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2 両 親──文通で愛を育む



 両親のことについて話しておきたい。父・岡部利良が生まれたのは、北海道函館市。一九〇五年(明治三十八年)四月七日。しかし、五歳の時に、私には祖父にあたる岡部鹿太郎が亡くなり、子供四人を抱えた祖母・はるは郷里の兵庫県美方郡西浜村(現・新温泉町)諸寄(もろ よせ)に戻った。

 当時の諸寄は日本海側の半農半漁の貧しい寒村で、開拓民として北海道へ移住する家族も多かったという。祖父母たちも、その一組であった。

 貧しい家庭で育った父は、勉学を続けたいという強い思いを持ち続け、つてを求めて上京、書生をしながら早稲田工手学校夜間部の建築科に入学。さらに上級の学校に進むため開成中学に三年在籍して、高等学校入学資格検定試験に合格、金沢の第四高等学校に入学した。京都の三高に願書を出していたが、山陰線が不通となって受験日に間に合わず、入試日の遅かった金沢へ向かったそうである。

 こうした状況下で多感な青春時代を過ごしたことは、その後の父の考えを左右するものとなったようだ。一九二七年(昭和二年)に父が作詞した第四高等学校南寮寮歌の書き出しは「新しき生命萌え出で 蘇る春の歓喜」と青春賛歌に満ちている。さらに、翌年七月に発行された四高の『北辰會雑誌』には、「歴史の発展過程小論─歴史理論に関する問題の提出」と題する哲学の論文を寄せている。

 一九二九年(昭和四年)四月に京大経済学部に入学すると、すぐに京大社会科学研究会に参加した。ただ、マルクス主義には傾倒していたが、基本的にはノンポリ学生であったようである。それどころか、学費を稼ぐためのアルバイトに時間を割かざるを得なかったのが実情であった。

 父の話が少し長くなった。母のほうに話を転じよう。

 母の旧姓は小松。名は、戸籍上はイサだが、漢字表記を好み、伊佐を用いていた。一九一一年(明治四十四年)九月十二日、父・宇三郎、母・はつの長女として生まれた。実家は大阪市浪速区の通天閣近くの商店街で、従業員二十人ほどを雇う蒲鉾屋を営んでいた。大谷高等女学校本科(現・大谷高校)を一九二九年(昭和四年)に卒業している。

18081613-341201母方の祖父小松宇三郎に抱かれて.jpg

 父母の初めての出会いは、一九三二年(昭和七年)の六甲山。父は卒業を間近に控えていた。三カ月ほど交際したが、父が東京の東洋経済新報社に入社したため、以後は文通で愛を育み、翌年一月十四日に挙式した。当時としては珍しい恋愛結婚である。父二十八歳、母二十二歳の時であった。

 仲人は、後に京都府知事も務める京大時代の恩師、蜷川虎三先生。先生の指示で蜷川氏の奥さまが、大阪の母の実家までわざわざ様子を見に行ってくださった。先生のご令嬢の思葦子さんから後年お伺いした逸話である。両親二人とも八十六歳で亡くなった。苦労した割には長生きして天寿を全うできたのではないだろうか。

 父が学問一筋で融通の利かない真面目一徹であったのに対し、母のほうは明るく、全てに前向きという対照的な性格であった。母は子供のしつけの面でも細かいことは言わず、温かく見守る感じであった。父からは「陽二の横着者」とよく叱られたが、母親の性格のほうを多分に受け継いだのかもしれない。

 母については、もう一つ語っておきたい。七十歳を過ぎてから俳句を始めたことである。八十六歳で亡くなる直前まで毎月投句を欠かさなかった。句集も、第一句集『三味線草』と第二句集『冬もみぢ』の二冊を刊行した。『冬もみぢ』は、母が亡くなった後、私たち子供三人で刊行したものである。









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