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国際金融人・岡部陽二の軌跡~好奇心に生きる 目次、1 誕生ー名前の由来



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国際金融人・岡部陽二の軌跡~好奇心に生きる  目 次

1 誕 生──名前の由来 

2 両 親──文通で愛を育む

3 幼児期──父、満州国建国大学へ赴任

4 満州難民──恐怖の新京空襲から難民へ 

5 宣川から安東へ──厳しい難民生活、母の行商を手伝う 

6 受難の引揚げ──一年半ぶりの帰国 

7 中高生時代 ──鉱物に出会う 

8 京都大学入学──ヨット部とESS入部 

9 住友銀行入行──決め手は堀田頭取の講演 

10 結 婚──洛北高校同窓会で出会う 

11 本店外国部へ──入行時講習の講師に 

12 加州住友銀行──初めての海外勤務 

13 シカゴへ──潜り駐在員 

14 懸賞論文──最高位の特賞に 

15 ニクソン・ショック──顧客の要請に応えて上位行に 

16 中南米調査団──ベラスコ大統領と会談 

17 国際金融部──M&Aとオイルマネー 

18 変動利付きCD開発──市場は私たちが作る 

19 SFI──規制との闘い 

20 取締役就任──ゴッタルド銀行買収 

21 二度目のロンドン──出張に次ぐ出張 

22 再び鉱物収集──原石に魅了され南米、アフリカへ 

23 チャールズ皇太子──企業と地域社会の共生を主導

24 大自然の旅──夢の洞窟探検

25 大英博物館 ──ジャパン・ギャラリー募金に貢献

26 ロンドンの伝統文化──オペラやミュージカルに通って

27 帰 国──父の遺作を出版

28 明光証券会長就任──米国証券会社を視察

29 大学教授就任──瓢箪から駒のような経緯

30 私の教育論──日本の大学の根本的問題

31 個人投資家協会──個人投資家の育成に尽力

32 医療経済研究機構──医療経済学会を設立

あとがき

岡部 陽二 略歴

  著書・監訳書

  主な学術論文

  社外役員就任歴

  主な社会活動など

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著者近影

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1 誕 生──名前の由来

 一九三四年(昭和九年)八月十六日──。父・岡部利良、母・イサの長男として東京市中野区上高田一丁目二十二番地で、私は生まれた。長男にもかかわらず、陽一でなく陽二と名付けられた。この理由を両親に聞いたところ、「The son of the sun」と凝った意を込めて父が「陽二」と命名したという。父と母が結婚式を挙げたのは前年一月十四日のことで、結婚後二年足らずで私が生まれたことになる。母によると、東京での新居は借家であったが、隣家には、『放浪記』などの作品で知られる作家の林芙美子さんが住んでいたそうである。ただ、私が東京に住んでいたのは三歳になる前までであった。そのため東京での生活の記憶はまったくない。

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 一九三四年という年は、渋谷駅前に忠犬ハチ公像が建立され、ベーブ・ルースら全米大リーグの野球選抜チームが来日するという明るいニュースの一方で、ヒトラーの総統就任、溥儀(ふ ぎ)が皇帝に即位して満州国が帝国となったという世界を揺るがす大戦への予兆を感じさせる年でもあった。

 父・利良は一九三二年(昭和七年)に京大を卒業、東洋経済新報社に入社、繊維業界の取材・調査を担当した。当時の繊維産業といえば、その中心は大阪で、私が生まれた時の父は毎月のように大阪に出張していたそうである。

 実を言うと、父の京大卒業証書は七月末付になっている。七月卒業にもかかわらず、四月から東洋経済に勤務できたのは、石橋湛山氏に拾われたからである。石橋氏は東洋経済新報社主幹、社長を務め、大正デモクラシーをリードした著名なジャーナリストでもあった。第二次世界大戦後の一九五六年(昭和三十一年)に首相の座に就いたが、体調を崩し、わずか六十五日で辞任せざるを得なかった。

 父の卒業が実質的に三カ月遅れたのは、大学時代の「事件」のせいであった。

 父の手記から、その「事件」のあらましを紹介しておきたい。「事件」は、父が京大一回生修了間際の一九三〇年(昭和五年)春に起きた。三月のある日、父は高校時代からの友人が肺炎に罹って下宿で寝ていると聞いて、すぐさま見舞いに出掛けた。ところが、この友人は共産党の地下運動に関係しており、父が見舞いに訪れる直前、警察に検挙されてしまった。警察は、仲間がその友人を訪ねてくるに違いないと想定して下宿を見張っていた。そこへ現れた父を警察が有無を言わさずに拘束してしまった。拷問ともいえる取り調べを二カ月ほど受けた後、起訴猶予を言い渡され、ようやく釈放された。

 しかし、「事件」は、これだけで終わりではなかった。釈放から間もなく大学から呼び出しの通知が届いた。大学に出向くと、「私には何一つ発言の機会を与えることもなく、いきなり、期限を付して四カ月間の休学届を出せ、もし出さなければ四カ月の停学に処する」という一方的な処分が言い渡された。

 父の卒業が七月末となっているのは、こうした事情によるものだが、東洋経済新報社は四月一日付で父を採用してくれた。それは、自由主義者・石橋湛山主幹の人物の大きさを示すものと言える。石橋氏は当然、父の卒業の経緯を知ったうえで採用してくれたのであった。

 この事件が、その後の父の考え方に大きな影響を与えたとしても不思議ではない。手記にも「事実、私は、今までより一層この今日の社会のあり方というものについて考えさせられるようになった。ことに警察権力にたいして、私にはいわば生理的に激しい憎悪感が今でも消えがたく残っているようにさえ思える」と記している。

 幸運な形で入社した東洋経済新報社であったが、父は大学時代から学究への道を切望しており、母方の祖父の支援もあってそれがかなったため、一九三七年(昭和十二年)三月に東洋経済新報社を退職し、京大大学院で研究生活に入ることになった。

 これに伴い、私たち家族も東京を離れ、京都へ移り住むことになる。

 余談になるが、新入社員時代の父の姿を平成になって知ることができた。一九九六年(平成八年)十月、東洋経済新報社の浅野純次社長が突然、私を訪ねて来られた。完成したばかりの『東洋経済新報社百年史』に、父・利良の名が二カ所に掲載されているという。

 その一つは、父は東洋経済新報社入社後もマルクス経済学の勉強を続け、社員数人と研究会を開いていた。さらにこの仲間が少額ながら共産党に献金をしていたという嫌疑を掛けられ、特高警察に捕まって調べを受けた事件についてである。直ちに石橋湛山主幹が奔走して寛大な処分を要請、すぐに全員釈放されて、不起訴処分となった。当時、治安維持法違反に問われると勤め先を追われるのが通例であったが、石橋主幹は一言も咎めることなく、全員を職場に復帰させた。後日、「九十九匹の子羊を捨てておいても一匹の迷える羊を救わなければならない」という聖書の一節を思い起こしたからであると、述懐しておられる。

 もう一つは、一九三二年(昭和七年)の社内研究会で、父が「インフレーションの理論と実際」について報告、ケインズの紹介もしている。ケインズがいわゆる「一般理論」を発表したのは一九三六年のことであるから、かなり早い時期にケインズにも注目していたことになる。

 千二百ページを超える百年史を通読して、社員を大事にする東洋経済新報社の社風とその記録を活字にして後世にまで残そうとする真摯な姿勢に頭が下がる思いをした。

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