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薔薇戦争(The Wars of Roses)~英国切手の魅力シリーズ67~



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 薔薇戦争は1455年から1485年にかけて激戦が展開された英国史上最長の内戦であった。この内戦は一般市民の日常生活にほとんど影響を与えなかったと言われているが、ヨーク朝とランカスター朝を創立して対立した両家の指導者にとっては壊滅的なものであった。

 薔薇戦争の名称は、ヨーク派が白ばら、ランカスター派が赤ばらを記章としたことに因む。内乱の遠因は、ランカスター朝ヘンリー6世の政府が弱体で、武装家臣団を抱える大貴族に、法と秩序を無視する不穏な動きが強まっていたことにある。これらの大貴族は、ヘンリー6世を支持するサマーセット公と、ヨーク公リチャードが率いる反国王派とに分かれ対立していたが、53年に国王が精神異常をきたしたため、ヨーク公が摂政になった。

 しかし、同年秋に王妃が男児を出産し、王の病も翌年平癒したことから、野心ある王妃マーガレットはサマーセット公を摂政に任じた。これがヨーク公決起の因となり、戦端が開かれた。55年5月、セント・オルバンズの戦いで王は捕らえられ、ヨーク派が権力を奪ったのも束の間、翌年王妃の反撃を受けて敗れ、ヨーク公と甥のウォーリック伯はフランスに亡命した。60年、同伯の活躍により帰国したヨーク公は王位を宣言したが、王妃の反抗に遭って敗死する。

 翌61年、ヨーク公の子・エドワードが再起し、王妃を撃破してエドワード4世となり、ヨーク朝を創始した。ウォーリック伯は、エドワード4世に対し、大陸に亡命中の先王の妃マーガレットと手を組んで反乱を起こすが、71年バーネットの戦、ついでチュークスベリーの戦いでエドワード4世が決定的勝利を収めた。

 83年、王位が幼王エドワード5世に移ると、伯父のグロスター公が王を謀殺してリチャード3世を宣した。やがてランカスター派ただ1人の王位継承権者ヘンリー(チューダー家)が亡命先から帰国して1485年のボズワースの戦いでリチャードを倒し、新王ヘンリー7世はチューダー朝を開き、両王家の内乱は終結した。

 2021年5月に発行された8葉の切手は、1471年のBarnet and Tewkesburyでの戦闘から550周年に当たるのを機に、この前後に戦われた8つの戦闘の模様を、現代のデザイナー・グラハム・ターナーが再現して図案化したものである。

 奇しくも、ほぼ同時期に、日本でも室町幕府8代将軍、足利義政の後継者争いを発端として、全国の守護大名が2つに分かれて争った応仁の乱が1467に始まり、11年間続いて、京都の大半は焼け野原となった。もっとも、日本では、応仁の乱が切手になることはまず考えられない。








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