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30 私の教育論──日本の大学の根本的問題


 広島国際大学での講義は週に五コマで、それほど多いものではなかった。しかし、講義の他にゼミ、実習の統括から就職の世話まで全部一人でこなさなければならず、まさに体力勝負であった。

 この大学のカリキュラムには一年次に学生数を少人数に絞って、教師が集中的に学習の基本を教える「チュートリアル」という授業が組み込まれていた。学生数を十名以下に抑え、個々人が自発的に考えたテーマを発表することにより自己啓発を促すのが目的であった。 

 これは理念としては優れた教育手法ながら、これまで教室での講義が主体であった教師にとっては、教師自身がどう運用するかにつき頭を絞らなければならない難問であった。

 そこで、私は岩波新書の一冊を選んで、毎回指定した範囲の要約と感想をまとめて発表させ、それを基に全員で議論、さらには発表文を徹底的に推敲して返した。これを半年も繰り返していると、発表力だけではなく、文章力も目に見えて顕著に上達した。

 ただ、本来中学・高校の段階で行なわれるべきこのような基礎学習を、まったく受けないままで大学に進学してくる実情には憂うべきものがあると痛感せざるを得なかった。

 三・四年次のゼミでは私の専門には拘泥せず、学生が「自ら問題を発掘し、自らそれを解決する」ことをモットーとした。研究テーマの選択や論旨は学生の自由に委ね、私は一切口を挟まなかった。四年間に卒業したゼミ生二十四人には各自の好みで自由にテーマを選ばせた。

 その結果、混合診療や医療過誤訴訟、インフォームドコンセント、電子カルテ、臓器移植、高齢者介護などの専門分野を深く考察したものだけでなく、子供の権利条約や児童虐待など、日本の医療・福祉界が直面している極めてホットな課題を網羅した多岐、多彩な幅広い論文が出てきたことには驚いた。ただ、これらのテーマには私自身に何の知識もなく、一から勉強して、学生の論文を批評しなければならず、多大の労力を要した。

 しかも、これら論文は全て改革に向けた政策を提言しており、私自身も大きな刺激を受けた。教授退職記念に、これら論文をまとめ『医療・福祉の諸問題』と題して刊行した。

 この論文集の序文に、これから実社会で力強く活躍する卒業生に向け、高浜虚子の次の句を(はなむけ)に贈った。

     春風や闘志いだきて丘に立つ

 この句は、私の好きな俳句の一つである。大学の仕事を終えて、さらなる人生に立ち向かおうとしている私自身を奮い立たせる意味もあった。

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 大学教授になって私が最も痛感したことは、日本の大学には「優れた教育者であろうとする教授が少ない」ということである。大学は本来教育機関であるにもかかわらず、学生のほうを向いていない教授があまりにも多いことが、日本の大学の根本的問題であろう。研究実績は種々の角度から評価されるので、研究が本来の仕事と勘違いしている。大学側も研究成果は重視するが、教育の成果には意を用いず、優れた教育をしても、それを給与などの待遇に反映させることはない。

 こんな私の思いを、二〇〇七年(平成十九年)六月十八日付で日本経済新聞の教育欄に寄稿した。その論旨を紹介しておこう。

「銀行では国際金融マンとして営業一筋だったこともあり、緊張度の高い競争社会を経験してきた。これとは逆に、大学は競争の存在しない無重力の世界のようであった。教育実績がまったく評価されることがない微温的なシステムに保護されているからであろう。

 だが、教育者の使命は学生に自ら考えて行動する力をつけさせ、厳しい競争社会を生き抜けるような人材を育てることである。それには、教育の質を高める必要があるが、教育の質の向上は教員間の切磋琢磨(せっ さ たく ま)による激しい競争によってのみ実現するのは、産業界のサービス競争による品質向上と何ら異なるところはない。(略)

 結論として、四年制大学の教育現場に導入すべきシステムは①教育実績についての相互評価(ピアレビュー)を中心とする教員の相対評価実施、②この評価の仕組みを活用しての大学教員への「任期制」「年俸制」の導入──の二点であると確信している」

 ところが、この記事に対する大学の先生たちからの反発には大きなものがあった。人格形成の面では、学生時代というのは一番大切な時である。にもかかわらず、評価制度のない大学の先生たちは、まさに「真空の世界」に生きており、学生たちにとっては不幸なことであると思うのだが......。

 新設の広島国際大学が最も重視していたのが、インターンシップ(学外実習)であった。河口豊学部長から、一年次の学生に課す「ホスピタリティーのあり方を現場で学ぶ実習」の取りまとめ役を依頼された。「もっと若い人に頼むべきではないか」と抵抗したものの、抗しきれず、統括責任者をやむなく引き受けた。

 学生の実習をホテル四店舗と百貨店四店舗に頼み込む苦労や、学生を指導して茶髪やピアスをやめさせる困難もさることながら、一番厄介なのは、実習先ごとに学生を指導する若い先生たちの教育であった。

 この学外実習は大学設立前に決まっていたカリキュラムであったが、先生たちは「こんなことは自分たちの仕事ではない」と、非協力的であった。また、学生が実習の執務中に喫煙するなどの粗相をした場合には、担当の先生が代わって謝らなければならないのだが、社会経験のない先生たちはそれができない。そもそも謝り方のノウハウがないのであった。この信じられない事態を前にして、河口部長が私を統括責任者にするのにこだわったわけを理解することができた。


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 広島に住むことが採用時の条件であり、大学の寮に泊まる手もあったが、東京から飛行機で通って広島の矢野に住んでいる長男の家に寄宿することとした。広島空港近くのホテル駐車場に車を預けておいて、一時間半ほど運転して大学で講義、その夜は長男宅に泊まって翌日、時には翌々日も出勤、夕方空港へ向かうという荒業を七年間にわたってやってのけた。

 今から考えると、よくこなせたと思うが、当時はまだ体力があったのであろう。日本に帰っても航空会社のために一生懸命働いていたような気がしないわけでもないが、銀行時代の出張続きの苦労に比べれば、それでも楽であった。


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