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スイス・ゴッタルド銀行を買収せよ 住友銀行ユニバーサル・バングの布石、週刊ダイヤモンド

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「週刊ダイヤモンド」<ドキュメント>スイス・ゴッタルド銀行を買収せよ~住友銀行ユニバーサル・バングの布石

 住友銀行は今年3月、スイスのユニバーサル・バンキングのひとつゴッタルド銀行を買収した。親会社イタリア・アンブロジアーノ銀行の清算をめぐる国際紛争、そして、優良銀行ゴッタルド銀行の売却。ヨーロッパ金融界の波乱のなかで、住友銀行はいかにして買収作戦を進めたのか。

コーヒーハウスでの祝杯 

 長かった一日を終えた住友銀行国際企画部長の森川敏雄常務ら一行がホテルに戻ったのは午前零時を回っていた。"335億円の買物"の交渉にメドがつき、8時間後には仮調印が行なわれる昭和59年2月27日午前1時、ロンドン――。

 ここ数日間、スイスのゴッタルド銀行の買収をめぐって、住友銀行と、ゴッタルド銀行の売却を依頼されているクレデイ・スイス・ファースト・ボストン(CSFB)との間で、朝から深夜に及ぶ精力的な交渉が繰り広げられた。それがようやく一段落したのである。

 長丁場の交渉を乗り切った一行はシャンパンを抜こうとしたが、レストランはすでに閉まっていた。それで、投宿しているホテルのコーヒーハウスでシャンパンを交わすことにしたが、ボーイは周囲の客を配慮して、コルクをボーンと天井に飛ばさず、慎重にナプキンでくるんだために、コルク栓はボコッという音をたてて抜けた。だが、シャンパンの味は格別だった。

 2月27日(日本時間28日)、仮調印が済んだ後、東京では小松康頭取が日銀記者クラブで「住友銀行はスイス第12位のゴッタルド銀行の株式52.67%を、バンコ・アンブロジアーノ・ホールディング(ルクセンブルク)から買い取ることに基本的に合意しました。買収価格は約1億4400万米ドル。邦貨にして335億円」と発表した。日本の銀行がヨーロッパの銀行を買収する初めてのケースである。

 ゴッダルド銀行の本店のあるルガノ市はイタリアとの国境に近い町で、ミラノから100キロ北に行ったところにある。同行はスイスの銀行ランキングで、自己資本で12番目、利益では13番目であるが、商業銀行業務のほかに、証券業務を行なう、いわゆるユニバーサル・バンキング。スイスでの債券引受け市場ではスイス3大銀行に次ぐ地位を占める。

 住友銀行は今回の買収によりヨ-ロッパでの活動の強化が図れるとともに、国内外での証券業務拡大の確実な手がかりをつかんだ。

"アンブロジアーノの霧"

 スイス・ゴッタルド銀行買収の発端は、ちょうど1年前の58年4月のことである。住友銀行国際投融資部長の岡部陽二取締役と、シユローダー銀行のゼネラル・デイレクター、エリック・ガッサー博士が夕食をしていたとき、「住友はスイスの銀行に関心がないか」と持ちかけられたのが最初である。

 当時、ヨーロッパの金融界をゆるがす一大事件が起き、スイスとイタリアの金融当局が対立する国際問題にさえなっていた。ことの起りは、昭和57年8月イタリア最大の民間銀行で、バチカン法王庁の金庫番ともいわれていたアンブロジアーノ銀行が、14億ドルといわれる巨額の不正海外融資が発覚し、解散に追い込まれたことだ。

 しかし、イタリア政府は「イタリア国内の銀行については救済するが、海外にあるアンブロジアーノ銀行の子会社などについては面倒をみない」という態度をとった。アンブロジアーノ銀行の海外業務は主にルクセンブルクの子会社バンコ・アンブロジアーノ・ホールディング(BAH)を通して行なわれており、イタリア政府がBAHを救済の対象からはずしたため、ヨーロッパを中心とする銀行は相次いでBAHに対し、デフォルト宣言を行なった。「スイスの銀行に関心がないか」という打診は、BAHの子会社スイスのゴッタルド銀行めことを指していた。

 昨年の4月といえば、日本の銀行の海外投資戦略が活発になり始めた時期だ。富士銀行がアメリカの商業金融会社の大手W・E・ヘラー杜を約1000億円で買収すると発表したしたのが3月14日であった。

 また、三菱銀行も57年7月に"身売り話"が持ち込まれた米バンク・オブ・カルフォルニアの買収を真剣に検討し始めていた。

 住友銀行に具体的な動きがみられたのは5月に入ってからのことだ。スイスにある全額出資の現地法人、住友インターナショナル・ファイナンスの株主総会に出席するため渡欧した樋口廣太郎副頭取(国際総本部担当)と岡部取締役は、スイスの銀行事情、ゴッタルド銀行について調査を開始した。

 帰国後、「ゴッタルド銀行は財務内容もよく、いい銀行である。ガルツォーニ会長はスイス外銀協会の会長も務めるほどの人材だ。だが、アンブロジアーノ事件が今後どう展開するかわからないので、進むとも退くとも決められない」と報告した。そして、住友銀行としては、ゴッタルド銀行をさらに研究し、事態を注視していこう、という結論を下す。

 アンブロジアーノ銀行倒産に伴う戦後処理がどう展開するか、58年夏になってもいっこうに見当がつきかねる状態であった。住友銀行の内部では"アンブロジアーノの霧"と称して、事件の行方を注意深く見守っていた。

 そんな折、正確にいえば、昨58年の7月、「住友銀行がスイスのゴッタルド銀行と交渉をしている」という外電が流れた。強い関心を持っていたが、実際に交渉はしていない。住友銀行が「そうした事実はない」と直ちに否定のコメントを出したのも当然だ。その後、ルクセンブルク当局は、BAHを管理下に置き、イギリスの世界的な会計事務所トゥーシュ・ロスを管財人に指名、トゥーシュ・ロスは同社のブレイン・スムーハ会計士をBAHの取締役として送り込み会社整理の作業を進めていく。

コンフィデンシャル・レター

 そして、海外の優良資産をカネに換える動きがみられ、58年11月にゴッタルド銀行売却のエージェントに、ユーロ市場で最有力のマーチャシト・バンクのクレディ・スイス・ファスト・ボストン(CSFB)が指定された。

ゴッタルドの件について、一切を任されたCSFBから住友銀行に、コンフィデンシャル・レターが届く。この時のデータでゴッタルド銀行についてかなりのところが明らかになる。ところが、住友銀行はすぐに買収交渉にはいらなかった。コンフィデンシャル・レターは世界の有力な銀行十数行に送られたものとみられている。もちろん、どの銀行に送られたかはヤブのなかで、内容についてはー切外部にもらしてはいけないことになっている。

 住友銀行が動かなかったのは、とりもなおさず、"アンブロジアーノの霧"がいまだに晴れないからであった。ゴッタルド銀行そのものは経営内容もよく、ためらうことはないのだが、イタリアのアンブロジアーノ銀行との関係がどうなるか、また、アンブロジアーノ銀行整理の過程で、意外な不良債券が発生するのではなど、いくつもの霧がかかっていた。ただ、この段階では買収を狙う他の銀行も動かないだろう、また交渉を始めてもまとまらないだろう、というヨミが住友銀行にはあった。

買収にふたつの関門 

 一方、スイス・ゴッタルド銀行買収については、ふたつの大きな問題も引っかかっていた。そのひとつが、日本とスイスとの金融での相互主義の問題だ。スイスの銀行で日本に進出しているのはスイスの3大銀行で、日本からは富士銀行、東京銀行、第一勧業銀行が進出しており、数のうえで、3対3になっていた。

 さらに日本興業銀行が100%出資の現地法人を新設したい意向だったが、数のバランスが崩れるという理由で、興銀の現地法人の認可がペンディングになっていた。

 しかし、スイス金融当局は興銀のスイス法人を認めるらしい」という極秘情報が、年の瀬も押し追った58年12月末、住友銀行の海外情報網からはいり、日本国内でも確認の作業が行なわれた。興銀のスイス法人設立にゴー・サインが出されたのは59年1月下旬であったから、住友は1ヵ月も前に動きを察知していたことになる。こうした情報収集および分析力は、買収劇などでは欠くことのできないものだ。

もうひとつの問題というのは、日本の金融当局の問題だ。銀行の海外現地法人による証券業務を規制し、日本企業の外債引受け業務で証券会社を優位に置くという、いわゆる"3局合意"が大蔵省の銀行局、証券局、国際金融局の間で昭和51年に決められている。

 ゴッタルド銀行は商業銀行のほかに、証券業務を行なうので、3局合意に反するのでは、という意見が出ることも当然予想されるわけだ。大蔵省との折衝も、興銀のスイス現地法人が認可された59年1月下旬から始められた。

 一方、レシプロ問題に確信が持てた58年12月から59年1月にかけて、アンブロジアーノの霧も次第に晴れてきた。債権債務の関係がはっきりし、分配率を60%にするとか70%にするとか、具体的な数字が出始め、バチカン市国からも拠出金が出るといった具合で、煮詰まった感触が得られてきた。

 まさに、機は熟してきた。

 すでに、住友銀行の海外戦略にとって、ゴッタルド銀行の重要性は十二分に論議されていた。これからの最大のライバルは海外の大手銀行だ。そのためにも、商品サービスの多様化、フィー(手数料)ビジネスの拡充を進め、力をつけていかなければならない。ゴッタルド銀行の買収は、単に、ヨーロッパにユニバーサル・バンキングの拠点を持つことだけではなく、そのノウハウをモノにするチャンスとなるわけだ。

 年が明けた1月22日夜、国際企画部長・森川常務が、スイスに飛んだ。ゴッタルド銀行やアンブロジアーノ事件のことを最終的に調査するためだ。そして、国際総本部担当の樋口副頭取に、アンブロジアーノの霧は8割方解決した、いよいよライバルが出てきそうだ、と報告する。

2000ポンド の電話代

 1月28日に帰国した森川常務のあとを追いかけるようにして、ロンドンのCSFBから、「2週間以内に買収金額を提示してほしい」とのテレックスが住友銀行にはいった。これは仮入札のようなものだ。世界の3~4行に打診されたようだ。スイス当局も重大な関心を寄せており、買収先は、国際レベルの銀行であること、マネジメントがしっかりしていること、を条件にしていた。

 このときの森川常務の心理状態は大きく揺れ動く。アンブロジアーノの霧がすべて晴れ渡ったわけでなく、また金額も大きい。買収の成否は、銀行全体の戦略に、大きな影響も与える。「同じデータをみても、体調のよいときは今すぐ行動を始めるべきだという気になり、疲れてくると、結論を先に延そうと弱気になった」と森川常務は述懐する。

 数日間思い悩む日が続いたが、「やっぱり、動かんといかん」と樋口、森川両氏は決断を下し、2月6日に行なわれた経営会議に具申。さらに2月9日、13日の2度にわたっての経営会議で買収案はもまれた。最後の焦点はゴッタル

ド銀行を運営していくための人材がいるのかであった。目先の利益を期待する投資ではなく、買収の目的は、そのノウハウを吸収し、住友銀行へどう生かしていくかだ。

 経営会議では、A案、B案、C案と、いくつかの案が討議された。買収金額はそのなかでも、高いほうの案で決まった。本気で買収するのだから、価格面でのつまらぬ駆引は避けた。ただ、アンブロシア一ノの銀行倒産にからむ債務は免責されるなど条件面は厳しいものにし、書面でCSFBに回答した。

 1週間もたたない2月18日、CSFBから、真剣に話し合いたいので至急ロンドンまで来てほしいとのテレックスがはいり、森川常務ら住友銀行の交渉メンバーは翌19日にロンドンに赴いた。

 イギリス人、スイス人のふたりの弁護士をまじえて、交渉の打合わせにはいり、2月20日から、CSFBのオフィスで、BAHのスムーハ取締役およびCSFB関係者との交渉が開始された。その結果、冒頭に記したように、コーヒーハウスでのシャンパンとなるのである。           。

 一日中交渉を続け、深夜は深夜で弁護士と翌日の打合わせを行なったり、東京にいる樋口副頭取に連絡を取り合っていた。樋口副頭取はどんな時間でもいいから、何かあれば電話をするようにと指示していた。このため、東京-ロン

ドンの国際電話はたちまち2000ポンドおよそ60数万円に達した。部屋代よりも高い電話代に目を丸くしたホテル側は、3日ごとに精算してほしいといったという。


ベスト・メンバーを招集

 ロンドンでの交渉を終えたのち一時帰国した森川常務は3月11日に再びロンドンに戻り、正式契約のための交渉にはいった。

 交渉は英語を使って行なわれたが、英語の聞違いや勘違いがあったときは、同席していたパリ駐在員事務所の飛松集一事務所長に右のソデを引っ張るようにいい、森川常務の左の席にすわった弁護士には交渉で気弱になったら、テーブルの下で足をけるように事前に打ち合わせてあった。

 森川常務の足がけられたのはただ一度だけ、交渉が大詰めを迎えたときである。すでに、その日も長時間の交渉であった。そして、条件面を通すため、金額面で若干ゆずる姿勢を示したときだ。全体の1億4400万ドルからみれば金額的な影響も少ないので、手を打とうと妥協しかけたのだが、弁護士の放ったキックは飛び上がらんばかりの強烈なものであった。

 折れる必要のないところでは絶対妥協すべきではないという弁護士の主張はもっともなことであるが、海外の弁護士のタフなことには驚かされた」と森川常務は振り返る。買収交渉がまとまり、樋口副頭取がロンドンで契約に調印したのは3月16日午前零時半である。

 ゴッタルド銀行の買収に乗り出そうとした邦銀の関係者は「住友さんはいい買物をされましたよ。ウチは出遅れた感じです。それにゴッタルド銀行がイタリア系なので、日本の銀行の傘下になると、債券引受け者の離反が起きるので

はという不安もありました」と、ゴッタルド銀行への未練を残しながら、こう語ったものである。

 住友銀行はゴッタルド銀行運営のために世界中からベストメンバーを選び、6人の専任スタッフからなるタスク・フォースを3月29日に発足させた。彼らは一時東京に招集され、概況説明を受けたのち、買収資金の調達、銀行の引渡し、スイス銀行法の研究など、それぞれの使命を帯びて任地に飛び立った――。

(1984年4月25日発行、「週刊ダイヤモンド」p84~86所収)

スイス・ゴッタルド銀行を買収せよ~住友銀行ユニバーサル・バンクへの布石.pdf; ここをクリックしてください

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