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助かった命―その限りないよろこび <私の戦争体験 NO4>

 岡部 利良

助かった命

 一九四五年(昭和二十年)八月十五日­――この日私は、関東車の一兵卒として、チチハルから南下し、ハルビンの付近に停車中の軍用列車のなかにいた。(私は、日中戦争の末期、満州国(現中国東北部)の建国大学に勤務していた関係からいわゆる現地召集され、関東軍の一部隊に入隊させられていた。)この停車中の列車が当時どこに行くことになっていたのか、そうしたことはわれわれ一兵卒には何も分らなかったが、すでに日ソ開戦により満州国に進撃していたソ連軍の攻撃にそなえ、朝鮮の国境の防備に行くのだというようなうわさがしきりに流れていた。事実またこのうわさのとおりであったのだろうと思う。しかしこの停車中の列車は容易に動かなかった。一両日前までよくあったソ連空軍による空襲もぴたりとやんでいた。このソ連軍による空襲の中止は何か不気味にさえ思われたほどで、どうしてなんだろうかと、みんなそれとなくいぶかってもいた。

 そのような折、ある兵隊が付近の駅から聞いてきたことだといって、「戦争はどうも終ったらしい」というじつに耳寄りなニュースをもち帰ってきた。そしてそれがすぐみんなの間でヒソヒソと話し合われた。このような情景をみた上官に当る上等兵などは、「貴様ら、何を言っているか!」とかん高い声で怒鳴っていた。

 やがて間もなく、詳しいことは何一つ知らされなかったが、ともかく「戦争は終った」ということが明らかになった。

 このときのよろこび――それは筆舌などではとうてい尽くせるものではなかった。しいていえば、失われるかも知れなかった命が助かったという、文字どおり限りない、人間至高の、そうしたよろこびであった。どんな人にも、命は二つとはない。それは、だれの場合にもただただ一つだけのものである。この一つだけの、それこそかけがえのない命が助かったのである。(戦争がもう少し長びき、上にふれた朝鮮の国境の防備にでも行かされ、戦闘に巻き込まれでもしていたなら、今ごろ、このような文章など書くことができたかどうか。神のみで知るというはかないが、少なくとも書くことができたという保証はもちろんどこにも与えられていたわけではない。)しかしこのようなよろこびも、当時は口には出して何一ついえなかった。ただ心中に秘めていた。しかし心ははずみ、よこびはふくらんでいった。何もかも明るくみえた。

  シペリアでの捕虜生活

  しかし、こうしたよろこびも、やがてまた薄らいでいった。この敗戦の年の秋にはシベリアに送られ、捕虜生活をさせられることになったのである。捕虜収容所に着くとすぐ冬であり、そして間もなく、零下二十度、三十度という、寒いというより、よく痛いといわれるシベリアの酷寒が襲ってきたが、当時まず不安に思ったのは、こうしたシベリアで捕虜生活をいつまでさせられるのか、そうしたことが皆目分からないことであった。

 捕虜はいろんな労働に従事させられたが、われわれの部隊が動員されたもっとも主な仕事は鉄道の建設作業であった。しかし私は当時すでに四十歳という兵隊のなかではもっとも老年兵の方で、健康的にも重労働などできる者でなかったので、収容所生活をはじめた当初しばらくの間は、ごく軽作業ですむということから、部隊の取り計らいで付近の病院に勤務することになった。この勤務箇所にいってみると、病院といっても木造建ての古い建物を急に当てたというようなところで、設備などもまだほとんど整っていなかったという状態であったが、とにかくここに近くの各収容所から毎日のように病人が運び込まれてきた。同時に入院中の病人の中からこれまた毎日のように死亡者が出た。
 
 敗戦の年の四五年はソ連でも穀倉ウクライナが大凶作でソ連人自身食糧難にあえいでいたといわれていたが、このような状態では捕虜にまともな食糧などとうていあてがわれるはずもなかった。事実われわれに与えられた食糧は、三食どの場合にも満腹感など容易にえられないほど量がすくなかった(そのため、捕虜はいつも空腹感――このいつもという空腹感は経験したものでなければとうてい想像さえできないだろうと思う――に悩まされていた)うえ、肝心の中味もかなりひどいものであった。また主にこうした事実からであったと思われるが、上にふれた死亡者の死因は大てい栄養失調というようにいわれていた。しかしいずれにしても、こうした同胞の死に毎日のように接していた私としては、明日は自分の番ではないかとさえ思い、再び日本の土地を踏める日があるのだろうかといった不安にたえず襲われていた。

 しかし、幸い私は悪運強く、命を保ちつづけえたばかりでなく、シベリアで捕虜生活を送らされた者のうちではもっとも早くこの捕虜生活から解放され、一九四七年(昭和二十二年)五月には日本に帰還し、復員することができた。日本における上陸地点である舞鶴に着いたときは、全く久しぶりに宿舎のたたみの上にのびのび横たわりながら、あァ、これでほんとうに生きて帰れたかと、やはり表現のしようのないよろこびを改めて心底からかみしめていたようなことであった。

 私か召集されたあと新京(長春―建国大学の所在地)に残っていた家族五人も、それこそ実にさまざまな辛酸をなめながらも、私より半年ほど前、とにかく無事日本に引き揚げていた。しかし引き揚げてきたときは、新京の住居にあった家財道具や私の書物などすべて置き去りにしてこなければならなかったので、他の引き揚げ者と同じように、全く着のみ着のままという姿で、いわば無一物家族という状態であった。

  再出発の研究生活

私は、帰還後しばらく、郷里の田舎の親戚に身を寄せながら捕虜生活で弱っていたからだの回復をはかっていたが、当時――家族は引き揚げのさい、右にいうような状態であったことからお分りいただけるように――私の身辺には、研究に必要な専門書など一冊はおるか、ノートのはし切れ一枚さえなかった。またこのようなことから、私としては、一体これで研究生活が続けられるのだろうかというのが当時の大きな不安であった。しかし、日本内地にいても、空襲などで無一物になりながら再び研究生活に立ち上っている研究者もいくらもいるはずだと思い、いままでどおりやはり研究者としての道を歩もうとみずから内心決意した。幸い、帰還した年の四七年秋には京大経済学部に勤務することができることになったので、研究者として再出発をはじめたが、その最初は、いま上にしるしたようなことから、身辺に専門書などほとんどないという、研究者としてはわれながら感にたえないというような状態であった。(その後しばらくは、書物は主として大学の図書館の厄介になったが、このようなことから、当時私としては、図書館のありがたさというものをシミジミと味わった。)

  戦後はもうすでに以前に終ったといわれているが、私たちの場合(家族をも含め)戦争の傷跡は今もなおいえない。

 
戦争――それは、お互いにたった一つしかない命を至極無惨に奪うものである。(さらに端的にいえば、大量的殺人行為である。)このような戦争を阻止し、こうしたお互いの命を守るには、何よりもまずみんなで固く力を結集し、そして、そうした力による運動がいわば至上命令的なものとして、ぜひ広くなされなければならない。古い言葉だが、「一致団結」、これによるほか道はないだろうと思う。 

(おかべ としよし 名誉教授)

198210月から19835月の間に5回刊行された「京大生協・平和のための委員会」編「PeaceNow!」第4回版p23所収)

 

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