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時計台通信 ~一九六三年~  岡部利良



岡 部 利 良

  この一年間は、社会的にもいえるかと思うが、大学のなかもだいたいにおいて平穏だったといっていいようである。もちろん万事無事平穏であったというわけではない。昨年のこの会報にも書いたように、年初には一昨年からもちこした例の「大管法」国会上程反対ということにからんで行なわれた、教養部学生諸君による学年末試験の全面的ボイコットの計画(一部実行)というようなことから、一時時ならぬ波乱を呈した。その後においても、学生運動にからまる一、二の事件というべきようなことはあったし、例のごとき学生諸君のストライキなるものも時折りはあった。しかし概していえば、この一年間、学内は大した事態に見舞われることもなく、比較的平静に過ぎたといっていいと思う。

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 学生諸君の就職も――ご承知のように経済界はいろんな問題をはらんでいるけれども――今年度(三八年度)もまず順調に経過した。演習の卒業予定者は今年は十一名であるが、これらの諸君の場合、夏休みが終わるころまでにはほとんど内定した。経済学部の学生の全体についてみても、昨年の秋の終わりごろの調査で一〇〇パーセント就職といっていい状況であった。こういった事情で就職戦線もまずめでたしというところであるが、しかし多少意地悪くふりかえってみると、そこにはまたやはり何か「泰平ムード」といったものを感じないではない。

 ゼミの諸君のことでは――三回生の諸君が中心となって昨年も日本学生経済ゼミナール(第十回目のもの、当番校法政大学、期日十一月)に出かけ、それも報告発表校として参加した。このゼミナールは一昨年もの会報にも書いたように、全く学生諸君の手によるもので、ゼミそのものは経済学、経営学等の各専門分野に分けて行なっており、私のゼミの諸君が参加したものはもちろん会計学部門であるが、テーマはあらかじめ統一論題として定められていた「減価償却の本質――資産概念から出発して」というのであった。この問題は、卒業生諸君も思い出されるように、真剣にとり組んでやろうとすればじっにむづかしい問題である。ゼミの諸君は、前の場合と同じように共同して準備に当ったが、成果は直接それほど目にみえるような形でえられなかったにしても、私としてはやはりそれぞれ得るところがあったであろうと思っている。

 それから恒例のゼミの旅行は、昨年は十月下旬北陸方面(場所は東尋坊、永平寺、山中温泉など)に出掛けたが、私は残念ながら行けなかった。はじめはもちろん学生諸君といっしよに出掛けるっもりであつたが、旅館がうまくとれなくなったために急に若干日程を変更しなければならなくなったというようなことから、すでに予定のあった私はけっきょく参加できないはめになった。

 ゼミ卒業生の同窓会も、在学生諸君のきもいりで昨年も一昨年につづいて行なわれた。この同窓会の催しは当時皆さんにも案内されていたとおりで、期日は十一月十日、場所は京都の四条河原町を少し下ったところにある桃園亭という支那料理店。この会場の桃園亭といえば、皆さんのなかにもあァあそかと思い出す人も少なくないのではないかと思う。参加者は遠近から約三十名(在学生を除く)というところであったが、とにかくこうした同窓会のおかげで、今年も卒業後久しぶりという何人かの諸君に会うことができ、たのしい半日をすごさせてもらったことであった。

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 私は、昨年の一月十日から学部長の仕事をやっていたが、任期の一年も終わってついこの間解放され、今ちょうどヤレヤレといった気持になっているところである。学部長の仕事といえば、大学全体に関することもあるけれどども、主として学部運営上の雑多な用務(これをしばしば雑用という)であるが、することはけっこうある。そのためどうしても相当程度研究の方は犠牲にせざるを得ない。幸い私はまた研究に専念できるようになったので、さらに元気を出してやりたいと思っているが、内心、日暮れて途遠しの感はやはり覆い得ない。しかしこんなグチをこぼしていてもはじまらないし、とにかくやるほかないので、みずから顧みてはじつはまたこんなふうに思っているところである。

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 さいごに、私自身ここでとくにふれてみておきたいと思うのは、昨年の暮れ、重任をふくめ六年間の任期を終えて京大総長のイスを去った平沢さんのことである。私は総長としての平沢さんにはある感懐をもってきた。それで先生が総長をやめて退任された機会に、たまたま京都の一地方新聞(夕刊京都、十二月二十八日付)に「前京大総長平沢さんをおくる」という一文を書いた。(これは同紙の「好日欄」というコラム欄に寄せたもので、この欄には毎日いろんな人がかわるがわる書いているが、私もこわれるままに一筆したためたわけである。)しかしこの一文は一地方新聞の一隅に書いたもので、多くの皆さんには目にふれる機会などとうていもってもらうことの困難なものである。それにまたこの一文は、じつは大学というところの、ことに最近の京大についての私の所感の一端にもふれている。こういった点から、私はいまここにこれをそのまま再録させてもらうことにした。すなわら以下はその全文であり、しかるべく読みとっていただければ幸いである。

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 平沢さんはさる十二月十五日をもって任期を終え、京大総長のイスを去った。私は京大に籍をおくものの一人として、長い間ほんとうにご苦労さまでしたと、、まず心からお礼申し上げた。

 今日の大学ことに何かと問題をかかえているうえに学生運動の関西側拠点といわれる京大のような場合、総長の仕事というものはとりわけ非常にむずかしいものだと思う。誰からも満足を買うようなことはおそらく至難である。平沢さんのやり方にもきよほうへん(毀誉褒貶)はあったことと思う。事実現に不満の声も聞かれなかったわけではない。しかし総じて平沢さんはじつによくやって下さったと思う。

 私は、直接先生に接してきたのはだいたい学内の会議の席上といったくらいである。ただ、この一年間ばかりは、職務上の関係から比較的よくお会いする機会をもってきた。

 ところでこうした機会や、その他の見聞を通じ、私が先生についてとくに感銘深く思ってきたのは、先生は何よりも学生に深い愛情をもっておられたことである。煩をいとわず学生諸君にもよく会われた。そしてこうした事実はまたできるだけ話し合いによってことを運ぼうとする先生の態度の現われであったといえるだろうと思う。

 先生の在任中にも学生還勁における行きすぎというようなことがしばしばみられたが、私はこういう場合、先生はその措置の仕方についてとくにいろいろと悩まれたことと思う。ことに大学の規則に違反するような事実があった当合、違反者を大目にみておくようであれば学内の秩序は保てないではないかといったような非難が、それほど表面化しなかったにせよけっしてないではなかっただけに、先生の心労も大きかったことと思う。しかし、先生はやはりどこまでも学生諸君のことを思い、教育者としての大きな立場から処してこられた。将来ある学生を一人でも傷つけたくない、これが先生の内心からの気持であったようである。少なくとも私はそう信じている。

 規則に違反することはもちろん是認しうることではない。しかし、いわゆる厳罰主義はけっして人々が予期するようた効果を伴うものでないこともわれわれとしては知らなければならないと思う。

 平沢先生については、、総長就任後"滝川路線"なるもののたづなをゆるめたともいわれている。事実またたしかにそういえると思う。しかしその結果はどうであっただろうか。私はけっしてマイナス的な評価が与えられるなどとは思わない。むしろ、時に遺憾な事態も避けえなかったとはいえ、概していえば学内の平和は維持され、事態は改善されてきたといって間違いないと思う。  

 そして私はこのような事実のうちに、先生が総長として残して行かれた何よりも貴重なものを読みとりたいと思う。しかもそれは至上の教訓を意味するものでもあるはずである。先生は再び研究室に帰られると聞くが、私はいまこういったことを考えながら、総長として尽して下さった先生をおおくりする言葉としようと思う。

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 終わりに、今年も皆さん、いっそう元気でやって下さるようお祈りしています。

       (一九六四・一・二二)

(1964年3月発行、京都大学経済学部「岡部ゼミナール同窓会会報第6号、p1~3所収」









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