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平成4年、故岡部利良の著作「旧中国の紡績労働研究」書評4(西村 明 先生)

 

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岡部利良著「旧中国の紡績労働研究」〈解題〉

 

青春の蓄積-実証と論理

九州大学教授 西村 明

 

  本書は、解放前の中国における主要な近代工業である紡績業の労働(及び労働者の状態)とその管理を総合的に分析したものである。筆者は、中国での申国人紡績企業と日本人紡績企業とを比較検討しながら、日中戦争(二九三七―一九四五年)終結以前の中国紡績企業の労働(労働力)及び経営の後進性・非近代性とその根拠を多くの文献データを渉猟し、また自らの調査を踏まえて具体的に描き出している。もっともこの後進性・非近代性は、中国資本主義の未発達(例えば株式会社制度の未発達)と資本家的経営の後進性との対置において分析されている。労働の後進性・非近代性については、それぞれの章において、労働生産性の低さ、知的教育水準の低位、雇用における間接的契約制度 (嘱託募集人=労働者の身分的拘東、隷属的諸関係)、労働過程・管理における無規律、管理者の無責任・寄生性、経済外強制(工頭制度、買弁制度、体罰・身体検査等)などの問題を取り上げ、きわめて具体的に考察している。
  とりわけ旧中国紡績企業での労働関係(女工、童工等の労働者としての創出過程、生産過程での労働関係)についての分析はきわめて興味深いものである。徒弟、童工、女工にみられる非近代的な雇用と就業状況、さらにそれを支える戸籍制度の不備、雇用主と嘱託募集人との結託などの考察から、私たちは旧中国の紡績業労働者の状態について十分な理解をえることができる。そしてまた、労働者の怠惰や労働における無規律、労働生産性の低位は、それ自体として重大な問題を含んでいるのであるが、さらに全章を通じてとりわけ最終章において、長時間労働と低賃金、経済外強制という資本家的な非近代的収奪の結果としてとらえられ、未成熟な資本主義のあり方を体現するものとなっている。

  本書を読みながら、エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状」が下敷になっていたのではないかとしばしば感じさせられた。たしかに旧中国の紡績業の労働者の創出過程、非近代的な労働過程、それに関わる生活環境や当時の風習がデータや資料に基づき冷徹に、あたかも感情を抑えた形で分析されているのであるが、それを全体としてとらえなおしてみるとき、資本と労働との矛盾という分析視点が基底に据えられてあり、ときには資本への痛烈な批判を読みとることができるのである。もっとも本書の場合には、その分析課題は単に資本と労働の対立関係を分析することではなく、資本主義の後進性が労働の後進性を規定し、またそれが相互に結びついている中国的な特殊性を解明することである。たしかにこの特殊性の分析は注目すべき点である。

  本書では、労働の後進性・非近代性は、基本的には、中国紡績労働者の農村への依存性、つまり紡績工業の農村経済からの非分離、さらには紡績資本家の非近代性(地主資本、問屋制資本=未成熟な産業資本)からくるものと考えられている。とくに注目すべきことは、女子紡績労働者創出過程の二つの型態(華北型と華中型)の分析である。この型態分析は、その後の労働者の採用方法、雇用形態、管理方法、賃金、勤務年数、生活状態などの考察にかかわって重要な意味をもっている。華北、とくに天津、青島では工業が未発達で、古い風習が強く残っており、男性の労働の供給は大きく、華中に比べて男子労働者の占める割合が高く、男工主義といわれる傾向が支配的である。
  それに対して、比較的工業が発達し、近代化が進んでいる華中、とくに上海では男子紡績労働者の供給はそれほど容易ではなく、農村部からの女子労働者が大きな位置を占めている。これを本書は女工主義と呼んでいる。この相反する形態が相互に機能しあい旧中国の紡績労働者創出過程の特質を生み出しているのである。この点の分析もまた本書のすぐれた特質と思われる。そこで、結論と思われる部分を引用しておこう。

  「そしてこのことをさらに念頭においてみるなら、右の華中の紡績業における女工主義、華北の紡績業における男工主義という相違は、この各々が紡績労働者の雇用上採られてきた(あるいは現になお採られている)華中、華北の両地域における女子紡績労働者創出の社会的.経済的諸条件―ことにそれらの積極的あるいは消極的に作用してきたもの―の存在程度がそれぞれ異なることによるものとみるべきものであり、またかかることの両者の相違は、さらにより具体的にいえば、中国の女子紡績労働者の創出過程において、華中ではこの過程を促進する諸条件(すなわち女子紡績労働者の創出条件)が、華北では逆にそれを阻害し制約する諸条件)がそれぞれ相対的に強く作用してきたことによるものとしてとらえられるものであるということができるであろう。しかしかかるこの二様の条件は、上述の中国の紡績業における華中の女工主義、華北の男工主義という相違についてのみでなく、じつは同時にまた中国の(少なくとも華中・華北の両地域における)女子紡績労働者、さらに広くは中国の近代的女子労働者の創出過程を形成せしめるうえにそれぞれ相反するいわゆる相反的な条件をなしてきたものとしてとりあげられるべきものである。」(本文一〇七-一〇八ページ)

  以上に見てきたように、本書は、できる限り客観的な事実を一定の論理のもとに再構築し、旧中国紡績業の労働の全体像を作り上げようとしている。本書はまさに日本が中国への帝国主義的侵略のスピードを速めていたときに書かれており、その分析や叙述方法は大きな時代的制約を受けざるをえなかったであろう。それゆえ、もしその当時の客観条件をさらに分析視角に入れ込むことができるとするならば、本書の中でもしばしば言及されているように、半植民地支配の問題がもっと中心部に据えられなければならなかったであろう。旧中国紡績業の労働の後進性・非近代性はどこからきたのか。たしかに資本主義発展の未成熟によるが、それはさらに中国の近代における日本を含めての帝国主義諸国の植民地支配を抜きにしては考えられない。いま私たちは厳中平「中国棉紡織史稿(二一八九-一九三七)」(一九六三年、科学出版社)などのすぐれた書物を手にすることができる。このような書物を参考にしながら、私自身は、本書をこれを踏まえて現代的でさらに客観的な分析をおこなうための礎石として利用しなければならないと考えている。

  しかしながら、私自身、社会主義中国の労働や企業管理の研究にかかわる者としてやはり多くのことを本書から学びとることができた。また、先生のもとで会計学を学んでいたときに理解しえなかった事柄の意味内容が分かりかけてきたような気もするのである。そこで、本書には岡部会計学にないものが随所に展開されているようにみえるのであるが、じつはそれは岡部会計学の深奥を支えてきたものではないかと思っている。

1992年11月刊行岡部利良著「旧中国の紡績労働の研究」栞所収)

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