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『東洋経済新報社百年史』に刻まれた父の事績

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1996年10月のある日、東洋経済新報社の浅野純次社長が、突然当時の私の勤め先にお見えになり、出来上がったばかりの『東洋経済新報社百年史』をご恵贈いただいた。

浅野社長とは、その年に友人の紹介で入会した和光経済研究所の証券研究会でたまたま知り合い、「東洋経済新報社には、1991年に亡くなった私の父が、短期間ですが、お世話になっておりました」と話した。浅野社長はこれを憶えておられて、自社の百年史のなかの二ヵ所にその父の名前が出ているのを見つけるや、すぐにお知らせいただけたのはまさに僥倖であった。

父は1932年5月に東洋経済新報社に入社、5年間在籍して、37年3月には、京大の大学院へ戻るために、辞職している。新入社員としてわずか5年間末席を汚していただけの父の活動記録2件が、60年を経て活字になろうとは、想像もできない出来事で、ただただ吃驚するばかりであった。この百年史が完成する5年前に亡くなった父が知れば、もっと驚いたことであろう。

1,200頁を超える百年史を通読して、社員を大事にする東洋経済の社風とその記録を活字にして残そうとする真摯な努力に頭が下がった。そこで、このような幸運を私一人の心のうちに留めておくだけではもったいないので、私事にわたる話ではあるが、一人でも多くの方に知っていただきいと思い、筆を執った。

最初の記述は、社内の研究会活動で貢献したという内容である。百年史から全文を引用する。「活発化する社内活動<木曜研究会>原則として木曜日の夜に主幹室または会議室で研究報告と討議を行うほか、工場見学、名著の研究なども行なうこととなっていた。「インフレーションに就いて」というテーマで第一回が1932年11月17日に開かれ、岡部利良が石橋湛山『インフレーションの理論と実際』について報告した。話は発展して資本主義の進展性といった様な問題にも及んだが、意見の相違が随所に見られたという。」(406頁)

父はマルクス主義経済学の信奉者であったが、当時まだわが国ではほとんど知られていなかったケインズの著作も読んで、彼の理論を石橋湛山にご進講したと生前に語っていた。ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』が発刊されたのは、一九三六年であるから、かなり早い時期にケインズにも注目していたようである。

次の記述は、当時の言論統制下でマルクス研究者がひどい目に遭わされた記録である。かなり長いので、一部を割愛して引用する。「1933年6月末、小熊孝と栂井義雄が特高警察の取調べを受け、8月にこれと関連して5名が堀留警察署に出頭する事件が起こった。容疑の内容は編輯部の小熊、栂井が中心となって『赤旗』の読者会を開き、一ヵ月100円程度の資金を集めて共産党に提供していたというものである。これを機に7月、編輯局の大原万平、岡部利良、根津知好、前田潔巳、石原清子らが堀留警察署に出頭して取調べを受け、手記を書いて放免された。(中略)

その間、石橋主幹は警視総監、検事正らを訪ねて寛大な処置を依頼すべく奔走した。結局小熊だけが起訴留保となり、そのほかは全員不起訴となった。事件が落着したあと石橋主幹はホールに全員を集め、不祥事件の概略を説明するとともに、関係者全員を社にとどめることを発表した。当時、治安維持法にかかわった場合は勤め先を追放されるのが普通だったが、全員が従来の職務に復帰した。

石橋主幹は、関係者を社にとどめる理由を次のように述べている。『私は社の責任者として今度の事件にどのような裁断を下すか日夜悩み苦しんだ。夜半ふと目をさまし、バイブルの一節を思い起こした。それは、九九匹の仔羊を捨てておいても一匹の迷える仔羊を救わなければならないという言葉であった。私は、今度の事件関係者に、今までどおり社で働いてもらうことにした。私の気持をくみとって、どうか諒承してもらいたい』(『石橋湛山全集』第9巻解説)」(409頁)

父は京大在学中にも同様の思想事件に巻き込まれ、京都の川端警察署に長期間留置されていた。それが原因で、3月には卒業証書を貰えず、学業履歴は1932年7月卒業となっている。東洋経済には、3月卒業予定という条件で採用され、5月に入社していたが、卒業の遅れも太っ腹の石橋湛山のおかげで、不問に付された由である。

それにしても、一新入社員の動静が60年後の刊行物に活字となって再現されたのは、やはり言論界の雄を自負し、何でも記録に留めてきた東洋経済新報社の企業風土に根ざしているものと考えられる。このような観点から『東洋経済新報社百年史』を改めて眺めて見ると、じつに面白い。以下にいくつかのユニークな点を摘記したい。

まず、この百年史には、父だけではなく、設立来の2,300名に上る社員のかなりの方の活動状況が実名入りで記述されており、巻末には全社員の名簿と索引が付いている。一方経営陣の動きについては、同社中興の祖である石橋湛山を除いては、あまり目立たないように抑えられている。要するに、東洋経済の歴史は全社員の精励の成果であることの実証を試みたドキュメンタリー構成となっており、読んでいて飽きない。

創業来の社員を大事にし、その活動記録を保存してきた東洋経済の社風に驚くとともに、この百年史はまさに「社史の鑑」と感じ入った。この百年史は1998年に日本経済史研究会から「内容が充実し、記述が生き生きしている」と高く評価され、「優秀会社史賞・特別賞」を受賞している。さらに、1996年度の日本出版学会賞の候補作品にもとり上げられたが、出版研究の対象とするには無理があるとして対象外となったのは残念である。

じつは、私も在職中に『住友銀行百年史』の編集に関わり、編集委員に頼まれて提供した国際関係の出来事が行史にとり入れられた。しかしながら、住友銀行の社史は財務や営業の記録が中心で、役職員の活動記録の記述はほとんど見られない。さらに、同行は、会長・頭取を除いては、役職員の個人名は原則として出さないという東洋経済とは正反対の編集方針を貫いている。その是非は別として、実名が出ていない歴史は読んでも面白くない。『東洋経済新報社百年史』では、実名入りのおかげで、父の息吹が蘇った思いをしたが、多くの関係者が同様の感慨に浸っておられることであろう。

このように社員一人一人の言動を記録に留めるという社風がどのようにして醸成され、永年にわたって保持されてきたのかを知りたいと思い、この百年史の編集後記に編集担当者としてお名前が出ていた山口正氏にお会いして、その間の事情をお伺いした。山口氏によれば、東洋経済には全社員の動静をかなり詳しく記録した「社内報」が毎月発行されており、その中から目ぼしい出来事を取捨選択されたという話であった。山口氏がもうお一人の編集担当の角田昭氏に照会されたところ、何と1975年に父が『週刊東洋経済・創刊80周年記念号』についての感想を同社に書き送ったハガキの現物を私に進呈いただいた。このハガキのなかで父は「いつも記事執筆に追われながらも、とにかく自由な空気のなかで楽しく過ごさせていただいたことを今でも感謝している次第です」と述懐している。

次に、本書の経営編は業務組織の変遷や社員の業務活動の記述に限定され、通例の社史のように財務、営業についての言及はほとんどなされていない。売上や利益の推移も掲げられていない。これは、同社は1921年に株式会社に改組されたが、株式会社といっても、それは「世を忍ぶ仮の姿」であって、実態は社員全体からなる結社という意識が強く、石橋湛山は、実態は「東洋山経済寺」だと語っていた由である。このような社是が脈々と繋がって今に生きているものと感慨を新たにした次第である。

(岡部陽二 元住友銀行専務取締役・元広島国際大学教授)

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(2009年10月25日、財団法人・日本工業倶楽部発行「会報」第230号p14~18所収)

 

 

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