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「琵琶湖周航の歌」生誕百周年

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    1、われは湖の子 さすらいの
      旅にしあれば しみじみと
      昇る狭霧や さざなみの
      志賀の都よ いざさらば

 京大ボート部やヨット部で歌い継がれてきた旧制三高寮歌「琵琶湖周航の歌」生誕100周年を記念した歌碑が、かつて三高校舎のあった京大吉田キャンパスに建立された。この記念歌碑の除幕式が昨年11月25日に挙行され、ヨット部OBとして参加した。

 式典には200人を超える関係者が集まり、除幕の後には碑を囲んでボート部OB・大杉耕一君の指揮で全員が肩を組んで周航歌を大合唱した。午後にはこの歌のヒットで有名な加藤登紀子さんを招いてのトークショーをはじめ盛沢山な記念行事が行われた。

 歌碑は長さ約1メートル、幅70センチのステンレス製。琵琶湖岸には7か所に周航歌の記念碑が建てられており、作詞者・小口太郎の故郷である諏訪湖畔にも設けられているが、京大講内では初めて。ようやく母校に碑ができた意義には感慨深いものがある。

 「琵琶湖周航の歌」は1917年(大正6年)6月に三高水上部(後のボート部)員であった小口太郎(おぐち・たろう、1897~1924年)が琵琶湖周遊の途中に作詞し、今津(滋賀県高島市)の宿でクルーに披露、当時はやっていた「ひつじぐさ」(吉田千秋訳詩、作曲)のメロディーに乗せて歌ったのが始まりである。

 この歌の誕生から100年の節目を記念して、昨年には京大ボート部OB・OG約200名が6月に4日間を掛けて周航した「なぞり周航」や「琵琶湖音楽祭」の創設など数多くの記念行事が琵琶湖を中心に催された。京大でのこの記念碑除幕関連の催しは100周年記念の掉尾を飾るものとなった。


わが青春の琵琶湖周航と小口太郎

 私は1953年、大学入学と同時にヨット部に入り、冬場を除いて毎月1週間は大津の北西にある三井寺近くの合宿所で寝泊まりして柳ヶ崎にある艇庫から出航、終日レースや練習に励んだ。残念ながら、2年後に肋膜に罹って退部を余儀なくされたので、1954年の8月上旬に5泊の日程で廻った琵琶湖周航がヨット部の卒業旅行となった。


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 この年の琵琶湖周航は6日を費やして、時計回りに琵琶湖を一周した。一人乗りのディンギーと二人乗りのスナイプそれぞれ数隻に総勢20人ほどが分乗、大津の柳ヶ崎の艇庫を出発して、雄松(近江舞子)、今津、長浜、彦根、長命寺で一泊した。今津から長浜へは直行せず、国宝に指定されている竹生島神社に参詣、さらに琵琶湖最北端の港町・塩津にも立ち寄った。

 ヨットは風次第ながら、結構スピードが出るので、南北の直線距離では64キロに過ぎない琵琶湖を6日掛けて廻るのは、きわめてゆっくりの旅であった。午前中に目的地へ着き、午後は練習や湖岸でのキャンプを楽しむことができた。 

     2、松は緑に 砂白き
       雄松が里の 乙女子は
       赤い椿の 森陰に
       はかない恋に 泣くとかや

 初日にキャンプを張った雄松は、湖水浴の適した白砂の砂浜が拡がる「近江舞子」として知られている。浜辺から少し入ったところに「内湖」と呼ばれている大きな池があり、そこには周航歌の元歌の題名である「ひつじぐさ(睡蓮)」が群生している。2番の歌詞に相応しいロマンティックな景勝地であった。

 翌日一泊した今津は小口太郎が周航歌をはじめて披露した地とされており、1998年にはこれを記念した資料館が高島市立で設立された。舟木一夫、小林旭、加藤登紀子など多くの歌手や演奏家による周航歌全22曲を自由に聴けるコーナーにとりわけ人気がある。

 小口太郎は長野県岡谷市で生まれ、諏訪中学から三高を経て、東大理学部物理学科を卒業後、同大学航空研究所に入所、大学在学中に電信電話に関する発明で外国特許まで取得した科学者であったが、26歳で夭折した。

「琵琶湖周航の歌」のロマン

    3、波のまにまに 漂えば
      赤い泊火 なつかしみ
      行方定めぬ 浪枕
      今日は今津か 長浜か

 周航歌の歌詞には難しい言葉ななく、何となく分かったような気分で誰もが口ずさんでいる。だが、たとえば3番の泊火(とまりび)は広辞苑などの辞書にも載っておらず、どんなものか見た人もいない。

 研究者によれば、大正時代には現在のJR湖西線もなく、今津へは大津からの定期船が唯一の交通機関であった。この汽船の発着のために設けられた桟橋の突端に建てられた木柱の上に四角い行燈型の標識灯が取り付けられていた。沖に面した側は赤く塗られ、桟橋側は透明な硝子になっていたそうである。桟橋には船が泊まるところから、桟橋の灯を漁火(いさりび)の連想で、泊火という新語を小口太郎が造ったものと思われる。
 
 4番の「瑠璃の花園 珊瑚の宮」は竹生島の宝厳寺に伝わる竜宮伝説に出てくる湖底にあるとされる幻の極楽浄土である。また、6番の「西国十番 長命寺」は、武内宿禰が長寿を祈願した結果,300歳の長寿を保った伝えられる西国33か所巡りの31番の札所である。小口太郎は誤りを承知の上、31番では「語呂が悪いから、詩にならない」と割り切って10番に固執した。

 歌は字句に拘って解釈するのではなく、曲を含めて全体から受ける感じが独特の雰囲気を醸し出しているところにそのよさがあり、長く歌い継がれた要因となったものであろう。


作曲者;吉田千秋の人物像解明の快挙

 われわれが琵琶湖周航で歌っていた当時の寮歌集の楽譜には「作詞・作曲:小口太郎」と記されていた。もっとも、小口太郎に作曲の才があったとは思われず、専門家の間では作曲者は謎とされていた。

 この謎の解明に向けて何人かの研究者が努力を重ねて来られた。中でも1974年から5年間NHK大津支局に勤務された元アナウンサー・飯田忠義氏の取材活動が実って、1979年には「作曲者;吉田千秋」と作曲者名が特定された。

 さらに、1993年(平成5年)に至って新潟日報に依頼した消息探しが結実、千秋の実家に残されていた資料が多数発見され、ついに作曲者の詳細な人物像が判明した。じつに、この歌の誕生後76年目の出来事であった。この新資料を基に最近十数年間で吉田千秋をテーマにした研究書がすでに何冊か刊行されている。

 吉田千秋は早稲田大学教授であった歴史地理学者の吉田東伍の次男として1895年に新潟県旧新津市の大鹿で生まれた。東京に出て中学に入学したが、この頃から肺結核が悪化し始めた。東京農業大学予科に入学、最年少で成績も抜群であったものの、病状は回復せず2年で退学、茅ヶ崎南湖院で療養を続け、24歳で夭折した。小口太郎とほぼ同時期に活躍したが、二人はお互いに知り合うことはなかった。

 この間、千秋は神田の古書街で洋書を求め、英語はもとよりフランス語、ドイツ語、ラテン語などを習得、ドイツ語の本で音楽を独習した。父が買い与えた高価な蓄音機を駆使して聞き覚えた曲を採譜し、自らもピアノやバイオリンを演奏していた。キリスト教思想に傾倒し、讃美歌を蒐集、聖書も外国語で読んでいたという。また、彼は熱心なローマ字国字化論者であった。

 音楽雑誌にも頻繁に投稿、「ひつじぐさ」の訳詩は、まず1913年に「ROMAJI」誌9月号に「Hitsuji-Gusa」として発表された。作曲はその2年後の「音楽界」8月号に混成4部合唱曲として掲載されて、愛好家の間で歌われるようになった。
 原曲の"Water Lilies"は英国の文部省唱歌で、作詞・作曲者の実名は詳らかでない。ひつじぐさは睡蓮の和名である。

   Water-Lilies            ひつじぐさ(吉田千秋訳)

   Misty Moonlight,faintly falling   おぼろ月夜の月明り
   O'er the lake at even tide,      かすかに湖水の面(おも)に落ち、
  Shows a thousand gleaming lilies  さざなみに浮かぶ数知らぬ
   On the rippling water wide      ひつじぐさをぞ照らすなる。

1番の訳を掲げたが、この歌はすでに明治43年に石川林四郎訳で「英語青年」誌に発表されている。

 
  睡蓮(石川林四郎訳)

  霞める月の淡く射す  夕べ湖上に白ばみて
  千百の花を見するかな 漣(さざなみ)うてる水広く

 この二つの訳を対比して見ると、元の英詩が同じとは思えない。題名を「睡蓮」ではなく、和名の「ひつじぐさ」とした吉田千秋の工夫は意表を突いており、全体に平明で、翻訳というより千秋の創作に近い。
 一方、メロディーの方は"Water-Lilies"の原曲そのままであり、作曲といより、「合唱曲としての編曲」とすべきところである。

 ただ、この原曲のゆったりとした6拍子の持つ抒情性や一種の哀愁の雰囲気が日本人の好みに合うことを、千秋は直感的に気づいていたのではなかろうか。

 「琵琶湖周航の歌」も「ひつじぐさ」同様に湖に揺蕩う情景を詠んだものであり、このメロディーがぴったりと合ったのも不思議ではない。

 このように「ひつじぐさ」は英国唱歌の翻訳そのものであったが、小口太郎が作詞した周航歌をこのように外国の曲に乗せて歌ったのは、まさに替え歌であった。

 このように外国の優れた歌曲をそのまま採り入れる曲譜の模倣は、当時は著作権など格別の問題もなく、広く許容されていた。現に「蛍の光」や「庭の千草」など名曲のメロディーの多くは輸入品であった。

周航歌に加えられたわが友・筆谷尚弘君作詞・作曲歌

 ヨット部同期で5年前に亡くなるまで親しくしていた親分肌の筆谷尚弘君は、小口太郎と吉田千秋を合わせたような異才の持ち主であった。

 彼は周航歌だけでは飽き足らず、「別れの歌」と題したテンポが速く、心沸き立つ歌を自ら作詞・作曲して、ウクレレに合わせて歌ってくれた。彼はヨット競技を続けるために1年留年したが、それでもヨット部を去り難く、その感傷を糧としてこのヨット部との「別れの歌」を作ったのである。

 この歌も55年にわたってヨット部で歌い続けられているので、貴重な余談としての披露をお赦しいただきたい。

    別れの歌 (ヨット部愛唱歌)
         S32年卒筆谷尚弘君 作詞作曲

    1、四年の冬の めぐり来て
      潮に風に たわむれし

    2、勝ちて 杯酌み交わし
      流れる水に 船浮かべ

    3、海の彼方は 海なれば
      されど思いは 海越えて

      ああ我 友と別れゆく
      すごせし良き日 遠き夢
      敗れて 泣きし友なれば
      去り行く心 詫びしけれ
      また会うことも いつの日か
      水に結ぱん 汝と我
      水に結ばん 汝と我

 彼は昭和33年に卒業して三菱商事に入社したが、サラリーマンに見切りをつけて退職、昭和40年には「ISS」という通訳・翻訳のサービス会社の起業に参画してすぐに社長となり、20年後には業界最大手に成長させた。

 「語れわが友、熱き心」とともに放歌高吟していた若き日の友を偲びつつ、筆を擱きたい。

(2018年4月25日発行、日本工業倶楽部「会誌」第264号、p48~54所収)










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