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4 満州難民──恐怖の新京空襲から難民へ


 私が新京市に移ったのは十一歳の時で、一九四五年(昭和二十年)四月中旬に新京・東光小学校五年生に編入学した。

 本来ならもっと早く日本を離れる予定であったが、三月十三、十四日の米軍による大阪大空襲で出発が遅れてしまった。初めての大阪大空襲で京都の空のほうまでが真っ黒な煙に覆われた光景は今も鮮明に覚えている。大阪に住んでいた祖父一家も、この空襲で焼け出されてしまった。

 出発はやや遅れたものの、新京での新学期に間に合うように下関へ急ぎ、釜山行きの関釜連絡船に乗り込んだ。釜山まで七時間半。関門海峡にはすでに米軍の潜水艦が出没しているとの情報もあり、不安の絶えない行程であった。事実、関釜連絡船十隻のうち、終戦時には四隻しか残っていなかった。

 そうした危険を伴う移動ではあったが、空襲の絶え間がない内地よりも満州のほうが、まだしも安全だろうと両親は判断したようである。

 釜山から新京市までは、九百四十七・二キロメートル。下関・横浜間くらいの距離を列車で二十一時間かけて旅した。

 朝鮮総督府鉄道と南満州鉄道が共同運行していた直行便列車「ひかり号」での旅は快適で、同じ頃に学童疎開しているはずの内地の友人たちのことを忘れさせてくれた。

 新京駅に到着すると、四頭立ての馬車が出迎えてくれたのには驚いた。父の親友で満州国高官として赴任していた鶴氏の手配によるものであった。

 新京での住まいは、建国大学近くの官舎が予定されていた。ところが、官舎の完成が遅れていたため、東安街(現・岳陽街)にあった父の同僚、内海庫一郎先生(帰国後、北海道大学教授)宅の二階に居候することになった。近くには景色の美しい南湖や原生林があり、探検ごっこをしたりして遊んだ。二〇〇九年(平成二十一年)に再訪した時には、街並みがすっかり変わってしまっていたが、原生林はその面影を留めたまま動植物公園として整備されているのを見て、感無量であった。

 東光小学校の生活は、内地とは違い空襲もない穏やかで静かな日々であった。満語を学ぶなど勉学に打ち込むことができた。


18081623-450701新京・東光小学校5年の写真.jpg

 この落ち着いた日々は、短期間で終わってしまう。

 私たちが新京に着いて、わずか一カ月後の五月に父が国民兵として応召されたことは先に記した。

 大異変は、一九四五年(昭和二十年)八月九日未明に始まった。

 ソ連軍が日ソ中立条約を破棄して突然、満州国境を越えて侵攻してきたのだ。以後、満州在住の日本人にとっては忘れがたい恐怖の日々が続くことになる。

 十日午前一時頃には、ソ連空軍による新京空襲が始まった。ソ連軍がさく裂させた照明弾の閃光で深夜の空が一晩中明るかったことを鮮明に覚えている。新京には防空壕の備えもほとんどなく、まったく無防備なありさまのなかで恐ろしい夜を過ごした。

 ソ連軍が新京に迫るなか、日本人社会は組織ごとに南方へ避難する計画が練られた。私たち建国大学の教職員と家族百十九人の一団が新京を出発できたのは、十三日午後であった。この時点では客車や有蓋貨車は全て出払っており、私たちは屋根のない無蓋の貨車に身動きもできない、まさにすし詰め状態に押し込まれた。

 この時の情景を詠んだ母の句が残されている。

     トンネルの灼熱地獄無蓋貨車

 まさに灼熱地獄であった。真夏の焼けつくような日差しを受け続けたうえに、臨時列車が殺到し、長時間停車することも多かった。

 それでも、夜を徹して南下を続け、二日後の十五日昼前に北朝鮮の宣川にようやく到着することができた。

 宣川で降ろされた途端、天皇陛下の玉音放送を聞くため、小学校の校庭に集められ日本の敗戦を知った。

 難民としての集団生活が、ここから始まった。

 母は当時七十七歳の祖母と十一歳の私を頭に三人の子供を連れての逃避行であった。荷物もほとんど持てないなかで、余分とは思いながらも食卓塩とくぎ抜き付きのかなづちと電球一個を荷物に加えた。この三つの品が宣川で大変役に立ち、思いがけず疎開団の皆さんに喜ばれたと、後日、朝日新聞の「ひととき」欄に投稿したエッセーで述懐している。

 もう一つ、母の句を紹介しておこう。

     疎開貨車降りて捕虜たり敗戦日


18081623-090824建国大学同窓会・長春旧王宮前での記念写真.jpg








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