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15 ニクソン・ショック──顧客の要請に応えて上位行に


 一九七一年(昭和四十六年)二月に東京へ転勤、その後はロンドン勤務の十三年余を除いて今日まで三十四年間、武蔵野に住みつくこととなった。最初の住居はJR中央線の三鷹駅から北へ徒歩で十分ほどの武蔵野市緑町に一九六五年(昭和四十年)に新築された武蔵野寮(東京地区の家族寮)。桜並木で有名な中央通りを挟んで向かい側に大野田小学校があり、二歳間隔の子供三人は全てこの小学校に通った。

 日米会話学院へも吉祥寺の借家から通っており、最初の社宅が三鷹であったことが武蔵野地区との機縁となって、ロンドンから帰国後も、東京での住居は土地勘の利くこの武蔵野地域に絞って探し求めたのである。

 本拠を東京に移した本店外国部へ二月に転勤して半年が経った一九七一年(昭和四十六年)夏のこと。外国部では、支店班の班長として、国内の外国為替業務全般を統括していた。

 八月十六日、夏季休暇を取り、家族揃って志賀高原にあった銀行の保養施設に向かった。私の三十七歳の誕生日である。

 その日の朝(日本時間)、米国のニクソン大統領がテレビとラジオで米ドルと金の兌換停止などを柱とする新経済政策を何の前触れもなく発表。

 正午のテレビニュースで知った私は、すぐさま銀行へ電話を入れた。「せっかく休みを取って出掛けているのだから、ゆっくりしたらいい」との上司の言葉に、その時点では、現地に留まることにして、散策に出掛けた。ところが、夕方のニュースを見て、これはただ事ではないので帰ったほうがよいと判断。その後の旅行を全てキャンセルして夜行バスで東京へ戻った。

 着の身着のままの恰好で銀行に出社し、その日から一カ月ほどは、ほとんど眠る間もないほど働いた。まさに殺人的な状況であった。今になって思い返せば、私の人生のなかで最も忙しく根を詰めて働いた時期であった。好きでやっていたことでもあり、働き甲斐のある仕事であった。

 ニクソン大統領の声明発表後、欧州各国は一週間にわたって外国為替市場を閉鎖したにもかかわらず、日本は市場を開き続け、懸命に一ドル=三百六十円の固定平価の水準を守ろうとドルを買い支えたのである。

 為替市場を開いたままにしていたため、大手商社をはじめとする輸出入企業のリーズ・アンド・ラグズ(輸出代金を前受け金として繰り上げて受け取り、輸入決済を遅らせるなど決済時期を意図的にずらす行為)を誘発し、巨額のドル売りが発生。政府は十日ほど固定相場を必死に維持したものの、それも難しくなり二十八日から変動相場制に移行せざるを得なくなった。移行初日の円相場は一ドル=三百四十二円と十八円もの円高となった。その後も円高基調が続き、年末には三百二十円前後の円高水準にまで上昇した。

 この間、大蔵省は千ドル以上の大口の前受け金取引を禁止したりしたため、商社を中心に取引を小口に分散して切り抜けようとした。取扱量が一挙に膨らみ、銀行の忙しさは爆発的に増加した。

 外国為替リスクの概念は、関係者の頭のなかには入っていたが、固定相場制下では、事実上無視されていた。それが、突然、準備期間もなく変動相場制という現実に直面してみると、リスクが顕在化し、混乱の極みに陥った。外貨ポジション(持ち高状況)を正確に把握するのにも困難を極めた。

 お客さまのなかには、外国為替がどうして変動するのか理解できない方も多く、為替予約の仕方はもちろん、外国為替の基本的なことを説明しなければならなかった。

 こうしたなかで、外国為替の解説記事の執筆を雑誌社から依頼された。一日一本、同僚が書いた内容を私がチェックして、出稿した。一定量がまとまったところで、一冊の本『為替リスク回避とは? やさしい外為講座』(自由経済社)として出版された。

 余談になるが、二十七年後の一九九八年(平成十年)に広島国際大学教授に就任する時に唯一の著書として役立った。

 教授の資格審査にあたっては、出版物や論文の数が対象になる。私の手元にはこの本が残っていなかったので、その当時ニューヨークに赴任していた外国部時代の同僚に問い合わせたところ、実家にあるということで取り寄せてもらった。

 話を戻そう。

 ニクソン・ショック前の住友銀行の外国為替取引額は、都市銀行中四位から六位を行き来する存在。外国為替専門銀行の東京銀行は別格の首位、次いで富士銀行、三位が三菱銀行というのが不動の順位であった。

 ニクソン・ショックという事態急変のなかで、輸出代金の繰り上げ回収など顧客の要請に応えて、為替ポジションの限界ギリギリまで為替取引に応じる体制を取った努力が実ったのか、ニクソン・ショック後は、首位の東京銀行には及ばないものの、富士、三菱に肩を並べる存在にまで押し上がった。

 ニクソン・ショックを予測していたわけではなかろうが、この年の二月に、外国部の中枢を東京へ移していたのはラッキーであった。金融当局や大手商社が絡む外国業務には、東京でないと適切な対応が難しくなっていたからである。

 ニクソン・ショックによる混乱が一段落したところで、一転してブラジル調査団の団長を命じられ、十一月二十八日から丸一カ月をかけてブラジル全土を駆け巡った。

 住友銀行は、一九五八年(昭和三十三年)に日系移民を基盤とする小規模なブラジルの銀行を買収。この銀行の将来計画について本格的に検討するため、本店スタッフ四名から成る調査団を派遣することになったのである。

 調査団は、日系ブラジル人や日系進出企業との取引拡大だけでなく、投資銀行業務への進出の方策など幅広く調査・検討した。サンパウロやリオデジャネイロだけではなく、北はミナスジェライス、ブラジリア、アマゾン川上流のマナウス、南はイグアスの滝のあるリオ・グランデ・ド・スルまで見て回った。








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