・ドクター」という名医探しのシステムが有名である。これは、伝記作家のグレゴリー・ホワイト・スミスとスティーブン・ネイフェが医者探しで苦労した経験に基づき、病人が自分の問題に応じた最良の医師を選べる仲介サービスを始めたものである。その方法は、疾病ごとの専門医にその分野ではどの医師がもっとも優れているかという観点からの推薦を求めて、最高の医師を選択するというまさにPeer Reviewシステムの活用であり、そこには三万人以上の医師が登録されている。
 教員のように教育現場での職務における各自の独立性が高く上司による直接の評価が難しい職種の場合には、医師・看護師などの医療職と同様に、同じ職場の同僚による相互評価の方式が極めて客観性・透明性が高く、人事考課に有効である。

6、教員任期制、年俸制の導入

 筑波大学が一九九一年に学長として迎え入れた江崎玲於奈氏は「よい授業をした教官」と「フレンドリーな教官」の二項目について学生に投票を求め、選ばれた教員を表彰、研究費を加算するといった制度を創られた。また、教員の外部評価や任期制も採り入れられたが、これらの改革は定着せず、江崎学長ご退任後は逆戻りしている模様である。
 最近では、首都大学東京がわが国の四年制大学では初めて大学教員の「任期制」と「年俸制」を全面的に採り入れる決定をした。任期制の導入により、従来の講座制、年功序列型の体制を廃し、能力、業績評価により弾力的な昇進の道を開くことを狙っている。また年俸制は基本給、職務給、業績給の三本柱とし、「教員評価委員会」による「教員評価基準のマトリックス」を作成して、これに準拠した評価を行なうというものである。東大の先端研など一部の研究機関では任期制がすでに導入されているが、四年制大学での導入の首都大学東京が先鞭をつけた意義は大きい。
 この結果として、昨年のリクルート大学評価では、首都大学東京が「将来大きく発展しそうな大学のナンバーワン」に選ばれている。これは、任期制、年俸制と評価制度の導入により「教育に熱心であるという経営姿勢が評価されたものであろう。
 これに対する教員側からの反発も激しく、物議を醸している。しかしながら、教育の質を高めるためには「任期制」は避けて通れない改革の目玉であって、日本郵船の副社長から首都大学東京に転進された高橋宏理事長の英断に敬意を表したい。問題は任期到来時の再任審査に当たっての教員評価基準の方式と運用にある。これを、学内の委員会で審議するのはよいが、その基礎となる評価データは、上記で提言した教員間の「相互評価(ピア・レヴュー)」を主体として活用するように具体化して頂きたい。
 現在、「教育再生会議」で議論されている小中学校教員の「免許更新制」についても、同様である。更新制の導入はほぼ固まり、更新の期間短縮が議論の対象となっているが、それよりも大事なのは、「更新時の勤務実績評価基準」である。校長の権限を強化して、上司の評価を尊重するのはよいが、大勢の教員の評価を教育委員会で一括審議するといった方式は百害あって一利なしと断じて差し支えない。また、更新の条件として、教員に一定の研修受講義務を課すといったことが議論されているが、これも論外である。更新時の評価の対象はあくまでも、教育現場における日常の熱意と実行力といった既往の勤務実績としなければ意味がない。
 やはり、ここでも同僚教員による「相互評価(ピア・レヴュー)」を主体に手数を掛けた客観性・透明性の高い相対評価の方式を採り入れて、一定割合の劣悪者は必ず排除するといったルールの確立が肝要である。このようにして醸成される緊張感の高い職場環境が、質の競争を誘発し、質の高い教育の実現に繋がるのである。
 任期制を原則としながら、テニュア(Tenure、終身在職権)制度を導入している英米の大学の制度は、わが国でも導入を検討するに値する。テニュア制度とは、教員の自由な教育研究活動を保障するため、教育研究活動の継続が不可能になった場合を除いて、終身または定年まで、その大学教員としての身分を保障する制度である。
 英米の大多数の大学では、研究員、助教授、専任講師の段階では、任期付の雇用形態である。この間は最長在職期間や再任回数が契約で定められているが、准教授・教授への昇進時に審査を経てテニュアの資格が与えられる。審査方式は大学によって異なるが、一般に厳しく、研究業績、取得した研究補助金、教務の業績などについての書面による審査のほか、学外の研究者や無作為抽出した学生の推薦度、テニュアを持っている教員全員による投票等を基に決定されるのが通例である。研究職を含む全教授に占めるテニュア教授の比率は6割程度と高いが、研究員以上の全教員に占める割合は一~二割程度かと推定され、教育主体の教授職についての比率はかなり低い。また、テニュア教授であっても、教育に不熱心な教授は辞職の勧告を受けることがある。
 この「任期制」と「テニュア制」をわが国でも採用すれば、教員の質の評価は任期制で雇用されている教員についてのみ行えば足り、テニュア教授については省略できるメリットがある。
 大学教員の任期制、年俸制、テニュア制、評価基準の導入は、国公立大学については、法律で強制すべきであると考える。私立大学についても、補助金算定にこれを考慮すれば、急速に拡大しよう。もっとも、これを実現するプロセスは困難である。わが国の政策決定は、形式上とはいえ、教育再生会議や各種審議会などの審議を経て法案化される。ところが、この審議会メンバーの多くが大学教授であって、自らの既得権益を失うような改革に賛同するはずがないからである。首相のリーダーシップで教授抜きの審議会を設けて、「大学教員への任期制、年俸制、評価制度の導入」などの改革論議を深めていただきたい。私は、これが教育改革の第一歩であると確信している。

(元広島国際大学教授、元㈱住友銀行専務取締役)

 (2007年4月15日、(社)日本工業倶楽部発行、「会報」第220号、p56~67所収)

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