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7 中高生時代 ──鉱物に出会う


 私が兵庫県・諸寄もろ よせ小学校を卒業したのは、一九四七年(昭和二十二年)三月。その二カ月後の五月、父がシベリアから帰還、二年ぶりに家族全員が再会した。共に筆舌に尽くしがたい苦労を重ねた二年ではあったが、皆が無事に集うことができたことは何よりであった。

 帰還後、郷里で衰弱した体を養っていた父は、研究生活を続けることを決意、古巣の京大経済学部に戻る機会を得る。同年十月のことだ。

 復帰後、父は会計学の研究に本格的に取り組んだ。しかし、文部省は経済学部に会計学講座の設置を認めず、仕方なく教養学部教授の肩書で教養課程の経済学概論を教えながら、実質的には経済学部で会計学の研究や授業などを担当。紆余曲折を経て、一九六三年(昭和三十八年)経済学部長に就任した。 

 諸寄小学校卒業時には、父の消息はわからなかったので、私一人、大阪に戻ったばかりの母方の祖父・小松宇三郎宅に預けられた。ここから新制中学として発足したばかりの大阪市立住吉第三中学校に入学した。学校でいじめられた覚えはないが、何となく「よそ者扱い」という雰囲気を感じた。

 住吉第三中に一年間通った後、中学二年からは京都師範学校(現・京都教育大学)附属京都中学校二年に編入学した。満州へ行く前の五年生まで通学していた京都師範附属国民学校が中学を併設したので、中学からの復学を認めてくれたものであった。

 京都師範附属国民学校で思い出すのは、一九四九年(昭和二十四年)に日本人として初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹京大教授の次男・高秋君と親しく、近所でもあったので、彼の家によく遊びに行ったことである。残念ながら、彼は米国留学中に夭折した。

 私の小中高の転校の多さは、父の転勤に伴う側面が大きかったものの、戦前・戦後の混乱を象徴するものとも言えよう。そんななかでも、将来はこんな職業に就きたいという目標を持っていたかというと、はっきりしたものはなかったように思う。まったく考えなかったというと嘘になるが、極めてぐらぐらしていたというのが正直なところである。

 母に言わせると、幼い頃の私は「好き嫌いが激しく、肉、卵、じゃがいも、ほうれん草くらいしか食べなかった」そうである。しかし、戦争で食べる物が不足し、好き嫌いを言えなくなると何でも食べるようになった。皮肉なことだが、その点は戦争によるひもじさのおかげかもしれない。ただ、焼き海苔を除く塩昆布などの海藻類と漬け物だけは、その後も口に入らない。

 中学生になってバスケットボール部に入った。スポーツが苦手な私は、終始、補欠のような存在であったが、それでもこの時期に身長が急速に伸びたのは、運動の効果があったのであろう。

 一生の出会いが、中学二年の時にあった。色鮮やかに輝く結晶鉱物の美しさや不思議な形状をした奇石の神秘さに魅せられたのである。

 附属中学と自宅の中間に位置する烏丸鞍馬口に「益富鉱物標本館」という珍しい鉱物展示館があった。学校からの帰り道に、そこの標本棚をのぞき込んでいた。そんなある日、標本館のなかに入るよう声を掛けられた。益富壽之助先生との初めての出会いである。

 益富先生は市井のアマチュア鉱物収集家として一家を成し、戦前の一九三二年(昭和七年)から「日本鉱物趣味の会」を主宰しておられた。先生からは当時「参謀本部地図」と呼ばれていた五万分の一の縮尺地図の等高線の読み方から教わった。地図を眺めるだけでなく、現地でクリノメーターを使って地層の走行や傾斜の角度の測り方も学んだ。週末には、リュックサックにハンマーや(たがね)を詰め込んで、東は岐阜県、西は山口県まで鉱物の産地に採集に出掛けた。

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 私の鉱物収集熱は中学から高校時代がピークで、大学進学後は停滞期に入る。だが、銀行に入ってロンドン勤務になったのをきっかけに、再び鉱物収集に励むようになった。

 高校は洛北高校に入った。当時の京都は、厳格な学区制で、銀閣寺近くの住まいは鴨沂(おう き)高校の学区であったが、洛北高校に行く友人が多かったこともあり、父の友人宅に寄留する形にして、あえて新設の洛北高校を選んだのである。洛北高の前身は府立京都一中。日本で初めて設立された旧制中学でもあったが、学制変更で二年間は新制中学になり、私たちが入学した年に新制・洛北高校になった。したがって、私たちが実質的には一期生であったが、周辺の学区の高校に散っていた一年上の学年も集められたため、洛北高の卒業生としては二期生ということになった。

 洛北高校の前身である京都一中は、ノーベル賞受賞者を二人も輩出した唯一の中学校として有名である。しかも、日本人として一番目と二番目の受賞という輝かしい記録である。最初の受賞者は先にも述べた湯川秀樹博士、二人目は朝永振一郎博士で、二人とも京都一中から、三高、京大へと進んだ。







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