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回想抄記・大学教員の四十年  岡部利良

  
   この「会報」(「名簿」)の前号(昭和五十七年十一月発行)で当時の私の近況を書かせていただいてからすでにもう四年半が過ぎました。この四年半という歳月にはお互にまぎれもなく年を重ねてきたことになりますが、このように年を重ねてきたといいましても、皆さんの場合と私の場合とではそのもつ意味はまるでというほど違っているといってよいのではないかと思います。私はこの四年半の間に八十歳という年を迎え、それからももう二年過ぎました。私は大体年というものには鈍感のようで(自分ではそう思っています)、現に六十歳台というような年齢になったころでも、自分の年のことを口になどほとんどしてこなかったと思います。しかし歳月というのはじつに。無情なもので、いまは大分違います。“老化”は別に病気ではないといわれていますが、実感からいうと、その一変形のようにさえ思われます。……いやなことはこれくらいにして、せっかく与えられた紙面ですので、今回は前回同様の私の近況――その一面はこのお読みとりいただくようなものです――のほか、以下に申し上げるような点から、私が大学教員として与えられてきた二、三の感想を書かせてもらおうと思います。 

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   まず前者の私の近況という点てすが、じつは私は――私の生活という点からいえば最近におけるとくに主な変化ということになりますが――昨年三月末、昭和四十四年三月京大を定年退職後ずっと勤務してきた龍谷大学(経営学部)を本学(龍太)に設けられている定年に関する文字どおりの特則である「満八十歳定年制」というのにより退職しました。(龍大でも定年規程の本則に規定の定年は教員満六十八歳、職員満六十五歳です。)この龍大の場合の「満八十歳定年制」というのは、表記のように文字どおりの特則であるとはいえ、数多い全国の大学でもまず例のない、かりにどこかにあってもおそらく例外中の例外といってよいものだろうと思います。

   このような定年制の龍大で設けられてきたいきさつについては前回申しましたので、ここではごく要点だけ申しますと、私は前記の龍谷大学経営学部が創設されるさい(この創設の年度は昭和四十一年でした)、同学部の創設を文部省に申請するに当り、この申請に必要な要員として依頼され――ところが当時すでに私より前に、同じような事情のもとに同学部に就任を依頼されていた者のうち教授資格のある者には、大学の方で、いわゆる。人集め”という点から満八十歳まで定年制を適用しないという条件を出していたというような事情かおり――そこでこのようなことから、私もこの表記のような条件を適用されることになり、その結果龍大では私の場合の定年も満八十歳ということで、そのため退職の方も結局前記のような「満八十歳定年」退職ということになったわけです。

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   私は大学(正式にいえば京大経済学部)卒業後(卒業の年度は昭和七年です)すぐ研究生活には入ったのではなく、卒業後しばらくは社会に出て就職し(就職先は、今日一般には経済関係の図書、「週刊東洋経済」という経済雑誌の出版社として知られている東洋経済新報社で、私はここで五年間経済雑誌記者として過ごしてきました)、その後昭和十二年、たまたま機会を与えられましたので大学にもどって会計学の研究をはじめたのですが、この会計学の研究は、当時事情があって一時中断せざるをえず、さらに当時わが国はご承知の十五年戦争という戦時下にあったことから、やがて応召され(この応召された時、私は当時あった満洲国の建国大学という大学に勤務していましたので、入隊させられたのは当時在満の関東軍というのでした)、またこのようなことから敗戦後はシベリアに連行されて捕虜生活をさせられましたが、種々の悪条件にもかかわらず悪運強く、昭和二十二年五月には無事帰還・復員することができました。さらに幸いなことにこの同じ年の秋には再び京大経済学部にもどることができ、そこで私としては再度会計学の研究をはじめたのですが、じつは私にとっては、このような経緯のもとに大学における専任教員としての生活が同時にはじめられるということになったのでした。(建国大学の場合も専任教員として在職していましたが、本学の場合、赴任後間もなく上記の応召ということになったため、在職期間は僅か半年余りでした。)

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   私の場合、上に申しましたようなことで、大学教員としての生活に入ったのは普通の方より相当後れていたことになりますが、しかし反面前記のような龍大での事情もあって、結局私としては前後通算して約三十九年、すなわち四十年近く大学教員として過ごしてきたことになります。この四十年近くという歳月はもちろん歳月として短いものではありませんが、いま顧みて、このようなこの歳月が何か随分長かったというような思いも別段なく、いつの間にかこの四十年近い歳月が過ぎてしまったというのが実情といってよいようです。

   ただ私の場合、やはり前回にも書きましたが、七十歳という年までは自分の健康というものに何一つ気を使うことなどなく済んだにもかかわらず、七十歳を過ぎた途端にまず胃、それから三年半余り経てさらに腸というように二度にわたり相当といえるような手術に見舞われ、ことにこのあとの腸の手術では、その“後遺症”がいまもなお尾を引き、そのため今日でも大なり小なり困惑せざるをえないというような状態です。またこのようなことから、龍谷大学における前記のような「満八十歳定年制」をそのまま享受し、この満八十歳という定年まで満足に勤務することができるだろうかというようなことが時に気にもなってきましたが、幸い最後まで勤務でき、そしてこのことは、私にとってはこの上もない幸せというべきことでした。 

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   以上に申しましたような私の四十年近い教員生活の間には、いま思い出してみただけでも、この四十年近いという期間はいわゆる時間的にはけっこう長いものでありましただけに、なおあれこれと無数といえるようなことがあったといえますが、それらのうち私の教員としての本業に関することで、しかも私の心底にいわば沈殿しつづけてきたといった二、三のことを、私の一種の所感として以下になおいま少しとりあげさせてもらおうと思います。

   まずその一つは、私か教員として字義どおり終始行ってきた、そして皆さんにもいろいろと因縁のある、周知の講義に関することです。(私は講義としては簿記論、原価計算論などもしてきましたが、ずっと一貫してしてきたのは会計学総論というのでした。)この講義というのは、大学の教員にとっては研究と並ぶ(あるいはこの研究ということを本来基盤としている)職務ですが、私がこのようなこの講義というものに絶えず感じさせられてきたことは、それをいわば理想的に行うことの“むずかしさ”ということでした。大体講義をする場合教師としてはもちろんにそれに必要な知識をもっているにしても(あるいはそのつもりであっても)、それを――ことに限られた一定の時間的制約のもとに――学生諸君がよく理解しうるように(したがっていねば平易にあるいは分りやすく)説くことは事実としてそう容易なことではない。(少なくとも私としてはこのように思ってこざるをえませんでした。)この学生諸君が……うんぬんということは、じつは少なくとも一つには講義の技術(いわゆる教授法)のいかんにかかわるものであり、したがって教師としてはこうしたこの講義の技術(教授法)というものに当然絶えず配慮する必要がある。ところがこうしたこの必要なことがお互の間でそう十全といえるほどなされているといえるのか。事情は人によってもちろんそれぞれ異なるでしょうが、どの程度にもせよ問題とされざるをえないような場合のみられることはおそらく否定しえないところといえるだろうと思われます。

   学生諸君の間から――どのような範囲におけることであるのか、そのようなことまではもちろん確認しえませんが――ともかく講義を聞いてもよく分らない、といわれる。そしてこのいわれているようなことは、一面明らかに学生の方に問題があることによるものといえますが、しかしそのすべてが学生の責任に帰せられるものであるのか。おそらくこのようにはいえないだろうと思います。またこうしたこの記述のような点については、とくに大学教員の場合には研究者としての在り方が不可避的にかかわっているはずです。またこのことは、とくに大学教員の場合、上にふれたところにみるような研究と講義、ことにこの両者の関係にかかわる重要な問題として提起されているものといえるだろうと思われます。
     私としては講義を進めるうえに上に記したようなことを念頭においてきながらも、学生諸君の期待にどれはどそいえてきたか。今にして自らかえりみざるをえないような次第です。 

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   講義とともに行われている他のいま一つのゼミとなると――とくに教師の場合――ことはいっそう身近かなものとなって現出してきます。私は毎年ゼミを始めるに当り、ゼミ生諸君にこのゼミといわれているものの趣旨を説明し、そしてこの趣旨に沿ってゼミをゼミらしいものにするには諸君の自主性・積極性にまたなければならない。この自主性・積極性ということを欠いてはせっかくのゼミも諸君に役だつようなものにならない、うんぬんというようなことを強調してきたわけですが、この私の教説のようなことは残念ながら容易に実現されない。とくに最近の学生は――もちろん一様にはいえないにせよ、概していえば以前の、たとえば十年ぐらいの前の諸君とくらべてもいわば負の方の意味で変っているように思われるのですが――当のゼミのさい、報告担当者が報告するにしても、あらかじめ指示してある参考書などを多少とも堪念に読みとって利用する努力をしているような者は稀で、単に教材の当該個所からの抜書き的なものをいわゆるレジメとしてつくり(なおこのいわゆるレジメはゼミ生全般に配布されるものです)、そしてそれによって報告しているというのが通例であり、さらに報告者以外になると、自分の方から積極的に発言するというような者はおおむねまずみられない。そこでこの後者の報告者以外の諸君には私の方からやむをえずa君、b君、c君というように名ざしして発言を求めるというようなことにならざるをえない。さらに状況によっては、肝心のゼミが教師としての私の独演場にさえなってしまう。(もっともゼミのこのような状況は別に私の担当してきたゼミのみにみられたことではない。他の教員諸君に聞いても、実情は大体大同小異であり、事実またこのようにいってよいように思われます。)しかしせっかくのゼミがこのような状態であっていいとはもちろんいえない。

   またじつはそれだけに私としてはゼミ担当の教員として気も使ってきた。ゼミの運営の仕方にもっと工夫すべきではないかというようなこともじつは考えてこなかったわけではない。しかし残念ながらこれといったいい知恵も浮んでこなかった。またこのようなことから、じつはとくにゼミについては心の底に何かかすのようなものが残るのを自ら禁じえないままについ年々過ごしてきた。しかしゼミについては、もちろんこのようなことばかりではなく、いまもなお心に残る思い出というようなものも種々あります。しかしその主な一面をとっていえば、自ら上記のようにいわざるをえないような状態でした。

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    私はいま上にゼミのことをとりあげ、そしてとくに学生の学習態度ということについて問題としたのですが、この学習態度が問われるのは別にゼミだけのことではない。講義についてもまさに同様のことがとりあげられるべきこととしてあげられます。しかしさらに総じていって、最近の学生についてとくに考えさせられざるをえないのは彼らの“学生”としての在り方です。戦後のわが国の大学はご承知のように著しく大衆化してきたわけですが、このことに関連することとして、はなはだかんばしくないことですが、最近しばしばいわれていることに大学のレジャーランド化ということがあげられます。この大学のレジャーランド化といわれていることについては、おそらく反論もあるかと思いますが、事実としてみられるところからいえば、けっしてそう無雑作に否定もできない。四、五年前、私立大学の一流校といわれている某大学の学友会で入学試験のさい受験生約千七百名を対象として進学の目的という点について行ったアンケート調査の結果によると、この進学の目的を「幅広い教養」、「専門の知識・技術」を修得するためとしていた者が四二%弱であったのに対し、「青春をエンジョィする」、「就瞰の資格を繰る」、「サークル祗動・クラブ活動をする」ためとしていたこの三者の合計が四八%強で前者を上回っていたのみでなく、約半数に上っていた。そしてこのようなこの調査結果に現れていることは、一概にいえないにしても、最近のわが国の大学におけるいわば学生像をほぼ示しているものといえるだろうと思います。

   またこの上記のような事実からみると、最近のわが国の大学についてそのレジャーランド化ということがいわれても仕方がない。むしろこのような表現のうちにその実情が示されているとさえ思われるわけです。さらにいま少し付言しますと、ある大学の教員は、最近のわが国の大学について論じながら、「このわが国の大学ほどレジャーランド化した大学は世界にないようだ」というようにさえいっています。(なお、上に記述のようなことに直接関連のあることといえるだろうと思われることですが、アメリカの教育関係者が日本の教育について調査した結果をまとめた「今日の日本の教育」と題する報告書〔本年一月発表〕では、日本の教育の現状について全般的には高く評価しながらも、大学に関しては、「学生はほとんど勉強しない」、「大学の四年間は時間の浪費である」とさえ論じ、さらに「教授陣にも指導意欲がない」とじっに厳しい指摘をしています。)

   ところで、わが国の大学教員はおよそ上述のようなレジャーランド化している大学に勤務しているのであり、そして私もその一人として過ごしてきたわけですが、このような状況のもとで ――この掲記のような大学教員にはほぼ共通していえることではないかと思われるのですが――ともかく私にとって相応に気がかりであったことは、以上にみるようなレジャーランド化している大学にやってきている学生(その相当部分の者は上にみましたような学業など二の次、三の次としている者といってよい者です)に対しては一体何をどのように教授したらよいのかということでした。そしてこのことは、じつは私にとっては反面さらにいわば一種の“悩み”とされてきたものであり、しかし同時にまた容易に解きがたいまさに“難問”とされてきたものです。しかしそれにしましても、教育というものはじつにむずかしいものであり、そしてこのような感想は、私にとっては教員という仕事をはじめて以来終始免れがたいものとなってきたものでした。

   なお、いま少し――上に申しましたようなことにどの程度にもせよかかわりのあることといってしかるべきことと思われることですので――つけ加えておきますが、しばらく前に読んだ西ドイツの著者の教育に関する著書について紹介していたある文章のなかにつぎのようなことが書かれていました。大学の教授たちはじつにいろんなことを研究していて、彼らの研究していないものは何一つとしてないくらいであるが、ただ研究していないことできわめてはっきりしているのは自分たちのことである。つまり著者によれば――とくに右の後段では――大学の教授たちは自分たちのしている研究(これはいわゆる業績にそのままつながっているものいえるものです)とか教育の仕方などについてはお互に無関心で、別に調査とか研究などなんらしようとしていないといっているわけです。私はこのようにいわれているのをみて、一瞬虚をつかれ、そして同時にまた何か図星をさされたといったような思いを強くせざるをえなかったようなことでした。 

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   以上のようなこととは全く別のことですが、やはり私の生活に関することですので、最近の私の生活(ことにいわゆる私生活)における一異変といったことについて、最後に少々息抜きにご笑覧に入れておこうと思います。この私のいう一異変といいますのは、このようにいっただけではと思いますので、まず少々注釈しますと、(今までのけっこう長い年月のあと)最近になって私がはじめて常用するようになったアルコール(ただしもっぱら日本酒)に関するいわば一件ともいうべきものです。

   じつは私はもともとアルコール党(いわゆる左党)には入らない人間です。しかし若い時は酒量はけっこういけ、酒の上での付合いはまずひととおり(?)やってこれました。それに飲べば気分はよくなり、陶然とした気持にさえなります。

   しかし自分で独りそこらの酒場にいって一杯というような趣味は幸か不幸かもち合わせず、家でも夏の暑いときビール少々といった程度で、ふだんはいわゆる晩酌など全然してきませんでした。   ところが、どういう風の吹き回しか、自分でも理由とか動機といったことについては何一つ説明できないのですが、三、四年前から急に毎晩銚子一本を傾けるようになりました。もっとも私の場合のこの銚子一本というのは、やはり晩酌ではなく、就寝直前の、したがって寝酒といわれているものです。私は寝るとき人体寝つきはいい方ですが、さらにアルコールがは入ると、睡眠はいっそう促進されます。就寝の時刻は大体十二時前後で、一日の終りが告げられるころですが、このような時刻に、銚子一本の酒量は知れたものですけれど(なおこの銚子一本というのは、この一本だけということにしています)、それでもそれを少しずつ口にしていますと、なぜとなく心もなごんできます。そしてこのようなこの銚子一本で、私の一日の“日課”の最後がいわば安穏に終えられることになります。 

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   なお最後にいま一件――私は、昨年十月十八日、ゼミ(京大当時のもの)の同窓会を開いていただき(場所は京大楽友会館)、私が満八十歳(いわゆる傘寿)を迎えましたのとさっき申しましたような龍大を無事定年退職しましたことを祝っていただきました。当日は北は北海道、南は九州からというように遠近各地から約六十名の方か集って下さり、私にとってはこの上もないよろこびの一日でした。ここに改めて皆さんにあつく感謝申し上げます。

   なお皆さんはこれからこそご活躍の時期であり、いっそうお元気でやっていただくよう心からお祈りしています。

(昭和六十二年六月)

 

19878月発行、「岡部ゼミナール名簿」第14号p16所収)

 

 

 

 

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