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16 中南米調査団──ベラスコ大統領と会談


 ブラジル調査団の翌年一九七二年(昭和四十七年)五月、今度はシンガポール出張を命じられた。シンガポール支店開設交渉のため、伊部恭之介副頭取(一九七三年に頭取)が訪問されることになり、そのお付きのブレインに選ばれた。

 シンガポールには、東京銀行と三井銀行がすでに進出。三行目として住友銀行と三菱銀行が支店開設の手を挙げていた。シンガポール側が両国の進出銀行が同数となるリシプロシティーを要求していたため、三行目として住友か三菱のどちらか一行しか認められない状況であった。

 当時、ジュロン造船所に三菱重工が大規模な投資提案を行なっていた。そのうえ、三菱銀行が先に手を挙げていたこともあって、三菱銀行のほうが圧倒的に優位に立っていると思われていた。

 そこで、住友銀行は三行でなく、四行同士のリシプロカルにすることを提案。さらにシンガポールは当時からすでに積極的に海外証券投資に取り組んでいたので、日本国債のオファーなど具体的な取引を申し出ることとし、伊部副頭取に動いてもらった。

 奈良靖彦大使の主催でシンガポールの有力者数人を招いて頂いた晩餐会では、突如通訳を仰せつけられて戸惑った。伊部さんのスピーチは格調が高く、訳すのに骨が折れたものの、何とかこなせた。加州住友でも英語で仕事はしていたが、外国政府とのオフィシャルな場での通訳は初めてであり、大変勉強になった。

 今でも食事のスピードが速過ぎると顰蹙(ひんしゅく)を買っている。これは英語を喋ったり、通訳をしながら食事をするには、食べるスピードを上げるしかない故の必要悪としてこの頃から身に付いたものである。一度身に付いた悪癖を直すのは難しい。

 このような努力が功を奏したのか、ふたを開けてみると、三菱銀行ではなく、住友銀行が先にシンガポール支店の開設を認められた。これには私たちも驚いた。もっとも、三菱銀行も巻き返して認可された。

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 シンガポール支店開設交渉の出張から、八カ月後の一九七三年(昭和四十八年)一月、伊部副頭取が団長を引き受けられた「中南米投融資調査団」に四人の幹事団の長として参加することになった。この調査団は、社団法人の金融財政事情研究会が組織し、都市銀行、長期信用銀行、信託銀行、証券会社の役職員三十五人が参加した。期間は一月二十四日から二月二十六日までの三十四日間にわたるもので、その規模、期間の長さからみて、金融機関の海外視察団としては空前絶後の大ミッションと言っても差し支えないだろう。

 訪問国は、ブラジル、メキシコ、アルゼンチン、コロンビア、ペルー、ベネズエラ、チリ、ボリビア、パナマの九カ国。日本との経済交流が活発になってきた、これら中南米諸国における経済開発の実態、金融面の問題、外資政策などの投融資環境を調査し、日本が取り組むべき経済協力の進め方についての基礎資料をまとめるのが調査団の目的であった。調査団といっても中南米各国は日本からの投融資を渇望していたので団長の役割は民間外交そのものであり、例えば、ペルーではベラスコ大統領と一時間にわたる相対での会合が実現した。恰幅がよく、理路整然とした話しぶりの伊部副頭取は、まさに打って付けの団長であった。

 私は、シンガポール出張での実績が認められ、伊部さんから随行の指名を受けたようだ。この調査団随行の後も、伊部さんの頭取、会長時代を通じて、IMF世界銀行総会などへの同行を頻繁に仰せつかった。

 伊部さんは、私の書いたものには一切手を入れることなく、そのまま認めてくれた極めて仕えやすい上司であった。伊部さんの行内の評価は、「公平無私な人」。私もたまたま選ばれただけでひいきにされたという思いはなく、他の誰もそうは考えてはいなかったのでやりやすかった。

 当時の私は、英語は何とかこなせたが、中南米諸国で使われているスペイン語となると、まったく習ったこともなくお手上げであった。そこで、一念発起して出発前の三カ月間、毎朝八時からスペイン語のレッスンにベルリッツへ通った。実際に鞭を振って厳しく指導するチリ出身の美人教師の個人指導で、何とか日常会話をこなせるようになった。

 このレッスンを受けたことは、大正解であった。調査団には、二人の通訳が付いていたが、各人に付いているわけでもなく、いつも一緒というわけでもない。幹事の役を果たすにはある程度一人で動けないと、どうしようもなかったからである。

 また、こんなこともあった。中南米諸国はどの国も大変なインフレで金額が桁違いに大きいので、専門の有能な通訳でも数字の単位を間違えることが間々あった。銀行マンは数字だけは間違えてはならないので、私が気づいて訂正すると、スペイン語の達人と誤解された。

 ボリビアの首都ラパス近郊にあるエル・アルト国際空港は標高四〇七一メートルの高所にあり、中心街も高度三六○○メートルに位置する。空気が希薄なため、血液も酸欠に陥って高山病に罹り、記憶力が急に衰えて大事な交渉内容もその場で記録をしておかないとすぐに忘れてしまう。登山家は徐々に高度を上げていくので適応できるが、飛行機の場合は降り立つと気圧が急変するため適応が難しいことを実感した。

 ボリビアはこの同じ年にもう一度出張で訪れて、世界最標高の大湖・チチカカ湖を周遊した。万年雪に覆われたアンデスの霊峰を背景に拡がる「天空の湖」と呼ばれる幽玄な光景が、今でも脳裏に焼き付いている。



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 中南米調査団から十七年ほど後のことになるが、「ソ連・東欧経済情勢視察団」のことにも触れておきたい。

 この視察団も金融財政事情研究会の主催であった。私が欧州駐在専務取締役の時である。団長は大蔵省事務次官を退官したばかりの平澤貞昭さん(後に横浜銀行頭取)、副団長が福井俊彦・日銀理事(後に日銀総裁)という多士済々のメンバーであった。海外駐在の長かった私にとって真に得がたい機会であった。

 調査期間は十一月五日から二十一日までの二週間超であった。ベルリンの壁が崩壊してから、ちょうど一年に当たる時期で、グッドタイミングの視察であった。まさに滄海桑田(そう かい そう でん)(世の中の変化が激しいこと)の状況にあるロシアと東欧諸国が民主国家として動き出した直後で、新しい国造りの熱気あふれたエキサイティングな人々と語り合えた点でも、実り多い体験であった。

 また、ソビエト連邦と十五共和国間の主導権争いと民族自決問題が、市場経済へ離陸する際のアキレス腱になると実感した。その後のロシアやウクライナを巡る動きを見ると、この時抱いた私の思いは正しかったと言えよう。







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