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益富壽之助先生のご薫陶 岡部陽二

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 益富先生との出会い 

色鮮やかに輝く結晶鉱物の美しさや不思議な形状をした奇石の神秘さに魅せられて鉱物の収集を始めたのは、中学二年生の時であった。当時、通っていた京都教育大附属中学と自宅の中間に位置する烏丸鞍馬口に「益富鉱物標本館」という珍しい鉱物展示館があった。(写真1)その前を通るたびに標本棚を覗き込んでいたところ、ある日、中に招じ入れて頂き、益富寿之助先生にお会いしたのが始まりであった。先生は市井のアマチュア鉱物収集家として一家を成し、1932年に創設された「日本鉱物趣味の会」という同好者の会を主宰されていた。この会に級友二人とともに最少年で入門を許されたのである。

 

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   専攻の京大生などに交じって、ルーペを覗き結晶や劈開の微妙な違いを読み取る勉強をした。鉱物採集会は月に2~3回開かれ、週末に日帰りか一泊で鉱物の産地に出掛けた。採集の目的地は「日本鉱物誌」と「京都府鉱物誌」という分厚い図鑑に載っている産地から選ばれ、当時住んでいた京都近郊だけでなく、近畿全域はもとより、中部、中国地方一帯の主要な産地を4年間で踏破することができた。

    まず、最初に採集に臨んだのは、近場の大文字山で採れる桜石であったと記憶している。菫青石の一変種である桜石は亀岡市の西郊柿花の天神山の稜線に六角鉛筆を短く切ったような見事に桜の花弁の形をした石がたくさん転がっていたが、当時はすでに天然記念物に指定されていて、採集できなかった。大文字山でもフォルフェルスの中に桜石が見つかり、亀岡産に比べるとやや貧弱ながら、地元の特産鉱物である。 

日本には福岡県門司の海岸に産する梅花石(輝緑凝灰岩に梅の花の形をして埋もれている海百合の化石)や絢爛豪華な岐阜県根尾谷産の菊花石(玄武岩の放射状の割れ目に方解石が入り込み、菊花状を呈している鑑賞岩)があり、石からも季節を感じられる。根尾谷の菊花石も天然記念物であるが、指定前に採集されたものを京都東寺の骨董市で入手した。

大文字山を手始めに、北は終戦時に廃坑となった京都府北端の大江山ニッケル鉱山、南は細かい石榴石を産する大阪と和歌山県境の二上山、金剛山、東は方解石や大理石で有名な岐阜県赤坂鉱山、西は山口県の秋芳洞にまで足を伸ばした。当時は、別子銅山はもとより、兵庫県の生野銀山(1973年に閉山、今は鉱山ミュージアムとして人気)やカミオカンデで有名になった岐阜県の神岡鉱山など多くの鉱山が稼働していたので、廃石の中から結構珍しい鉱物が見つかった。

益富先生からは、当時「参謀本部地図」と呼ばれていた旧陸軍の陸地測量部(現国土地理院)が作製した五万分の一縮尺地形図の等高線の読み方から教わった。地図を眺めるだけではなく、現地で地層の走行や傾斜の角度を測るクリノメーターを使って、麓の道端の地層が山頂のどの辺りに連なっているのかを推測し、それを実際に目で確かめる訓練などを繰り返した。旅の合間には、川床の砂の色から上流にはどのような鉱物や岩石があるのか考える練習も重ねた。単に鉱物を集めるだけではなく、地形や地層から山や渓谷、海岸線の由来を考え、地質と鉱物を一体として翫賞する癖がついたことが、先生から学んだ最大の収穫であった。

先生は当時宮内庁から委託された正倉院石薬の科学的調査に従事されていた。この研究がちょうど私が先生に師事していた4年間とほぼ重なっていたので、国の宝物を鑑定する苦労話をよく聞かされた。原石を割ったり削ったりすることは許されず、ごく微量のサンプルを分析して化学成分を確定し、効能の推定までしなければならないのは大変なストレスのようであった。

   先生のご著書には「京都府鉱物誌」(1940年)をはじめ、「カラー自然ガイド~やさしい鉱物学」「原色鉱物図鑑」「原色化石図鑑」など多数あるが、中でも1967年に紫綬褒章受賞記念として出版された「石~昭和雲根誌」は出色である。古い民話的なエピソードも交えながら、先生の石に関する蘊蓄が自由闊達に綴られている。(写真2)いわば日本と中国に産する珍石・奇石についての全知識を網羅したエッセー集で、他に類を見ない。題名は江戸時代後期に近江の国の木内石亭という奇石の集収集家が著した「雲根誌」に倣ったものである。「雲根」は、雲は山気が石に触れて生ずるとの古代中国の迷信からきた「石」の異称である。

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   益富先生と対比されるのは、東京神田で家業の鳥鍋屋「ぼたん」経営の傍ら独学で鉱物学を修め、アマチュア鉱物学者として同好者の指導にも熱心であった櫻井欽一先生である。お二人はまさに一世代前にアマチュア鉱物界にそそり立った東西の二大大御所であった。櫻井先生は益富先生より11歳若いが、ほぼ同時期に博士号をとられ、亡くなられたのはお二人とも1993年である。昭和雲根誌には、両先生が滋賀県石山にある石亭邸跡の記念碑の前で撮られた写真が出ている。

益富壽之助先生の正倉院石薬研究
 

   正倉院の薬物調査は専門調査員9名の構成で1948年から4年間を費やして行なわれた。この調査団結成に当って、1,200年間も手つかずのまま正倉院に保存されてきた石薬の分析調査ができるのは、日本中探して益富先生しかないということで、先生に白羽の矢が立てられた次第である。その経緯としては、まず調査の総責任者を務められた朝比奈泰彦博士(薬学者、東大名誉教授、文化勲章受章者)が、西洋流の教育のみを受けた薬学者や鉱物学者では現品の科学的分析はできても、漢方医薬としての曲折を明らかにすることはできないと考えられた。博士の設定された厳しい基準に合致する適材を探された結果、益富先生は京都薬学校(現京都薬大)で漢方医学を習得され、同時に市井の鉱物学者としての名声がすでに確立していたので、余人をもって代え難いと判断されたものである。

    1957年に先生が出版された「正倉院薬物を中心とする古代石薬の研究」に寄せられた朝比奈博士の序文には「益富君は薬学畑の出身でありながら地質鉱物学を習得し夙に一家を成し、同時に古典に対する同情に富み、古い都の京都が育成した典型的な文化人であり、吾々正倉院薬物調査団の有力な一員として欠くことのできない存在であった。」と記されている。益富先生はこの論文により1956年に京都大学から薬学博士号を授与されておられる。

   現在、漢方薬と言えば草根木皮の代名詞のように思われており、鉱物は石膏、芒消、赤石脂など10種ほどのごく僅かな鉱物成分が漢方薬の原料として使われているに過ぎない。たとえば、利尿剤の「五淋散」には11種の生薬が配合されており、その中に滑石が入っているといった程度である。ところが、驚いたことに、正倉院に残されている薬物76種(薬帳記載60種、うち現存は40種、帳外の薬物16種)のなかの何と1/3を占める25種が鉱物由来の生薬である。古代中国において、水に溶けにくい鉱物が薬として多用されたのは、金粉や水晶片が不老長寿の妙薬と考えられたような石薬迷信もあるものの、やはり石薬の効能が顕著であったと言うことであろう。

   正倉院の薬帳に記載されている薬物60種は、752年に法隆寺の大仏開眼を成就した聖武天皇崩御の49日法要に当って光明皇太后から600点に及ぶ多数の品々とともに大仏に奉献されたものである。この薬物はすべて7世紀初頭から派遣された遣隋使や遣唐使あるいは8世紀中ごろに来日した鑑真和尚が中国から持ち込んだもので、国産品は入っていない。唐招提寺を開いた鑑真和尚は医薬に詳しく皇太后の病気を治したと伝えられている。正倉院薬物のように由緒正しい古代の遺品が1,200年の長年月にわたってそのまま保存されてきたのは、世界に類例がなく、中国においても古文書に名を留めるに過ぎない薬剤原料の現物が現存するのは、稀有のことである。

 

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   正倉院に現存する薬物40種のうち17種の鉱物性薬物を『正倉院薬物を中心とする古代石薬の研究』から次に紹介する。 

1、寒水石(カンスイセキ)凝水石ともいう。 従来は方解石とされてきたが、益富先生の鑑定により「石灰芒消(Glauberite、Na2Ca(SO4)2)」と同定された。岩塩層に伴うGlauberiteが医書「本草木」の凝水石の記文にも合致する。止渇薬、利尿薬などとして用いられる。 

 

2、理石(リセキ) 石膏の一種、繊維石膏。漢方繁用の重要な薬で、用途は止渇剤、解熱剤など。 
 
3、大一禹余粮(ダイイチ・ウヨリョウ) 内部の空洞に紫色の粘土状粉塵を内包している鶏卵大から拳大の褐鉄鉱の塊。中の紫色粉を夏王朝の禹王が常用したとされる史実から命名された石薬。「大一」は中の石粉の色が紫や赤のものを称する。この石の化学成分は含水珪酸アルミニウムに水酸化鉄ないし酸化第二鉄の混じったカオリンとも呼ばれる加水ハロイサイト系の粘土が主である。粮は糧食の意。渋腸止瀉、収斂止血剤。

4、竜骨(リューコツ) マンモスの化石、おもに炭酸カルシウムから成る。気の病に効あり。

5、白竜骨(ハクリューコツ) 化石鹿の四肢骨や歯。収斂剤、鎮静剤など。

6、竜角(リューカク) 白竜骨に同じ。

7、五色竜歯(ゴシキリューシ) ナウマン象の臼歯の化石 収斂剤、鎮静剤など。

8、似竜骨石(ニリューコッセキ) 木目がある珪化木。竜骨に似ているところから命名されたが、木の化石。

9、赤石脂(シャクセキシ)赤色をおびた白雲母系の粘土質の鉱物。主成分は二酸化珪素約5%、酸化アルミニウム約12%。下痢止め薬。

10、鍾乳床(ショウニューショウ)鍾乳石のことで、炭酸カルシュウムを主成分とする方解石の集合体。滋養強壮のほか、ED、乳汁分泌不足に効あり。

11、芒消(ボウショウ) 江戸時代から結晶硫酸ナトリウムが芒消と呼ばれてきたが、正倉院薬物の芒消は結晶硫酸マグネシウム、すなわち「瀉利塩」であることが、益富先生の鑑定で明らかとなった。下剤、利尿剤。

12、雲母粉(ウンモフン) 滋賀県産の「白雲母」と成分構成がほぼ一致。解熱、喘息などに効。外用として切傷、出血、できものに対しても使われた。

13、戎塩(ジューエン) 淡褐色の粉末状の岩塩で、石膏、硫酸ナトリュウム、塩化カリュウム、ホウ酸マグネシュウムなどの水溶性成分の混合物。食塩の一種であるが、眼病などにも効くとされた。

14、雄黄(ユウオウ) 硫化砒素鉱物の一種である鶏冠石を長径6センチほどの卵形に加工したもの。殺菌効果があるが、毒性が強い。暖手と称し、この卵形の雄黄を両手の掌に囲み袖で覆うと掌にこもった温かみが全身に伝わる。石薬は通常は粉末にして、他の生薬と混ぜて服用するが、この雄黄は一種の医療機器として用いられた。

15、白石英(ハクセキエイ) 水晶の破片。古代中国では、白石英、紫石英、水精の三つの名前が、薬物として登場している。かつて中国では紫水晶が、不老不死の霊薬の調合に用いられていたが、実際の効目よりも高貴薬のイメ-ジ作りに利用されたのではなかろうか。

16、滑石(カッセキ)現物に「滑石」と書かれているが、実体は蠟石で、成分は加水ハロイサイトの一種。利尿剤などに使われる。

17、紫色粉(シショクフン) 酸化鉄分を含む粘土の粉末。上記「大一禹余粮」の内容物。用途は収斂薬など。
 

   漢方の生薬のうち、動物や植物由来のものは種ごとに固有の形態があって、古来それが類別の基準となっている。ところが、鉱物の場合には外観が類別の役に立たないともあり、むしろ物理的性質や化学的成分が識別の手段となっている。「本草綱目」などの医書にも多くの石薬が載っているが、その記述だけでは、どのような鉱物であったのか判別が困難である。これに対し、正倉院の遺物は鉱物由来の生薬がかつては実際に広く使われていたことを如実に示している。それでも、それぞれの鉱物にどのような効能を期待されていたのかを同定するのは薬学者の益富先生にとっても難事であったが、この実証研究は東洋医学の見直しに大きく貢献した。 

   ところで、不幸の通知によく使われる「薬石効なく」の石は石薬の意ではなく、鍼治療に使われる「砭石(ヘンセキ)」を指す。インドに発し、中国を経て日本にも齎された鍼の原始形態は、硬い石を割って鋭く尖った先を皮膚に突き刺して病気を治す一種の瀉血療法であった。この石針が砭石と呼ばれ、薬と砭石が漢方の治療手段として大きな役割を果たしてきたものである。この薬石の語源は古く、漢の文帝(紀元前167年ごろ)の文書に出てくる。石薬の語源は詳らかではないが、隋時代の文書に「石薬沈滞し五臓に達す」との記述が見られる。いずれにせよ、漢方医学では、病名は必ずしも必要ではなく、薬も鍼も身体内外のストレスの解消を重視しているところに特徴がある。

私の鉱物遍歴

  私の鉱物収集は高校時代がピークで大学に入ってからは停滞、銀行に就職後は激務で鉱物採集に行く余裕はなかった。ところが、1976年にロンドン勤務となり、欧州各地へ頻繁に出張するようになると、どんな小さな町にも鉱物の原石や化石類を専門に扱うミネラル・ショップとか、ナチュラル・ストアーと称する趣味の店が沢山あることを知った。はじめのうちは出張の合間を見付けては立寄り、気に入った石を一つ二つと買い求めていたものが、ついには休暇を取って原石を求めてブラジルや南アフリカにまで足を延ばすようになった。その甲斐があって、数年で500種余りの鉱物標本が揃った。

ロンドンから日帰りのドライブで行ける、ドーバー海峡に面したドーセットから東デヴォンにわたる155キロの海岸線はジェラシック海岸と呼ばれ、沿岸の岩場にはアンモナイトの化石がびっしり詰まった岩が蝟集している。2001年には、この海岸がユネスコの世界自然遺産に指定された。この海岸線の中ほどに位するライム・レギス(Lyme Regis)という街には、化石や鉱物を商う店が数軒あり、休日にはよく訪ねた。

ドイツのイダール・オーベルシュタインも印象深い石の町であった。ここはフランクフルトから西へルクセンブルグとの国境に程近い人口5,000人くらいの小さな谷間の町で、昔はここで瑪瑙などを産出していたが、今では外国から輸入した宝石・貴石の原石を加工して世界中に売り捌いている。立派な鉱物博物館を中心に、珍しい貴石の置物や原石を並べた土産物店が軒を連ね、いわば町全体が石の加工工場で、一日中見て回っても飽きない。

当時3人の子供はアメリカに住んでいたので、日本への帰途にアメリカ各地を訪ねた。ニューメキシコ州北部に位置するペトリファイド・フォレスト国立公園には、16千年前の直径1米を超える珪化木が所狭しと転がっている。地元のインデアンはこの珪化木で家を建てているが、もちろん持ち出し禁止で、自動車のボンネットの中まで厳重にチェックされる。ところが、1995年に新設された神奈川県立「生命の星・地球博物館」にはこの巨大な珪化木が十数個並べられており、ドーセット海岸のアンモナイト標本も壁一面に展示されている。日本でも居ながらにして世界の名石が見られるようになったのは素晴らしい。

また、ブラジルのリオデジャネイロは宝石のパラダイスといわれるだけあって、原石も豊富である。ここでは、世界一の宝石商といわれるジュリオ・ロジャー・サワー氏と会うことができた。サワー氏はエメラルドなどの素晴らしい原石は、加工せずにそのままコレクションとして保存していた。「石には顔がある」という私の信条にも賛同してくれて、話が弾んだ。

大英博物館やモスクワのフェルスマン鉱物博物館など世界各地の名だたる鉱物博物館は一通り訪ねた。その中でも、スケールの大きさで他の追随を許さないのは、ワシントンのスミソニアン博物館であろう。収蔵標本点数45,000点、鉱物原石に加えて、濃い青色に輝くホープのダイヤモンドをはじめ、実に見事な宝石類がきら星の如く並んでいる様は壮観である。パリには三つも鉱物博物館があり、ナポレオン皇帝が収集したとされるパリ第6大学(UniversitéPierre et Marie Curie)内の鉱物博物館の垢ぬけした展示は総ガラス張りで見易く、標本を引き立たせていた。

このような鉱物遍歴の一端を紹介した「地球の滴、神秘さ永遠に~鉱物収集の趣味の輪日本でも広がる」という私の寄稿が、19971121日付けの日本経済新聞最終ページの文化欄に掲載された。(1)このエッセーに対する反響は大きく、町おこしのための企画への助言などいくつかの依頼が舞い込んできた。

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それらの中で、きわめてタイミングよく結実したのが、1997年に創業50周年記念事業として長野県の岡谷市と塩尻市の境にある「いこいの森公園」内に建てられた「ミュージアム鉱研、地球の宝石箱」創設のお手伝いであった。30億円の巨費を投じたこの新しい鉱物博物館の設立を企画しておられた鉱研工業㈱の加藤信一監査役(初代の博物館長)から相談が舞い込んできたのであった。同社は世界中で原油やオイルシェールなどのボーリング事業を展開している会社であるが、事業の基盤を築かれた江口工社長は鉱物収集にも熱心で、工事を請負った先々の国で産する代表的な鉱物を入手して日本に持ち帰っていた。中には現在博物館の前庭に展示されているチリから寄贈された巨大な銅鉱石もあるが、多くは「240kgもある鉄隕石」「美しいトルマリンを含む2.5トンのペグマタイト」「30kgのラピスラズリ」「ゴビ砂漠産の恐竜の卵の化石」など一個に数千万円を投じて現地で購入された巨大標本ばかりである。

   これらの鉱物標本は眺めて楽しめる素晴らしいものばかりであるが、アト・ランダムに集められたので、網羅性を欠く難点があった。収集は学問としては分類学の目的に過ぎないので、鉱物博物館であれば、鉱物の種類をできるだけ多く系統的に網羅することが必須であるとアドバイス申し上げた。

それではどうすればよいか。開館までの時間も限られていたので、鉱物標本を網羅的に集めるのは大変である。そこで、はたと思いついたのが、当時、東北大学の素材工学研究所に勤めていた息子の徹が管理を任されていた鉱物標本であった。この研究所の前身は金属選鉱精錬研究所であって、1981年に退官された南部松夫博士が全国の鉱山などから集められた4,000点以上の「南部コレクション」という有名な鉱石・鉱物の標本が残されていた。その過半はすでに県立博物館などに寄贈されていたが、1,000点ほどの標本が残っていたのである。この情報を鉱研工業に伝えたところ、とんとん拍子に話が進み、この標本すべてを無償で譲り受けることができ、当時東京理科大におられた南部先生に博物館の顧問になって頂く話までまとまった。

博物館のホームページには「地球の宝石箱の展示は、東北大学素材研に有った一級品の標本およそ1000点と鉱研工業が50年の社歴の中で集めた標本およそ5000点の標本を基に展示をしております。」と説明されており、東北大学から寄贈された標本にはその旨ラベルに明記されている。

その当時から、私のささやかなコレクションもこの博物館に引き取ってもらえないものかと考えていたが、80歳を超えたのを機に原石の標本類をすべて同館に寄贈した。南アやブラジル産の原石も日本に安住の地を得て喜んでくれているものと勝手に納得している。

 

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   京都の益富地学会館にも時々顔を出し、この会館が創始したユニークな1級鉱物鑑定士の資格試験にも挑んだが、中途で断念した。もっとも、広島国際大学で薬剤の費用対効果などを考究する医療経済学を教えることになったのは、石薬研究を畢生の仕事として来られた益富先生との何かのご縁であろうか。益富先生は1993年に93歳の天寿を全うされた。ちょうど私の帰国直後であり、お見舞いを試みたが、お会いできなかったのは誠に心残りであった。


(2014
1216日受理 〒181-0001三鷹市井の頭3丁目1-1岡部陽二; 元住友銀行専務取締役、元広島国際大学教授)

2016930日、公益財団法人益富地学会館発行『地学研究』第64巻第1p5258<随想>所収)

 

 

 

 

 

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