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天空の桃源郷・ブータン王国紀行  岡部 陽二

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   日本工業倶楽部旅行部企画の海外ツアーが今年は「天空の桃源郷・ブータン王国・7日間の旅」と決まったので、またとない機会と思い、参加した。

メンバーは世話人の青木大祐さんが体調を崩されて参加できず、鳥羽董さん、数土直方さんご夫妻と私に添乗員の藤崎さん、それに現地ガイドのカルゲさんというこじんまりしたグループとなった。幸福の国、ブータンに相応しい和やかな旅で、この国の自然と歴史・人情をゆったりと満喫できた。

私自身がブータンへの旅を夢見たのは、25年ほど前に100カ国以上に旅をしたことのある者だけに入会が認められるセンチュリー・クラブのメンバーになった時であった。このクラブに入ると、エキゾティックな国や地方への旅を企画したり紹介したりしてくれたが、その最たる国がブータンであった。ブータンに国際空港が完成したのは、1983年のことであり、それまでは鎖国状態にあったからである。

201111月には、ブータン新国王夫妻の来日もあり、その知名度は急速に高まったものの、まだまだ知られざる国であるので、見聞記の前に同国の概要を紹介したい。

 

ブータン王国という国 

ブータンは大ヒマラヤ山脈東端近くの南斜面に、インドと中国に挟まれて位置する小さな王国である。北は中国のチベット自治区に接し、東西および南はインドの四州に囲まれている。面積は約4.7万平方キロ米で、九州よりやや大きく、形は四国のように東西に長い。人口は約70万人であるから人口密度は1平方キロ米当たり15人ときわめて低い(日本は343人)。国土の72%は森林で、農耕地は8%しかない。

この地域が一つの文化圏を形成したのは、「ラマ教」の名で知られているチベット仏教によってである。この仏教は、小乗から大乗、顕教から密教へと変遷した仏教の長い流れの中で最も後期のヴァジュラヤーナ(金剛乗)と呼ばれる高度に密教化した大乗仏教で、その信仰体系はアジアの他の地域・民族に伝播した仏教とははっきり区別できる。古典チベット文字で記されている厖大な経典がこの地域に統一性をもたらし、その住民たちに連帯意識を育む要因となったものとされている。ラマ教では、墓も位牌もなく、寺院に五重塔や鐘楼もないのが特徴である。

このチベット仏教の伝播は7世紀前半に始まり、8世紀後半にインドの高僧グル・リンポチェによる本格的な布教で浸透した。パロのタクツアン僧院、ブムタンのクシェ・ラカンなどはグル・リンポチェが布教した軌跡を伝える聖地とされている。もっとも、当初は多くの宗派が群雄割拠の状態で国としてのまとまりはなかった。現在のブータン全域がようやく国として統一されたのは17世紀前半で、チベット仏教の一派であるドゥク派の大僧正・シャブドゥンが「ドゥク・ユル(雷龍の国)」を宣言して以来である。

「ブータン」という国名は、インドから見てブータンが高所にあることから、「高い」を意味するヒンズー語に由来する表現で、これが英語化したものであるが、ブータン国内では「ドゥク(Druk)が正式の国名として使われている。国営航空会社の名称はDrukAirである。因みに、“Bhutan”の英語としての発音は「ブターン」である。

この仏教国の中央集権は2世紀あまりで崩れ、地方領主が南のインド領へ侵入して、インドの植民地化を進めていた英国軍と衝突、1864年には全面戦争に発展した。その結果結ばれたシンチュラ条約で、ブータンはインド平原部の領土を放棄する一方で、英国から毎年一定額の補償金を受け取ることとなった。この関係は、その後英国と入れ替わったインドから全面支援を受ける現在の両国関係に引き継がれている。

この戦争は仏僧中心政府の指導力の欠如をさらし、中央ブータンの支配者であったウギェン・ワンチュック(18621926)が1907年に初代国王に選出され、世襲制のブータン王国が発足した。王国となった後もドゥク派が国教であることには変わりはなく、現在でも宗教面での最高権威は大僧正(ジェ・ケンポ)にあり、国王の権威は政治面に限られている。現在の国王は200612月に即位した第5代ジクメ・ケサル・ナムギェル・ワンチュック(1980~)である。

20世紀に入り、他の多くのアジア諸国と同じく、チベット文化圏の諸民族は政治・経済・杜会面で大きな変貌を余儀なくされた。諸民族は次々に政治的独立を失い、19593月にはチベットを統治していた聖俗両面の最高指導者ダライラマ14世がインドに亡命するという悲劇的な事態に至った。1975年には西隣のシッキム王国が、流入したネパール人が多数となった結果として、インドに併合された。また、ネパールも2008年に王制を廃して共和国となり、宗教的にもヒンズー教が優勢となっている。こうした状況の中で、政治的独立を守り抜き、社会的・経済的にも外部からの影響に押し流されることなく今に至っている唯一の例外がチベット文化圏最後の砦・ブータン王国である。

日本とブータンとの間には1986年に国交が樹立されて以降、政府・民間レベルで友好関係が保たれ、相互理解が深まりつつある。とは言っても、日本を訪れるブータン人は年間数十人であり、逆にブータンを訪れる日本人観光客も数千人にしか達していない。日本にとって、ブータンはまだまだ馴染みが薄く、遠い国である。

 

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  ブータンはヒマラヤ山塊の中の山国といったイメージから、気候は総じて日本よりも寒いと思われているが、そうではない。高度は平均すると2,000米と高いが、奄美群島とほぼ同緯度の北緯27度から28度の間に位置し、本来亜熱帯に属する。低緯度と高度が絡み合って、標高2,100米の首都ティンプーの四季を通じての気温は、ちょうど長野と同じくらいである。標高1,350米の旧都プナカでは真冬でも雪は降らない。要するに、標高7,000米を超え万年雪に閉ざされているところが全体の3%弱ある一方で、海抜100米ほどの密林もあるという変化に富んだ国土である。

この高低差の甚だしい林野に生育する動植物種が豊かなことから、典型的な生物多様性の国として世界から注目されている。開国に踏み切った当初はこの豊かな森林資源の輸出も考えたが、初期段階で近隣諸国が犯した森林伐採の過ちを反面教師として抜本的に政策を転換し、「国土に占める森林の割合が60%を下廻らないこと」と定めて、保護政策に転じた。「ヒマラヤが聳え、雨雪が降り、森林が茂るかぎり、わが国は安泰であり、政府はそうあるように努める」と述べた第4代ワンチュック国王の言葉がブータンの確たる方針を内外に示している。2006年には、毎年世界の指導者の中で環境保護にもっとも大きな貢献をした人に与えられる世界自然保護基金(WWF)のポール・ゲティ賞がブータン国王に授与された。

近年ブータンが国際的に注目されるようになったのは、1976年に当時21歳の第4代のワンチュック国王が演説の中で提唱し、治世を通じて一貫して主張してきたGNHGross National Happiness、国民総幸福)というユニークな理念によってである。国王によれば、新興国がGDP(国内総生産)といった指標に引きずられて経済発展を追求するあまり、伝統的な文化や伝統が失われるのは最も悲しむべきことである。

GNHは、①健全な経済成長と開発、②環境保全と持続的な資源の利用、③文化の保護と振興、④よい統治の4つの柱を基本指針として、これに沿った具体的な施策が打ち出されるようになっている。GHNの立脚点は、人間は物質的な富だけでは幸福になれず、充足感も満足感も得られない。したがって、経済的な発展や近代化は不可避ではあるものの、それが人々の生活の質や伝統的価値を犠牲にするものであってはならないという信念である。その意義は、先進国が文化や伝統の荒廃や自然破壊を顧みることなく産業開発を進めてきた結果、近年になって反省し始めていることを、開発に着手したばかりの小国が30年以上も前に国策として打ち出したところにある。この考え方は経済発展の新しい哲学として注目され、世界中で市民権を得つつある。

GNHに基づく施策の具体例としては、次のようなものが旅行中に目に付き、いずれも実効を挙げている。

①さきに紹介した森林比率60%の堅持、そのために国土の35%を国立公園に指定し、動植物の保護が図られている。ブータンはまさに公園の中に国があるといった観である。

②ブータン最大の産業である水力発電の増強に当っても、大きなダムは建設せず、水流を直接流し込む方式を主体として、小規模発電所を多数建設している。

2004年にはタバコの国内販売を一切禁止し、海外からの個人の持ち込みには関税200%を賦課、屋外での喫煙を禁止して、世界初の全面禁煙国家となった。

7,000米級の高山への登山の禁止。霊峰は信仰の対象として不可侵であるからとの説明もあるが、これは間違いである。現に一時は解禁されて日本からも登山隊が殺到した。ところが、ブータンにはシェルパが居ないので、農民が高報酬で雇われたため、農繁期と重なる登山は止めさせてほしいとの苦情が農民から出た。そこで、国策として、登山を全面禁止することに踏み切ったものである。ヒマラヤ・トレッキングは自由で、盛んである。

⑤公務員や学生、公の場での民族衣装の着用や建築物などへの伝統的デザイン採用の義務化。観光立国に相応しい施策である。

  ブータンが提唱したGNHの定義を基に、英国のレスター大学の心理学者・エイドリアン・ホワイト教授は世界178カ国を対象に世界幸福地図(World map of happiness)を作成した。幸福度は、経済指標からではなく、アンケートによる健康、富、教育などに関する満足度から測定されている。この2006年度版によると、1位にデンマーク、2位にスイス、3位にオーストラリアと並んだのち、ブータンは8位にランクされており、アジアでは最上位である。日本はちょうど中ほどの90位、米国は23位となっている。

  ブータンは「GDPよりもGNH」を国是としているものの、実質GDPも近年急速に伸びている。2012年まで過去10年間の実質GDP伸長率は8.4%であったが、2010年は11.8%と二桁成長、本年も同程度と予測されている。最大の産業は水力発電を中心とするエネルギーで、GDP20%を占め、次いで農業・林業18%、建設業12%、観光産業9%となっている。一人当りGDP(購買力平価換算)6,000ドル(2009年)とインドのほぼ2倍である。

  電力は総発電量15億キロワット・アワー(2009年推定)のうち、国内消費は2億キロ弱に過ぎず、85%をインドへ輸出している。数年内には発電量を7倍に増やす計画で発電所建設工事が進められており、きわめて将来有望な産業である。ただ、産業の電力への一局集中は好ましくない。また、インドが建設費をブータンに貸付けて発電所を建設し、そこで作られた電気をインドに送電して、建設費の返済しながら発電所を運営する方式であるため、インドへの経済的依存度が高まり過ぎることも問題視されている。地場通貨ヌルタムも固定相場で、インド・ルピーと連動している。

  国家財政の実態は分からないが、年間の歳出7億ドル(2011年推計)の過半はインドを初めとする外国からの援助で賄っており、税収は僅かである。一方で、インフラ整備の公共投資はもとより、教育費と医療費は原則としてすべて公費負担となっているので、健全な国家財政とは言えない。

1999年には、それまで規制されていたテレビとインターネットが同時に国民に開放された。その結果、外国の文化や情報が自由に手に入るようになって、国民の消費意欲に火がついた。テレビはすでにほぼ全所帯に行きわたり、町の若者は携帯電話だけではなく、スマホやアイポッドを使いこなしている。一方、一般国民の収入は自動車やスマホを買えるだけの所得水準には達していないので、割賦販売や銀行からのローンで賄われ、個人の負債が急速に増えているものと思われる。住宅の建設ブームと併せ、ブータン経済は今やバブルの絶頂に近付いているのではなかろうか。

観光開発の面では、高付加価値型の観光誘致を目指して、高級ホテルの整備が進んでいる。1人1日当たり200ドル以上使うツアーしか認められておらず、外国人には必ず民族衣装でのガイドを付けることが義務付けられている。航空運賃も国営航空の独占で高く、土産物の値段や博物館の入場料なども外国人向けは数倍高く設定されている。

 

ブータン見聞記 

105日(金)、日本を出発、バンコクで一泊して、106日(土)の早朝7時にパロ空港に到着した。ブータンへは同国国営航空・ドゥクエアしか就航しておらず、しかもバンコク経由で行けるようになったのは2008年とごく最近のことである。

パロ空港へ着陸の直前には、はるか西方のシッキム・ヒマラヤに聳え立つ世界第3位の高峰カンチェンジュンガの主峰(8,586米)の真っ白な頂が朝日に映えてくっきりと見え、ヒマラヤ山塊に入ったことを実感した。

パロ空港から首都ティンプーまでは65キロ、ホテルまで1時間半ほどの間、交通信号は一つもない。車は結構多く、渋滞しているにもかかわらず、市内に入っても信号機は皆無、車と人に加えて、路上には野良犬が寝そべり、牛や馬の大群が道路を闊歩している。明治時代初期の日本に近い光景に自動車がどっと押し寄せてきた感じである。町に近づくと、至るところで住宅やビルの建設が進んでおり、まさに建築ラッシュである。

 

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この日は、終日ティンプーの市内観光。最初に訪れた町の最北部に位置する「タシチョ・ゾン」は、「祝福された宗教の砦」を意味し、17世紀に建てられた全長150米、4階建ての巨大な木造建築と寺院を中心とする城壁を兼ねた建造物である。その荘厳さと規模の大きさに圧倒される。現王朝が1907年に発足するまではラマ教ドゥク派の大本山であったが、現在は国王の執務室や政府の主要官庁として使われ、ブータン政府の中心となっている。国会も以前はこの中にあったが、1994年に川を隔てた対岸に国会議事堂が建設された。王宮もその隣にあるが、きわめて質素な宮殿である。ゾンはブータン国内の20県すべてにあって、地方の行政府が入っている。

このタシチョ・ゾンでは、ブータン人にはカムニという伝統衣装の正装が義務付けられており、観光客にもラフな服装は許されず、帽子は不可、雨が降っても傘を差してはいけない。猛暑や雨季の観光は大変である。

次に訪れた「ドゥプトプ尼僧院」は14世紀にこの地に鉄の橋を伝えたことで有名な高僧が建てた方形の木堂で、巨大なマニ車が目を引いた。マニ車は円筒形で垂直の軸を中心に回転する。側面には讃歌、呪文などが刻まれており、内部にはロール状の経文が納められている。大きさは様々で、人の背丈より大きなものから寺院の壁に並べられている手に持てる程度のものもある。マニ車を右回り(時計回り)に回転させると、回転させた数だけ経文を唱えるのと同じ功徳があるとされている。

市街の南に聳える純白の塔は、1974年に完成した第3代国王を称える「メモリアル・チョルテン」と呼ばれる仏塔である。墓でも廟でもないが、人々の信仰の対象となっており、朝から晩までこの塔の周囲を巡る老若男女の群れが跡を絶えない。両膝・両肘・額を地につける五体投地の礼拝を繰り返す人も多い。ガイドのカルゲ君も敬虔な信者で、行く先々でマニ車を廻し、五体投地の礼拝をするのに忙しい。町で見かけるブータン人の風貌は、日本人とほとんど変わらず、総じて人懐っこく、親しみが持てる。

 

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見晴らしのよい高台に建てられた5階建ての国立総合病院は、500床を擁する近代的な病院である。医師は約60名で、外国からのボランティアで支えられている。土曜日にもかかわらず、大勢の外来患者で混み合っていた。診療はすべて無料で、患者の希望によって西洋医療でも伝統医療でも受けられる。

最後に訪ねた「ロイヤル・ティンプー・カレッジ」は2009年に創設されたばかりの私立大学で、学生数約1,000人、経済・法律・環境などの人文系中心で、3年制。6カ国から教授を招聘し、授業はすべて英語で行われている。町から6キロほど離れた山の中に瀟洒で近代的なビル群と体育館や600人収容の宿舎棟が整備されている。これまでブータンには大学は一校もなく、インドの大学などへの留学しか進学の道がなかったが、3年前に国立大学2校が国の東西に開設され、首都ティンプーの近くにはこの私立大学ができて、一挙に4,000人ほどの大学生が誕生した。ブータンは人口70万人のうち59%(2007)25歳以下で占められている若い国であるから、この勢いで教育投資が進めば、数年後には見違えるような知性豊な国になるものと期待される。

ブータンの国語はゾンカ語と呼ばれるチベット・ヒマラヤ語系に属する言語であるが、国語以外の教科は小学校からすべて英語で教えられており、ほとんどの国民が英語に堪能である。

 

107日(日)、ティンプーの東方75キロ米に位置し、1955年にティンプーが通年の首都になるまで、300年余りの間、冬の首都であったプナカを日帰りで訪ねた。プナカは標高1,350米と低地にあり、ティンプーとの高度差が1,000米ほどあるうえ、途中で標高3,150米のドチュ・ラ峠を越える。

この高度差に加え、道路のほとんどは片側がガードレールもない千尋の谷となっている急カーブ続きである。舗装されていない箇所も多く、凹凸の激しいがたがた道で、片道3時間半を要し、この間、胃の腑がひっくり返る思いであった。ブータンでは、山には精霊が宿っているとの信仰から、トンネルの掘削が禁止されている。これも曲がりくねった山道が延々と続く一因となっている。

ドチュ・ラ峠の展望台からは、遥か北方にブータンの最高峰ガンカ・ブンスム(標高7,570米)が遠望できるが、あいにくその辺りだけに雲がかかっており、微かに垣間見ただけであった。立ちはだかる山々は力強く、空気は澄み切っていて、空が近くに見える。

峠の近くには、2004年に108基の仏塔が建立され、公園のように整備されている。この仏塔は、2003年末にインドからブータン南部の密林地帯に拠点を移してきたアッサム独立派のゲリラ部隊を、国王自らが指揮したブータン軍が短期間で一掃した戦勝を記念して王族の一人が寄進したものである。ブータンが外敵と戦ったのは、19世紀末のイギリス軍との戦闘以来1世紀余ぶりのことであった。

プナカでの見所は「プナカ・ゾン」だけである。このゾンはポ・チュ(父川)とモ・チュ(母川)が合流してブータン最大の河となる合流地点に17世紀に建てられた砦で、ブータンで最も美しい建造物とされている。初代国王の戴冠式も現国王の結婚式もここで行われた。

モ・チュを渡ってゾンに入る屋根つきの吊り橋は、2008年に伝統様式に復元されたもので、その優美な姿が際立っている。ゾンチョンと呼ばれる寺院も1994年に水害で流されたものを再建したばかりで真新しい。むしろ、中庭いっぱいに枝を拡げている樹齢300年余のインド菩提樹の大木が、ひときわ印象的であった。

 

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108日(月)、午前中にパロへ移動、市街近郊を見物した。まず、空港に近い小高い丘の上に建てられた「西岡チョルテン(仏塔)」へ。西岡京治氏は1964年にJICAの指導員としてブータンへ派遣されて以来、任期の到来ごとに同国政府から滞在延長を懇請されて、結局59歳で亡くなるまで28年間にわたって、同国の農業近代化の指導に取り組んだ。ブータン人を厳しく叱責する一方で、同国のために親身になって尽くした功績が高く評価されて、1980年には国王から同氏に「ダショー」という同国最高位の称号が与えられた。没後には同氏の貢献を顕彰する仏塔がブータン政府の手で建てられ、2010年にはブータン在住の日本人有志によって再整備が行われた。この丘の眼下には、西岡氏の指導で開墾された美しい棚田が拡がり、たわわに実った黄金色の稲穂の刈り取りが始まろうとしていた。

反対側の山の中腹に17世紀に建てられた半円形を組み合わせたような「タ・ゾン(望楼)」からはパロ川の両岸に拡がる市街が見渡せる。今は国立博物館に転用されているが、地震で一部崩壊したため閉鎖中。隣接のギャラリーには、祭事に使う十二支の動物など様々な仮面マスクや民族衣装など、ブータンの伝統工芸品が展示されている。

パロの中心部にある「パロ・ゾン」は長方形に近い城壁の中心部に寺院があり、周りに行政府や裁判所が入居するシンプルな造りである。パロの北西にある峠からは、遥か西方に聳えるブータン第2の高峰チョモラリ(7,314米)がくっきりと望見できた。

 

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午後には、典型的な農家を訪ねて、バター茶を頂いた後、薪火で熱した石で水を温めた「石焼風呂」を体験した。農家と言っても、3階建てで10室ほどあり、立派な仏間もあって結構広い。

パロで二泊した「ジワ・リン・ホテル」は伝統建築の粋を集めた中央部の吹き抜けが豪壮で、その3階には450年前の仏間を復元して設えるなど贅を凝らしている。この本館を囲んで、ブータンらしさにこだわったバンガロー・タイプの宿泊棟が点在している超豪華なリゾートホテルであった。

  ホテルで供される夕食は、ブータン料理とインド料理の選択であった。ブータンの主食は米で、とくに赤米が好まれる。ブータン料理で特筆すべきは、唐辛子とチーズの多用である。すごく辛い唐辛子を香辛料としてではなく野菜として大量に食べる。典型的なブータン料理であるエマ・ダツィは、ピーマン(エマ)とチーズ(ダツィ)を塩とバターで煮込んだものである。

  ブータン人は、あらゆる生き物の存在を尊重し、自らの手でその生命をとめることをできる限り避けようとするため、魚はほとんど食べず、牛や豚の肉は一旦干し物とした堅い肉を好んで食べる。きのこも主要な食材であり、松茸が日本にも輸出されているが、香りは薄くお世辞にも美味とは言えない。
 

109日(火)、パロ北部の山中にあり、ブータンの歴史遺産として最も見応えのある「タクツアン僧院」への日帰り旅行。この僧院は垂直に切り立った標高2,800米の岩山にある。谷底からの高さは700米で、片麻岩でできた屏風のような絶壁にへばりついて建造されている。下から眺めても、到底この僧院に到達する道があるとは思えない断崖である。僧院が建てられたのは17世紀であるが、8世紀からここに熱烈な仏教信仰の対象となる洞窟が存在した。

伝説によると、チベット仏教の開祖で、その布教に専念したと伝えられているグル・リンポチェという菩薩が、8世紀に虎の背中に乗って西インドからこの岩山に飛んできた。爾来、この岩山のてっぺん近くにある洞窟がタクツアン(虎のねぐら)と呼ばれる仏教の聖地として崇められてきた。

ホテルから山麓までは車で20分ほど、そこから先は岩肌むき出しのごつごつした峻険な山道を騾馬の背に跨って登る。真正面に僧院を観望できる展望台までの騾馬登山は、途中の小休止を入れて約2時間かかった。騾馬はきつい勾配の山道の谷側を好んで歩くので、振り落とされないように鞍にしがみついているだけでも大変である。

この展望台から僧院までは、屏風岩に沿って崖淵を迂回するために、一旦100米ほど下って滝の下の渓流を渡ってから再度登るように約800段の階段が造られている。観光客の半数以上はこの岩の階段往復を断念して、展望台から引き返している。

勇気を奮って辿り着いた僧院には、グル・リンポチェやその八変化相の像などが祀られている。彼は北インドのウディヤナ王国(現在のパキスタン・スワート地方)で湖に浮かぶ蓮華から生まれ、「蓮華から生まれた」という意味のパドマサムババの名も持つ。お釈迦様の生まれ変わりで「第2のブッダ」とも言われるほど圧倒的な神通力を持った密教行者であった。

この僧院の一部が1998年の火災で焼失した際に、神戸ブータン友好協会が寄贈した日本の釣鐘も使われている。これは阪神淡路大震災時にブータンから頂いたお見舞いのお返しとして贈られた由。

展望台で昼食をとった後、帰途は騾馬で登った同じ道を今度は杖を頼りに滑らないように一歩一歩踏みしめながら降りたので、空気が薄いこともあって息切れがして足が棒になった。タクツアン僧院への往復がこれほどタフな難コースとは事前には予見できなかったものの、ブータンでしか経験のできない思い出として残るスリリングで最も印象的な一日となった。

 

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1010()、午後3時にパロ空港を出発する最終日。ホテルから空港への途次にある7世紀に建てられたブータン最古の寺院「キチュ・ラカン」に立ち寄る。ちょうど、毎月10日に行なわれる法要の最中であった。伝説によれば、チベットを初めて統一したソンツェン・ガンポ王は、それまでチベット全域で大きな力を持っていた魔女を封じ込めるために、その体の108のツボに当るところに寺院を建立した。キチュ・ラカンはその一つで、魔女の左足を封じる場所にあったと言われている。

さすがに古いお寺で、本堂の本尊は釈迦如来を中心に複数の十一面千手観音が安置され、床には珊瑚やトルコ石などが埋め込まれている。五体投地の礼拝で額などが繰り返し触れた結果、この堅い床の一部が滑々になって大きな窪みができている。ブータン人の日常生活の中心となっている信仰心の強さには恐れ入るしかない。

隣接して建てられた第3代国王の妃が寄進した新しい堂宇には、目を見開き、髑髏の杖を持ち、立派なヒゲを生やしたグル・リンポチェの大きな像が中央に鎮座する。グル・リンポチェはブータン中どこのお寺でも釈迦如来と並ぶ人気で、この国の紙幣にも描かれている。

前日の夜には大雨が降り、この日も小雨がそぼ降っていた。ブータン・ツアーではビザを取得する段階で細かい日程まで決められていて、臨機の日程変更はできない。もし全日程が1日後にずれ込んでおれば、昨日のタクツアン僧院往復の雨天決行はわれわれ老人には無理であったろう。前日までずっと好天に恵まれた仏陀のご加護に感謝して、ブータンを後にした。

 

(元住友銀行専務取締役、元広島国際大学教授)

 

2013120日、社団法人・日本工業倶楽部発行、「会報」243号 p60~74所収

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