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3 幼児期──父、満州国建国大学へ赴任



 私の幼い頃の運命は、父の勤務先に大きく左右された面が大きかった。

 「1誕生─名前の由来」の項でも紹介したように、父が東洋経済新報社を辞め、京大経済学部大学院に一年だけ在籍して、副手に採用されたことに伴い、私も三歳になる前に東京から京都に移った。

 父が京大に勤務できるようになったのは蜷川虎三先生のおかげである。蜷川先生は、大学の先生に似つかわしくないほど剛毅なお人柄で、幼い頃から可愛がってもらった思い出が残っている。父にとっては大恩人に当たり、私も中学・高校時代は蜷川先生の京都府知事選挙の手伝いで走り回った。

 先生は、吉田茂首相に見込まれて一九四八年(昭和二十三年)に中小企業庁の初代長官に就任したものの、中小企業政策を巡って首相と対立して辞任。その後、京都府知事を七期二十八年間務めた。この記録はまだ誰にも破られておらず、しかも、在任中には一度も宴席へ出なかったほどの硬骨漢として有名であった。

 父が京大副手の職を得た時、先生は経済学部助教授であったが、経営学と会計学の重要性を説き、会計学を担当させるために父を京大に呼び寄せたのであった。しかし、当時の文部省は経営学や会計学などの実学は、官学で教えるべきではないという方針であり、会計学の研究に本格的に取り組むことはできなかった。

 このため、京大副手に従事したとはいえ、ほぼ無給で、政府からの委託研究などで報酬を得ていた。私が四歳だった一九三九年(昭和十四年)一月には、大連港の貿易に関する調査に当たるため同市役所嘱託として大連市に移住することになった。大連での生活は一年余りであったが、かすかながら記憶に残っている。およそ七十年ぶりとなる二〇〇九年(平成二十一年)に大連市を再び訪れた時には、日本人が多く住んでいた桜花台地区は昔の面影を微塵も残していなかった。ただ、父がよく会合に使っていた有名な大連ヤマトホテル、風光明媚な星が浦や二百三高地は昔のままの姿を維持しており、懐かしい思いに浸ることができた。

18081618-390501旅順二百三高地にて・前列中央に5歳の筆者.jpg

 大連勤務の後、父は三年間にわたって中国の紡績労働慣行調査に従事した。この調査結果をまとめて政府に提出した報告書が戦後に戻されてきた。この調査は学問の世界へ戻っての初めての大仕事であっただけに、父の情熱とエネルギーがあふれている。

 本書は日中戦争(一九三七~四五年)期の日系・英国系・中国地場の紡績企業をつぶさに調査して、雇用における間接契約制度・労務管理・労働生産性など広範にわたる労働および経営の実態を取りまとめたものである。

 当時の経営方式は、資本家は設備と資金の一部を提供する一方、経営は買弁(コンプラドール)と称する地場の有能な経営者に任せる委託生産方式であった。今から八十年も前の中国旧体制下の実態調査ではあるが、この方式は現在の外資との合弁企業などに通ずるところも多く、歴史的価値だけではなく、中国への進出企業の参考になる点も多々含んでいる。

 父は教授生活引退後にこの研究報告書の出版を決意し、亡くなる直前まで原稿に手を入れて、ほぼ完成していた。それだけに、本書を出版することが故人への供養と思い、執筆から四十九年後の父の一周忌に、五百二十五ページの大著『旧中国の紡績労働研究』が上梓できたことは喜びこの上ない。本書の刊行に当たっては、父の教え子で中国会計にご造詣の深い九州大学の西村明教授に大変お世話になった。

 もっとも、本書の校正は相続人である私の責務とされ、ロンドンの地で一夏の間三カ月にわたって、休日はこれに没頭した。

 一九四〇年(昭和十五年)三月、私は葵幼稚園に入園。この年十二月には妹・晶子が生まれた。一九三八年(昭和十三年)一月生まれの妹・瑛子を含め、岡部家の家族は総勢五人に増えた。

18081618-410301葵幼稚園卒園時の写真.jpg

 翌年四月に、京都師範学校(現・京都教育大学)附属国民学校に入学。国家主義的な観点から、それまでの尋常小学校が、この年に廃止され、国民学校となった。国民学校の存続期間は短かったので、入学も卒業も国民学校というのは私たちの階層だけという珍しい世代である。

 附属国民学校の入学試験は記憶力を試すだけの簡単なものであったので合格できはしたものの、入学後は劣等生であった。偏食が激しく、喘息持ちの蒲柳(ほりゅう)の質で体が弱かったため、体育の授業はほとんど休んでいた。母によると、四年生まで授業の三分の一は欠席していたという。

 日本軍の後退が余儀なくされ、国内にも戦火が次第に及び始めていた一九四五年(昭和二十年)四月、再び京都を遠く離れることになった。蜷川先生らの尽力で前年十一月に、父が満州国の建国大学助教授に就任することになったからである。

 当時の父は「家庭をかかえて生活を維持しながら研究の道を歩むということは、予想にたがわず険しい」状態であった。それ以上に、マルクス主義の研究者は国内では教授や助教授にはなれないといわれ、能力本位で採用してくれた建国大学に大きく魅かれたことも、満州国新京市(現・中国吉林省長春市)への赴任を後押しした。

 だが、満州にはさらなる苦難の道が待ち構えていた。そのことは、四カ月後に新京市に渡った私たち家族にも覆いかぶさってくる黒雲でもあった。

 建国大学に赴任して間もなく、四十歳という年齢であったにもかかわらず、父は現地召集を受け、関東軍に入隊せざるを得なくなってしまう。しかも、第二国民兵という一兵卒としてであった。入隊すると、教練用の兵器もろくにないありさまで、不安が先に立つような状況であったという。

 父は軍隊生活三カ月で終戦を迎えるが、日ならずしてソ連軍の管轄下に置かれた。その後は多くの日本兵とともにシベリアへ送られ、捕虜収容所生活を余儀なくされた。

 一方、新京市に残された私たち家族にも日本の敗戦によって、言いようもない苦難の道が待ち構えていた。父親不在のまま、異郷の地に放り出された母と幼い兄妹、それに祖母を加えた家族五人の脱出行の始まりである。








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