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ベルリンの壁崩壊と天安門事件20年に想う

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 東西冷戦のシンボルであった「ベルリンの壁」が崩壊してから20年となる昨年11月9日に、ベルリン中心部で、記念式典が盛大に催された。テレビで観た壁崩壊をイメージした千個の巨大ドミノ倒しは、一つの出来事が瞬時にして全世界に波及する様を如実に表現しており、壮観であった。
 1989年にはロンドンに駐在していた私は、壁崩壊の数日後に西ベルリンを訪れた。そこで、東ベルリンから流入した大衆が、まずバナナを求めて殺到する様は、失礼ながら蝗の大群の襲来のようであった。そ凄まじい解放感を目の当たりにして、あらためて自由の尊さを実感したのであった。

 東ベルリンへ入って、借りたハンマーで壁崩しを試みたが、堅牢なコンクリートに跳ね返されて、何遍試みても割れなかった。すると、地元の少年がどこからともなく現れて、壁の一片を5ドルで売ってくれた。壁崩壊とともに、需要と供給がマッチする市場原理も直ちに入り込んできたのである。

 80年代には、毎年何度か西ベルリンからチャーリー・チェックポイントという東側の検問所を歩いて通って東ベルリンへ入った。車に乗っていても、検査は床の下まで金属探知機で調べるといった徹底ぶりであった。東ベルリンの街は、広告もほとんどなく、街全体が灰色で暗かった。

 壁崩壊の前年の9月には、東西融合を訴えて西ベルリンでIMF・世銀総会が開催され、私も参加した。この時は、東ベルリンのホテルも活用すべく、東西の行き来が一時的に緩和されたが、その一年後に壁が無くなることを予測した者は誰一人としていなかった。

 一年前はおろか、11月9日の当日でさえ、強力な軍隊と秘密警察に支えられた共産主義という強固な機構が崩れることは誰も予見し得なかった。東独の大衆が壁を乗り越えて、自由を求めて西側へ乱入するのを武力で制止することを諦めた東独政府の決断に至る東独側での葛藤は西側には洩れなかったのである。

 ゴルバチョフ大統領辞任に至るソ連邦の解体には、なお2年余を要したが、壁崩壊のかなり前からすでに東側の体制が内部崩壊を起こしていた事実を読みとった専門家はごく少数であった。

 壁崩壊後の西独政府の対応は迅速であった。3週間後には、悲願の東西ドイツ統合を発表、実質価値は数分の一しかなかった東独マルクと西独マルクとの等価交換を決定した。それと歩調を合わせて、EUの通貨統合や東欧諸国の民主化・市場経済化が急速に進展した。1999年1月に11カ国で発足した統一通貨・ユーロには、10年後に東欧圏からスロベニアとスロバキアの2カ国が参加を果たしている。

 ベルリンの壁崩壊の最大のインパクトは、東西の障壁も先進国と開発途上国との障壁も一挙になくなって、ヒト、モノ、カネが世界を自由に動き回る地球規模での経済統合、いわゆるグローバル化が進んだことではなかろうか。中国をはじめとする東アジア諸国やロシア・東欧が一挙に市場経済圏に仲間入りした結果、低労働コストでの商品生産量が急増しただけではなく、マネーの暴走が金融危機を惹起した。

 この20年間で世界の名目GDPは89年の20兆ドルから08年には60兆ドルと3倍に増えたが、その過半はBRICSなどの途上国であり、わが国をはじめ先進国の多くはこのグローバル化に対応できていない。障壁のない世界で、成長力を高め、長期低迷から脱するための有効な処方箋を先進国はいまだ描けていないのである。

 国際政治の面では、冷戦の勝者と見られた米国がイラク戦争で躓き、アフガンでも手を焼いている。米ソによる抑えが利かなくなった結果、イスラム原理主義によるテロが頻発し、核拡散の恐怖が高まっている。

世界を大きく動かした20世紀後半の出来事をもう一つ挙げるならば、それは同じ年に勃発した天安門事件であろう。

 天安門事件は、1989年6月4日に、同年4月の胡耀邦の死をきっかけに、天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対して、中国人民解放軍が市民に向けて無差別発砲し、装甲車で轢き殺すなどの武力弾圧をし、多数の死傷者が出た事件である。

 1985年来、ソ連で「ペレストロイカ」が進められ、同じく1949年の建国以来共産党の一党独裁下にあった中国でも、1986年5月に総書記の胡耀邦が「百花斉放・百家争鳴」を提唱して、国民からは開明的指導者として支持を集めていた。

 これに対して鄧小平ら党内の長老グループを中心とした保守派は、この自由化路線の推進は中国共産党による一党独裁を揺るがすものとして反発し、胡耀邦は事実上失脚した。1988年末から北京や地方都市でこれを非難する学生デモが発生、89年5月にはピークに達していたのである。

 この89年5月の連休に北京で初めて開催されたアジア開銀総会に参加するため、私はロンドンから北京へ駆けつけた。街は連日のデモ行進で警察との小競り合いが頻発してはいたが、天安門広場に面する人民大会堂で開かれた総会や各所での大パーティーには何の影響もなく、まさか一ヵ月後に軍隊が出動する大流血事件がここで勃発することなど想像もできなかった。

 天安門事件は、ベルリンの壁崩壊とはまったく逆に、民主化を阻止して一党独裁体制を強化した出来事であったが、一党独裁下で経済の市場化を一貫して強力に進めた結果、今日の中国経済繁栄が実現したことは疑う余地のないところである。

 78年の12月に決定された改革開放政策の成否は、89年の天安門事件を乗り切るがどうかに掛っており、この事件が大きな岐路であった。この時点で、もし民主化の要求を入れておれば、国内は分裂し、高度成長路線には乗れなかったのではなかろうか。

 二大突発事件の前後に現場に居合わせることができたのは国際畑の人間として幸いではあったが、この時点で、かのドミノ倒しの連鎖に象徴される如きグローバル化の急進展、以後20年の急激な変化は到底予見し得なかった。おのが不明を恥じるばかりである。

 (岡部 陽二、個人会員、元明光証券㈱会長)

(2000年2月22日、一般社団法人・日本証券経済倶楽部発行「しょうけんくらぶ」第87号、p6~7所収)

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