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32 医療経済研究機構──医療経済学会を設立 


 私が広島国際大学教授となった一九九八年(平成十年)十月、母・伊佐が父と同じ八十六歳で亡くなった。亡くなる直前まで俳句を生きがいとして、毎月投句を欠かさなかったことはすでに書いた。 

 その翌年のお彼岸の中日、三月二十一日の昼前、紅葉の名所として有名な京都洛北の圓光寺境内にご住職の俳句詠唱が朗々と響き渡るなか、長男のところの孫二人が除幕の紐を引いた。母の没後、兄妹三人で相談して、形見代わりに句碑建立を思い立ち、この日の除幕法要に漕ぎ着けたのである。句碑には、もみじの名刹に相応しい

     日おもてに空を透かせて冬もみぢ  伊佐

 と刻んでもらった。石碑の原石は瀬戸大橋の西側に浮かぶ広島という小島で選りすぐって求めた青御影石の銘石である。表面は風化して茶色がかっているが、五センチほど削ると黒光りした岩肌が現れる。高さは二メートル余り、形も槍ヶ岳に似て、背景の緑濃い孟宗竹にもよく調和して美しい。当初の予想とはかけ離れた立派なものができ上がり驚いた。石碑の題字は高名な書家にお願いし、腕利きの石匠・山本清一さんの手で彫ってもらった。

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 東京と広島を往復する日々を暮らすなか、二〇〇一年(平成十三年)四月にとんでもない話が舞い込んできた。厚生労働省のシンクタンク・医療経済研究機構から「医療サービス市場の勝者」をテーマに講演を依頼された。これだけなら、問題はなかったのだが、これが契機となって定年を迎える上條俊昭専務理事の後任に就任するよう要請されたのである。

 厚生省の事務次官から研究機構に転じて研究事業を統括しておられた幸田正孝さんの目に留まったのである。医療経済の研究に興味がありマネジメントにも通じている人材は少ないので、何としても兼務の形で引き受けてほしいと懇請された。しかも、幸田さんの後任次官であった洛北高校の一年先輩で親しくしていた坂本龍彦さんを通じて説得された。

 フルタイムで働いていた広島国際大学に加えて、研究機構の顔ともいうべき専務理事就任は「まったく考えられないこと」と思ったが、大学のほうも厚労省との関係に配慮して兼務を認めてくれたので、思い切って引き受けた。月曜日午前中に機構の会議に出席、その足で羽田空港に向かい、午後は広島。水曜日か木曜日に戻ってくるというような厳しいスケジュールが大学教授を辞めるまでの四年間続いた。我ながら「よくやったものだ」と、感心せざるを得ない。 

 専務理事就任の挨拶のなかで、当機構の使命はわが国における医療経済研究の一大拠点として、①保健・医療のみならず、介護や福祉をも含むヘルスケア政策全般に関する実証的研究を行なうこと、②その基盤となる医療・介護システムおよび資金の流れについて情報を広く収集して、データベースを構築・整備するとともに、OECD諸国との国際比較研究を行なうことを強調している。

 機構での仕事のなかで印象に残っているのは「医療経済学会」の設立である。医療経済の研究は医学部と経済学部の双方で別の手法でのアプローチが行なわれ、医系と経済系は、それまで水と油のように混ざり合わないため、学会が存在しなかった。だが、この分野の重要性はいや増すばかりであったので、お世話になっていた西村周三京都大学経済学部教授に働き掛け、機構が医療経済学会の創設に仲介役として奔走し、事務局機能も引き受けて学会発足に漕ぎ着けた。

 もう一つは、優秀な研究部長が見つからず、公募をしても適任者がなかった。そうしたなかで、印南一路慶應大学教授から兼任でもよければ引き受けるとオファーされたので即決したことである。週三日以上常勤という募集条件には適合しなかったものの、経歴、業績面から最適と判断できたのは、私自身の専務理事就任の体験が役に立ったからである。

 公益財団法人改革に伴い、二〇一一年(平成二十三年)四月からは法人の名称が「一般財団法人 医療経済研究・社会保険福祉協会 医療経済研究機構」に変わり、私の肩書も副所長となり、結局、二〇一三年(平成二十五年)六月まで十二年間もの間、同機構の運営に関わることになった。

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 私の履歴書も最終章になってしまった。最後に私のホームページ(HP)のことに触れておきたい。

 教育界への転身を人生の一区切りとして振り返り、在勤中に書いた論説や趣味のエッセーなどをとりまとめて『岡部陽二・著作集~1998 一国際金融人の軌跡』を自費出版した。このコンテンツをインターネットでも公開したいと次男の徹に漏らしたところ、一九九七年(平成九年)八月、私の六十三歳の誕生祝いに、「岡部家のホームページ」として開設してくれたものが始まりである。


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 ところが、このHPは私自身では操作できなかったため、アップロードやアフターケアが滞っていた。そこで、二〇〇七年(平成十九年)八月の七十三歳の誕生日を機に、ノーブルウェブ社に委託して新しく「岡部陽二のホームページ」を立ち上げた。このHPは「ジャンル別目次」と「作成日順目次」で検索できるようにしてある。収録したコンテンツの数が二〇一七年(平成二十九年)末までに五百四十六点と二十年間で著作集収録の八倍近くに増えたのには、我ながら驚いている。

 作成日順では私の十七歳の時の作品が一番古い。「ジャンル別」の最下段には「亡き両親のHP」を収蔵しているのが自慢である。この自分史も順次このHPに収録し、私の没後三十年間は公開し続ける算段を考えている昨今である。ぜひご覧頂きたい。

 銀行勤務三十六年のうち、十三年半を英国ロンドンで過ごした。時あたかも、金融ビッグバンと民営化を柱とするサッチャー改革やベルリンの壁崩壊に始まる東西冷戦の終結、EU統合の進展を背景とした政治経済の転換期であった。その時期に、ロンドンに駐在して欧州のみならず、中東からアフリカまでをカバー、国際金融の真髄を垣間見ることもでき、得がたい経験を積むことができた。

 銀行退職後に、思いがけず大学教授として医療経営論などを担当、それまでの経験とはまったく分野の異なる医療経済・経営の教育・研究を二十年近く手掛けることになった。まさに人生を二倍に生きることができたのは、還暦の頃には予想だにし得なかったことであり、望外の幸せであった。

 二〇一七年(平成二十九年)九月十日に長女の長男・陸が慶應大学出身の医師・大岡令奈と結婚式を挙げた。六人の孫の先陣を切ってくれて喜んでいる。


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