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サッチャーリズム再考

岡部 陽二

 サッチャー元英国首相の改革が今再び脚光を浴びている。バブル崩壊後一向に立ち直りを見せない日本経済再生のためのお手本として、英国病とまでいわれた七〇年代以前の荒廃した英国経済を見事に甦らせた実績が見直されているのである。英国での改革のポイントは規制緩和や行政改革を経済活性化策として最大限に活用した点にあると受取る向きが多いが、私はむしろサッチャー改革の主眼はそのような手法にあるのではなく、「民営化による小さな政府の実現」、「労組潰しによる賃上げの抑制」、「地方自治体の放漫財政是正」、「外国企業誘致による雇用増進」といったより具体的な政策目標がまずありきで、彼女の真髄はこの目標を実現するために最適の手段を駆使した点にあったものと解釈している。彼女が推進した政策の基礎は、あえて要約すれば「働かざるもの食うべからず」、「競争なくして進歩なし」といった素朴な自立心重視のピューリタン的信条であったといえようか。私が在英中に間近に見たサッチャーの政策は、昨今我が国で理解されているサッチャーリズムとは似て非なるものではないかとの疑念が払拭できないので、史実に基づいた再点検を試みたい。

 サッチャーが保守党党首として登場した七九年の総選挙では、彼女はインフレ抑制と政府支出の削減を重点施策として掲げた。七〇年代の英国は賃上げ圧力と財政赤字に由来する悪性インフレに悩んでいたが、労働党政権が打ち出した一種の行政指導であった所謂所得政策は効を奏さず、ストの続発や高率の所得税で経営者も事業展開意欲を失っていた。そこで政権を奪取するや彼女がまず断行したのが、マネタリズムに基づく公共支出の削減と金融引締めで、次いで個人所得税の最高税率を八三%から四〇%へと一挙に引き下げた。この引下げに対しては金持ち優遇との非難もあったが、重税は国民の勤労意欲を殺ぐという彼女の信念が貫かれた。同時に北海油田の稼動による外貨事情の好転にも支えられて、それまでの厳しい為替管理を全廃した。これに従事していた三百人余りの英蘭銀行職員が全員解雇されたのには、さすがのシティー子も驚いたものの、この英断が規制を嫌う世界中の資金をシティーに流入させる契機となり、ロンドンの国際金融センターとしての地位が復活し、結果的には雇用も飛躍的に拡大した。

 さらに彼女が手掛けた改革は労組対策、国営企業の民営化、それに大ロンドン市議会の廃止など放漫な地方財政の立て直しにまで及んだ。労組の強硬姿勢により生産性の向上に比べて過度の賃上げが実施されてきたことが、英国製品の国際競争力を低下させたとして、雇用法が二度にわたり抜本的に改正された。その骨子は従業員すべてを強制的に組合員とするクローズド・ショップ制の廃止、同情ストの禁止、ピケの民事免責廃止といったもので、それまで労組に甘かったスト規制などを大幅に強化したものである。

 サッチャーの行った数多くの経済活性化策の中で最大の効果を挙げたのは、何といっても国営事業の民営化であろう。彼女の在任中に国営企業の六〇%が民営化され、国民の四人に一人が民営化企業の株主になった。彼女の信念によれば、如何なる企業体であっても競争原理に基づく利益の追求がなければ、国民経済にとって有効に機能しないし、また政治家や役人が企業活動に介入するのは悪である。

 もう一つの民営化は八六年の社会保険法改正によって実現した公的年金の報酬スライド部分についての私的年金への切換え奨励で、この措置により既に五十万人が私的年金に切替えた結果、英国では高齢化に伴う公的扶養負担は国家財政上の深刻な問題ではなくなっている。これにつづいてサッチャーは政府支出の抑制にはまず地方自治体の支出削減が先決との認識から、自治体の支出権限と徴税権を削ぎ、借入の自由度も奪った。

 さらには大ロンドン市など大都市の自治政府を解体、極めつけは地方財源であった固定資産税に代えての人頭税の導入であった。人頭税はサッチャー退陣後僅か一年半で廃止されたが、この改革での彼女の意図は放漫自治体に支出削減を迫るために自治体間の税負担格差を住民にはっきりと示すことにあった。

 このように見て来るとサッチャーリズムの真髄は「民営化」と「労組および自治体潰し」にあったと総括出来る。規制緩和についても自由競争原理の導入が経済活性化に必要な局面では多用されたが、逆に労組の行過ぎを抑える局面などでは大幅に規制が強化された。また財政の健全化を優先して中央集権を強化したのもその限りでは理屈に合っている。金融取引についても参入規制や価格規制は全面的に撤廃されたが、一方で金融サービス法が制定され、消費者の利益を保護するための規制は大いに強化されている。この法律は証券・保険などを含む幅広い金融商品を対象に「誤解を招く説明の禁止」といった取引ルールを細かく定めており、これに違反した業者には直ちに損害賠償を請求できる。 ビッグバン後に一挙に三〇倍に増えたトラブルもこの法律で設けられた紛争処理機関が有効に機能して、泣き寝入りは存在しないと云われている。

 翻って我が国の現状をみると、橋本首相の施政方針演説を聞いても、規制緩和と地方分権によって構造改革を実現するというだけで、実効性のある戦略も改革後の具体的な目標も明示されていない。郵貯だけではなく効率の悪いすべての公営事業を民営化し、それによって新しい需要を創造するのが経済再建の捷径であり、財政再建にも資することが英国で実証済みであるに拘わらず、サッチャーリズムの真髄である「民営化」が我が国では一向に進まないのは何とも不思議である。

 英国では水道事業や空港公団まで民営化した結果、GDPに占める公的セクターが八一年の一七%をピークに一貫して減少、九〇年以降は一一%前後の水準で推移している。NTT・JR・JT民営化後の我が国公的セクターは九四・九五年でGDP比一三%前後であるが、これを英国並みに二%落とせば、一〇兆円前後の減税又は公債償還が可能となる。あくまでも民営化が政策目標であって、規制緩和は政策目標達成のための一手段であり、逆に強化すべき規制もあること、地方分権にも功罪両面があることはサッチャーが残してくれた貴重な教訓であろう。

 何れにせよ具体的な目標を定めて徹底的に遂行することが重要であって、中途半端では政策効果が望めないことを我々はサッチャーリズムから学ぶべきではなかろうか。

(明光証券前会長)

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(1998年7月29日発行、日本証券経済倶楽部機関誌「しょうけんくらぶ」第64号10~11頁所収)

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