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「死海文書」の不思議   

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 ミレニアム(千年紀)の原点はグリニッチ標準時の子午線が通り、盛大なお祭り騒ぎを繰り広げている英国だとばかり思っていた。ところが、歴史的に見ると、西暦紀元暦の始まりとなったキリスト生誕の地であるイスラエルこそが原点であるとして、イスラエル政府がミレニアム記念に同地を訪れるよう世界中に呼掛けているのを知った。イスラエル政府の肩を持つ訳ではないが、「欧州・中近東を隈なく旅行してどこが一番お勧めですか」と聞かれる度に、私もイスラエル一周の旅を推すことにしてきた。

 その理由は、何と言ってもキリスト教文化の原点となった旧約・新約聖書の旧跡が国中至るところに散在しており、近代西欧文明を理解するにはこの地域の実見が不可欠との思いがある。つぎに、金融経済の世界を牛耳っているユダヤ人の故郷を知っておくことが、彼らと付き合うに当って必要なこと。さらには、「水と安全はタダ」と思っているわれわれ日本人にとって、その対極にあって国家存亡のリスクに常時曝されている中東紛争の現場を見ることの重要性などを挙げている。

 そのイスラエルの地を家内とともにじっくり見る機会が訪れたのは、今からちょうど11年前のクリスマスから新年にかけての1週間余であった。現地の観光会社が組成したバス・ツアーに参加、熱心なガイドが毎日早朝から日没まで、北は占領中のゴラン高原、ガリラヤ湖周辺から南はベツレヘム、死海南岸のマサダの要塞まで、国中の遺跡という遺跡を虱潰しに案内してくれた。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三つの宗教の聖地が混在するエルサレムには3泊して嘆きの壁や岩のドーム、最後の晩餐の部屋、十字架の道といった数々の名所を見学して廻った。夜は入植者の集団農場が経営しているキブツ・ホテルに泊まって、地元の人々と懇談したり、講義を聞いたりという強行軍であった。参加者もユダヤ教やキリスト教信者が多く、物見遊山というよりは学習旅行そのものであったが、それだけに旅の印象は強烈に残った。

 中でも驚きはネゲブ砂漠に接している死海のほとりで豪雨に会い、道路が河に変じてバスが立往生して、丸一日足止めを食ったことである。通常、この地域では雨は年間200ミリ位しか降らないものの、一旦降ると土壌が水を通さないため地表が河になるとの説明が観光案内書にもあったが、一年に一回起こるかどうかという滅多にお目にかかれない「ネゲブの洪水」に遭遇できたのは貴重な体験であった。

 もう一つ鮮明に脳裏に焼き付いているのは、エルサレムの中心部にあるイスラエル博物館の一角に1965年に完成した「死海文書」展示専用の「聖書の殿堂(The Shrine of The Book)」である。この展示館は大きな池に囲まれ、死海北岸のクムランという所から出土した死海文書の入っていた壷の蓋をかたどったユニークな形のドームが見ものである。そのいわれを知らないと、純白の巨大な乳房を天に向かって寝かせたような妖麗な姿に見える。その地下が広大な洞窟のようになっていて、ケースに近づくとごく短時間だけ点燈するという展示品保護の仕掛けのせいで全体は暗く、幻想的な雰囲気が漂っている。

 この「死海文書」は、イスラエル国家建設直前の1947年のある晴れた日、はぐれた子羊を求めてクムランの渓谷を探しまわっていた牧童が洞窟に迷い込み、思いがけずも発見した数個の壷の中に入っていたもので、考古学史上、20世紀最大の発見とされている。その後の発掘分も加えて、死海北岸で発見された古文書の総数は400点を超え、うち旧約聖書の写本が100点を数える。これらの史上最古の聖書写本や行政上の文書の多くは羊皮紙に、一部はパピルスにヘブライ語で書かれており、恐らくはイエス・キリストが安息日にナザレへ行って聖書を朗読した時に手にしていた福音書もこれと同じものであったろう。

 この「死海文書」は紀元前2世紀から紀元1世紀の間にクムランを根拠地としたユダヤ教エッセネ派集団の手で書かれたもので、その中にはヘブライ語で書かれた全長7米に及ぶ旧約聖書のイザヤ書全テキストの巻物もあった。旧約聖書にはその時点からさらに1,000年以上昔に遡った頃からのユダヤ人の信仰上の伝承が記録されている。この発見が重要視される最大の理由は、この発見まではヘブライ語で書かれた旧約聖書は紀元916年のものが最古とされており、それが一挙に千年も遡ったことにある。ユダヤ人は紀元1世紀にローマ軍に追われてイスラエルの地を捨て四方へ離散したので、西欧に伝わって残った聖書はすべてギリシャ語に翻訳されていたのである。

 さらに学者の注目を集めたのは、この1,000年の空白にもかかわらず、両者の原文はほぼ完全に一致していた点にあった。イザヤ書の場合、巻数も66章、文章も現在のものと変わらないというのは、まさに驚嘆すべき事実である。現在、イスラエルで使われているヘブライ語はユダヤ人が離散した2,000年前の言葉とほとんど変わっていないそうであるから、彼らにとってはむしろ当然のことで驚くに値しないことかも知れない。しかし、今から千年前の古英語はほとんどドイツ語に近く、現在の英国人には全く判読できないといった変容振りと対比すると、やはり驚きではなかろうか。

 ところで、日本語はどうなのかとかねて疑問に思っていたが、文藝春秋11月号に掲載された江藤淳の未発表講演「こころとことば」によれば、西の旧約聖書に匹敵するといわれる西暦712年に完成した「古事記」や万葉集の文章はすべて大和言葉で書かれており、われわれが今使っている日本語といささかも変わっていないと断言されている。8世紀当時の日本にはまだ仮名文字が存在しなかったので、一定の取極めで日本語の発音に漢字を当て嵌めただけで、これを仮名書きに戻せば誰でも意味はほぼ理解できるそうだ。したがって、日本語は少なくとも1,200年、おそらくは2,000年位は同一性を持続しており、われわれは非常に恵まれた言語体験をしてきたと結論づけられている。

 この話と死海文書からの新発見は2,000年の長期にわたり同一性を持続してきたという、まさにこの点においてヘブライ語と日本語は共通しているのではないかというのが私の推論である。言語だけではなく、生活習慣などの面でもユダヤ人も日本人もどちらも民族のアイデンティティーをことさらに重視し、周囲からは排他的と非難されてきた。その結果、たとえばロンドンでもJ-Jタウンとまでいわれるように、ユダヤ人と日本人は同一地域に住んで、金融界などでの付合いも深く、お互いに近親感を覚えるのもむべなるかなと改めて思い起している。

(個人会員、広島国際大学教授)

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 (2000年2月17日,日本証券経済倶楽部機関誌「しょうけんくらぶ」10-11頁所収)

 

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