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世界の三大湖

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 本誌でご披露した「世界の三大峡谷」「世界の三大奇岩」とホームページに収載している三大瀑布(ヴィクトリア、イグアス、ナイヤガラ)、三大洞窟(ホンニャ、ディア・ケーブ、カールスバッド)に続いて、今回は「世界の三大湖」として、チチカカ湖、死海、琵琶湖をご紹介したい。選定のポイントはスケールの大きさではなく、筆者の独断に基づくが、奇しくも標高が世界最高と最低の湖、それに日本最大の湖ということになった。

 不思議なことに湖が世界遺産に登録されている例は意外に少ない。世界自然遺産には200か所余りが選定されているが、湖は欧州・中東や北米・南米には一つもなく、アジアではバイカル湖(ロシア)と九塞溝・杭州西湖(中国)があり、アフリカ大陸で4ヶ所とオーストラリアに1ヶ所あるだけである。筆者が選んだ三大湖も世界遺産には登録されていない。

 世界遺産の登録基準の一つには「最上級の自然現象、又は、類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する」という視点も明示されてはいるものの、これは主観的な判断に頼らざるを得ないため、実際には生物多様性や絶滅のおそれのある種の生息地などといった客観的な価値を重視して決められているのが実情である。

 観光案内誌「Wondertrip」は「神秘すぎる美しさを誇る世界の絶景湖7選」として、「バイカル湖」(ロシア)、砂漠の中にある珍しい湖「沙湖」(中国)、「ウユニ塩湖」(ボリビア)、「死海」、イチゴミルク色をした「レトバ湖」(セネガル)、ターコイズブルーに輝く「モレーン湖」(カナダ)、満天の星空を望む「テカポ湖」(ニュージランド)を挙げている。ウユニ塩湖は標高3,700米の高地にある広大な塩の固まりで、1~3月の雨季には水が張るものの正確には塩原である。

 バイカル湖は世界で最も古い古代湖で世界の湖の中で最大の水深、最大透明度、最大の淡水貯水量を擁し、ガラパゴス諸島同様に世界屈指の生物多様性を持つが、神秘的な美しさという点ではどうであろうか。筆者は飛行機の上から眺めただけであるが、バイカル湖の西にあるイルクーツク州タイシェットにあった収容所に抑留されていた父は茫漠とした何の変哲もない湖と評していた。

 美しさの観点からは、規模は小さいものの、英国の湖水地方やスイスのレマン湖、北イタリアのコモ湖などが選ばれて然るべきではなかろうか。


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チチカカ湖(Lake Titicaca) 

 ボリビアの首都ラパスを1973年に2回訪れた。最初は金融財政事情研究会が組成した中南米投融資環境調査団の一員として1月下旬に、2回目は融資案件の交渉で7月上旬であった。2回目の往訪時には、たまたま週末にペルーのリマへ移動することとなり、現地の日系商社の方に相談したところ、折角の機会だから、バスでクスコへ移動してマチュピチュ遺跡を観ては、と勧められた。

 ラパスとクスコ間の距離は700キロほど、長距離直行バスで14時間くらいで着くという話であった。朝8時にラパスを出発して昼間はもっぱらチチカカ湖の西岸沿いを走る快適な旅であった。

 紺青の湖とその対岸に聳え立つ6,000米を超えるアンデスの連山を眺めながらのんびりと絶景を楽しんだ。チチカカ湖のマリンブルーと雪を戴いた霊峰、それにくっきりと晴れ渡った青空がとても鮮やかで、まさに幽玄そのものであった。

 ところが、ペルー領内に入り湖を離れてからの道が悪路で、クスコに到着したのは翌日の午前1時になり、結局マチュピチュへは行けなかったのは返す返すも残念であった。

 チチカカ湖はアンデス山中のペルー南部とボリビア西部にまたがる南北に長い淡水湖で、長さ190キロ米、幅80キロ米。湖の中央は、南緯約16度、湖面の標高は3,810米ほどである。汽船などが航行可能な湖として世界最高所に位置する。

 面積は8,300平方キロで、琵琶湖の約12倍、南米大陸最大の湖である。北部の60%がペルー領で、南の40%がボリビア領となっている。湖中にはチチカカ島や、タキーレ島、アマンタニ島、太陽の島など大小41の島々がある。

 赤道に近いものの、高度が高いので、この辺りの気候は年間を通して0度から10度くらいの気温で安定している。淡水湖に分類されているが、水分の蒸発が激しいため塩分濃度1%程度とほんの少し塩からい。湖周辺には60種類の鳥類、14種類の魚類、18種類の両生類が生息しており、中でも重さにして3kgにもなる巨大なカエルが有名である。


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 この湖にはチリとの戦争で海を失い、内陸国となったボリビアの海軍基地がある。1975年に開催された沖縄海洋博では、ボリビアが真っ先に出店を申し込んできて、話題となった。

 バスはペルー領に入ってすぐのプーノという小さな町でしばらく停車した。プーノの近郊にはインカ時代に作られた「シユスタニ遺跡」があり、湖上には500年以上前にティアワナコ帝国とインカ帝国が戦いを繰り広げていた時代に先住民たちが湖に生える葦を利用して作ったウロス(Uros)島という浮島が多数点在して、現在でも観光客を相手に生計を立てている。原住民が標高4,000米という過酷な環境でも独自の文明を築き上げているのは驚きであった。

 高度4,000米という高所では酸素が少ないため血液も酸欠に陥り、記憶ができなくなる。ラパスでの会合ではその場で筆記しておかないと大事な交渉内容をすぐに忘れてしまう事態に驚いた。アルピニストは徐々に高度を上げて馴らしていくので高山病に罹りにくいが、飛行機で降り立って環境が急変すると大変である。ホテルには酸素ボンベが用意されており、そのお世話になる人も多い。


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死海(The Dead Sea)

 死海は三回訪れたが、1988年のクリスマスから新年に掛けてイスラエル一周の旅での体験が印象深かった。ユダヤ教やキリスト教の信者が多いツアーで旧約聖書に出てくる聖地を中心に北はゴラン高原から南は死海の南端までイスラエル中の名所旧跡を隈なく観て廻った。早朝にバスで出発して夜はキブツに泊まって講義を受けるという充実したものであった。

 このツアーで驚いたのは、死海で豪雨に遭遇して日程が丸一日狂ってしまったという滅多にない体験であった。死海周辺の降水量は年間50ミリから100ミリと極端に少なく、湖に注ぐ川は7本しか存在しない。ところが、年に1~2回は短時間に豪雨が降ることがあり、たまたまバスが死海の湖畔を走っていた時にこの豪雨に遭遇したのである。近くには川がなく、土壌が固いので、あっという間にバスの周り一面が水浸しとなり、バスは半日身動きできなかった。

 「死海」の名は塩分濃度が高すぎて生物が生息できないことから名づけられた。現に魚類の生息は確認されていない。ただ、人間にとっては生海とも呼ぶべき湖である。古代からアラビア半島の砂漠地帯から逃れての保養地として愛され、旧約聖書に綴られた伝説と遺跡の地として多くの観光客を呼び寄せている。湖の西側半分がイスラエル領で、東側がヨルダン領となっている。

 死海はエルサレムの東方から南北に長く伸びる塩湖である。エルサレムとの距離は20キロほどであるが、標高差は1,200米もある。湖面は南北78キロ、東西18キロ、面積は1,020平方キロで琵琶湖より3割ほど大きい。

 死海に流れ込む川にはガラリア湖から発しているヨルダン川などがあるが、流れ出る川はない。湖面は海面下398米と、世界で最も低い地点にある。ユダヤ人結束の象徴的な遺跡として聖書にも出てくる小高い丘の上にあるマサダの町からは死海のほぼ全貌が見渡せるが、その標高は海抜ゼロ米である。

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 降水量が少ないので死海の水は減少し続け、湖面は毎年1米のスピードで下がっている。このままでは湖の大部分が数十年で干上がってしまう可能性もあるとも指摘されている。そこで、危機を覚えたイスラエル・ヨルダン・パレスチナの3地域が共同して紅海から死海まで180キロに及ぶパイプラインを敷き、水資源として真水を取り出した後の高濃度の海水を死海へ流すプロジェクトを2013年に立案した。世界銀行から3~4億ドルの融資を得て3~5年かけて完成させる予定であるが、環境問題などもあり、順調には進んでいない。

 湖水の塩分濃度は平均35%と海水の12倍に上る。塩分だけではなく、ミネラル分を多量に含み、美容や健康にもよいので、エステや皮膚病の治療に来る人も多い。水温は温水プールのように温かく、どろどろとしていて重々しい。また、湖底には塩の結晶が層をなしていて、歩くと足の裏が痛い。

 死海の売りは、なんと言っても、湖水に浸かっても沈まないことに尽きる。プールや海では手足を動かしていなければ浮くことはできないが、死海では足が届かない深いところでも大きなゼリーの上に乗っかったように、頭部だけではなくお腹も手足も水面に浮きあがってしまう。浮いた状態で上半身を起こせば、本でも新聞でも読める。

 濃い塩水の中では体が浮くのはまさに「水に物を入れると、物が押しのけた体積の水の重さと同じだけ軽くなる」という「アルキメデスの原理」に因る。死海の水には塩が30%以上入っているので、普通の水よりも重たいから浮くのであって、体重が減るわけではない。水深が深いところでも溺れる心配はないが、体が浮いてしまうので。泳ぐこともほとんどできない。

 死海周辺では、旧約聖書由来の遺跡が数多く発見されている。とりわけ、死海北西岸にあるクムランの洞窟で1947年に発見された「死海文書」の中核は、紀元前2~3世紀の聖書の筆写であり20世紀最大の考古学上の発見とされている。


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琵琶湖

 琵琶湖は滋賀県にある日本最大の湖で、その広さは瀬戸内海の淡路島よりも大きく、湖岸の総延長は約235キロ、湖の最も離れた北端の岸と南端の岸との直線距離は64キロ。竹生島や多景島、近江八景に代表される景勝地に恵まれ、四季折々の豊かな自然美を見せてくれる。

 10万年以上前に起きた地殻変動によりできた古代湖に分類されるが、古代湖は世界でも19ヶ所、日本国内では唯一琵琶湖だけしか存在しない。古代湖では長期にわたり湖の環境が維持されてきたため、生物が独自の進化を遂げ、固有種の生物に満ちている。

 筆者と琵琶湖との関わり合いは大学入学と同時に入ったヨット部でのレースや練習と1954年の8月上旬に5泊の日程で廻った琵琶湖周航の体験に始まり、これに尽きる。

 ヨット部を選んだ動機の一つは、子供のころから乗り物に弱く、電車やバスでも船酔いしたので、これをヨットに馴れて克服できないかと考えたことにある。湖上では風があって船酔いで困ることはなかったものの、夜寝ている間も体がふわふわと浮遊している感じで、結局船酔いの体質を改善することは叶わなかった。

 もう一つは、大学に入ってから正選手になれるスポーツははヨットくらいしかないという判断で、これは当たった。当時は部員の数がヨットの数よりも少なかったので、入った日から他大学との対抗戦に出場できた。後日の話であるが、英国のエドワード・ヒース元首相は現役の首相時代の1971年に英国のヨット・チームを率いてアメリカス・カップに出場している。

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 琵琶湖周航は、一人乗りのディンギーと二人乗りのスナイプそれぞれ数隻で、総勢20人ほど。大津の柳ヶ崎の艇庫を出発して、近江舞子、今津、長浜、彦根、長命寺で一泊した。西岸の今津から東岸の長浜間は、途中で竹生島と最北端の塩津に立ち寄って丸一日を要したが、その他の日は、午前中で移動を済ませ、午後はレースや練習に当てた。夜は湖岸でキャンプファイヤーを囲んで6番まで続く「琵琶湖周航の歌」を歌った。

1、われは湖(うみ)の子 さすらいの
旅にしあれば しみじみと
昇る狭霧(さぎり)や さざなみの
志賀の都よ いざさらば

2、松は緑に 砂白き
雄松(おまつ)が里の 乙女子は
赤い椿の 森陰に
はかない恋に 泣くとかや

 1917年6月に琵琶湖周航に出た三高ボート部クルーの一人、小口太郎が今津の宿で発表したとされる「琵琶湖周航の歌」の歌詞が、当時流行していた「ひつじぐさ」(吉田千秋作曲)のメロディーに乗せて歌われ、三高の寮歌・学生歌となった。1971年には加藤登紀子が歌って大ヒット、全国に広がった。小口は三高から東京帝大理学部、航空研究所に進んだが、26歳で早世した。多才であった作曲者の吉田も24歳で夭折している。

 原曲となった「ひつじぐさ」は英国のE.R.B作詞・作曲の"Water Lilies"(睡蓮)という児童唱歌を吉田千秋が翻訳したものであった。ひつじぐさは睡蓮の和名である。「おぼろ月夜の月明り、かすかに湖水の面に落ち、さざなみに浮かぶ数知らぬ、ひつじぐさをぞ照らすなる」で始まるこの詩も湖をテーマとしており、小口はこの曲の旋律を念頭に置いて周航歌を作詞したものと推察される。

 ボートのレースや練習は通常は波の立たない瀬田川で行われ、琵琶湖へ漕ぎだすことは滅多にないが、ヨット部の活動は琵琶湖の湖上でしかできない。という訳で、周航歌はもっぱらヨット部のために作られたものと感謝している。

 1941年4月には琵琶湖に漕ぎだした四高ボート部のクルー11名が今津沖で突風のため煽られて転覆して全員が死亡するという悲惨な事故が起きている。琵琶湖を吹き抜ける比良おろしと呼ばれる強風などに煽られてヨットも結構転覆する。転覆した場合には、岸がすぐ近くに見えても絶対に泳ぎ出さず、ヨットにしがみ付いていることが鉄則と教えられた。ヨットは僚船2隻が協力して湖上で元に戻し再び帆走し始めることができる。

(元住友銀行専務取締役、元明光証券代表取締役会長)

(2017年5月発行、東証ペンクラブ発行「Pen 2017」p15~23所収)





 

 

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