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思想弾圧時代の大学・学生   岡部 利良

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   私は、昭和四年から七年にかけての三年間本学の経済学部で学んだ。(もっとも、後述するような事情から三年四ヵ月在籍させられた。)この私が京都大学に学んだ前後のころは、わが国の歴史のうえでも例をみないような思想弾圧の時代であった。またこのようなことから学生生活という点でも種々の異常な経験をさせられてきたが、ここではそれらの断片でもしるし、本学(京大)の歴史の一ページにでもしてもらえればと思い、あえてこの一文のようなもののペンをとった。

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   まずこの一文に直接かかわことであるので、当時の状況についてごく簡単にでも多少触れておくと――じつはわが国における思想弾圧の歴史(ただしとくにマルクス主義・社会主義思想に対するもの)のうちでも大正末年から昭和初期にかけてのものは(それはさらに敗戦までっづく)とくに異常なものであった。ことにこの時期には、やがて強行される戦争の前夜を象徴するように、まず大正十四年に稀代の悪法といわれた社会主義・共産主義の弾圧を主眼とした治安維持法が制定されたのをはじめ、つぎのような種々の事件が相ついで惹起せしめられた。

   まず翌大正十五年には当時の京大社会科学研究会(なおこの社会科学研究会というのは、以下にいう同名のものを含め、いずれもマルクス主義の研究を主体としていたもので、略称、社研ともいわれていた)の会員を中心とする日本学生社会科学連合会に所属の学生(ただしごく一部卒業生なども含む)三八名が右の治安維持法違反に問われ――しかも同維持法適用の第一号事件として起訴され、判決の結果は無罪三名を除き、全員に近い三五名はすべて有罪とされた。(なお本件は京都学連事件、京大学生事件などとよばれてきた。)さらに昭和三年には三・一五事件として知られている共産党関係者の一犬検挙事件があった。またこの同じ年にはやはり上記のごとき治安維持法にかかわる思想問題にからんで、京大では河上肇博上が辞職を余儀なくされ、また東大では大森義太郎氏、九大では向坂逸郎氏ら三名の教授がいずれ大学を追われた。さらに昭和四年の春には、当時いわゆる無産政党として存在していて同年の前年に解散を命ぜられた旧労働農民党(共産党指導下にあった革新政党)の唯一の代議士として活動していた、京都府選出の山本宣治氏が議会開会中に止宿先の東京神田の旅館で七生義団と称する右翼団体の一員に刺殺されるというじつに生々しい事件があった。そして治安維持法をはじめ、以上のような諸事件は、私の(あるいはわれわれの)胸底に消しがたい刻印のようなものとして残され、そこで生きつづけてきた。

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   さて、前述のような諸事件のうちでも、ことに河上博士の辞職事件は、おそらく容易に想像していただけるように、その後(ことにその直後)京大経済学部に学んだわれわれにとってはまさにそのままかかわるものであった。博士は辞職当時同経済学部教授として経済原論と経済学史を担当され、ことに前者の原論ではマルクス主義経済学を講じておられた。ところが博士の辞職を契機として、学問の府である大学においてさえマルクス主義経済学の講義は御法度とされた。また現に事実として、博士の後任ことに原論担当者として当の京大に赴任してこられたのは当時九州大学の教授であった近代経済学者の高田保馬博士であった。そしてこのようにして、大学にまで波及せしめられた思想の弾圧=学問の自由の剥奪は文字どおりわれわれの眼前で展開されていったのである。またそこにI一見明瞭にみられたのは、およそその本来の使命からいわば「無抵抗的」にかけ離れていった当時の大学というものの姿であった。(ちなみに、当時は「大学の転落」ということがしきりにいわれていた。)

   しかし私はかねてからマルクス主義に関心をもち、ことに経済学部の学生としてマルクス主義経済学は一通りでもぜひ学んでおく必要があると思っていたので、大学で教えてくれなければ自分で(あるいは自分たちで)と思い、例の「資本論」、その他を教本として―一時に難解に悩まされながらも――勉学に努めてきた。いねば「自学独習」の道をとってきたのである。

   ところで、当時京大にきてまず驚いたことの一つは――高等学校(もちろん旧制、以下回様)当時には全然経験しなかったことであるが――大学の構内を私服(私服の刑事)がたえずウロウロと歩き回っていたことである。(彼らの姿をみると、あれが私服だよ、といって上級生か教えてくれた。)またこのようなことから、当時学生はまるで警察の監視の下におかれていたというような状態であった。(彼らは学生を装い教室に紛れ込んで教授たちの講義の内容まで調べていたともいわれていた。) しかしこのような不法きわまる状況も大学では放置したままにされていた。

   上にふれた私がマルクス主義に関心をもってきたのは高等学校当時から――当時の高等学校には大抵のところにあったもので――私の学んだ高等学校(金沢の四高)にも同じようにあったいわゆる非合法の社会科学研究会に参加していたので、京大にくると、早速、当時やはりすでに非合法化されていた(なお京大の場合におけるこの非合法化というのは前記の河上博士の辞職事件を契機としてなされたものであった)社会科学研究会に入り、研究会活動をしてきた。この研究会活動というのは、各学部にわたる会員が何班にも分かれてそれぞれ研究会(読書会ともいわれていた)をもち、一種の共同研究を主体としていたものであったが、このような研究会での研究は、じつはわれわれ会員にとっては、当時の大学における学生生活の、ことに勉学上におけるまさに重要な一班を成してきたものであった。(ただし、この記述にみるような京大社研は昭和四年末には解体され再編成された。) 

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   以上に記述のような大学の状熊での学生生活を送っていた折、じつは私にとっては全く思いもかけない、しかもまさに「事件」というべきことが起こった。―一一回生の三学期(昭和五年)三月のことである。たまたま当時やはり京大に在学中の高等学校当時の友人A君が下宿で肺炎で寝ていると聞いたので見舞いに行った。ところがすぐあとで分かったことであるが、この私がA君を見舞いに行ったときは、同君が――共産党の地下活動をしていたというかどで――下宿で警察に逮捕された直後のことで、そのため警察では同君に仲間の誰かが連絡にでも来るのではないかというようなことから同君の下宿に侍機していたのである。しかしこのようなこととはもちろん露知るよしもない私はノコノコと出掛けて行ったのであり、その時、時刻はすでに夕方であったが、私が友人の下宿の入口の戸を開けると、そこには三人ばかりの私服が屯しており、私の両手首には一瞬の間に手錠がはめられていた。

   それからすぐ、京大もその管轄下にある川端警察署に連行され、そこで三、四人の私服が私を取り囲み、有無をいわさぬといった態度で私に対する追及がはじめられた。じつは当時京大社研会員の相当数の者はいわゆる実際運動ことに共産党の地下活動に携っており、(A君もその一人であったことは、私には上記のように同君を訪ねた事後に分かったことである)、しかし私はみずから考えるところがあり、実際運動なるものには全然かかわっていなかった。したがって、彼らが私から聞き出そうとしたに対して私としては何一つ答えうるものはなく、知らないというか、ただ黙っているほかなかった。しかし私がこのような態度をとっていると、彼らには私が何か人一倍不敵な者のようにみえたようで、追及はますますはげしさを加えた。私はその時生まれてはじめて拷問というものの洗礼を受け、普通には考えられないような相当ひどい仕打ちをされた。そしてこのような状態の下におよそ三、四時間も彼らにさいなまれ、ついには前後不覚のような状態になった。そして当日はこのような状態のまま夜おそく留置場(いわゆるブタ箱}に放り込まれた。その後さらにしばらくの間は当の拷問によるからだの痛みに堪えながらなお留置場生活ををさせられ、逮捕されてから約一か月半後にようやく釈放された。

   この釈放されたとき、世の中が何か一瞬ひどく明るくなったようにさえ思えたが、このような気持の変化はやがてすぐに消え、その反面私の心中に固いしこりのようになっていったのは上記のような彼ら(むしろ奴ら――あえてこういう)下手人どもによる所行である。そしてその非道さを思うにつけ、私の国家権力・警察権力に対する怒りは文字どおり炎のように燃えた。

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   しかし上に記したような私が警察に逮捕された件は、当時このことだけで済まなかった。やがて大学から呼び出され、出頭したところ、学生課長(職名?)からいきなり大学の決定ということで、四ヵ月間の休学届を提出せよ、この指示に従わなければ停学四ヵ月に処すると申し渡された。(なお私はこの上のような大学の決定を形式的休学=実質的停学処分とよんできた。)この申し渡された大学の決定なるものは、じつは上記のような私か警察に逮捕されたことに直接かかわるものであったことは容易に想像されたことであったが、大学ではなぜかこの私か警察に逮捕されたことについてはそれほどふれなかった。私か上に記したような大学の決定について理由をただすと、君たちは大体学生の本分を守っていないじゃないか、というようなまるでつかみどころのないようなことをいうにとどまり、ことにこの学生の本分うんぬんといわれたことについてそれに当る事実を幾らただしても(また私の方から反証をあげて執拗に反論もしたが)何一つとして答えてくれたものはなかった。しかしそれにしても、上記のような休学の命令、それに従わなければ停学処分といった大学の決定はそもそもどのようなことからなされたものであったのか。そこにはあるいは「死一等を減ずる」式の考慮があったのかも知れないが、いずれにしてもこのみられるような学生処分の仕方は京大でもおそらく前後に例のないものといえるだろうと思う。

   しかしこのことはそれとし、上に記したような理由らしい理由など何一つ示さない大学の学生処分の仕方は、世間流にいえばまさに「無茶苦茶」とさえいってしかるべきものであり、またこれでは当の処分の仕方自体、とうてい問題になどなりうるものでないので、当日は私の方で席を蹴って帰っていった。

   その後さらに二、三回出掛けて折衝したが、予想されたことではあったけれど、事態に何一つ変化はみられず、そこで私としては、当時休学届の提出期限とされていた七月末ギリギリyになってやむなく大学が指示したとおりの期間四ヵ月間の休学届を提出した。ところがこの休学届を提出するに当りまた一悶着起こった。私はこの休宇届提出の理由として大学で休学届を出せというからと書いたところ、これでは駄目だといわれ、種々争った結果、結局、提出した休学届には休学の理由を「一身上の都合」というようにさせられた。要するに「虚偽」をしいられたわけであるが、じつはこのような点にも当時の大学というものののわれわれの理解を越えた在り方がよく示されていたといえるだろうと思う。ちなみに、冒頭にふれた、私の京大における在籍期間三年四ヵ月というのは上記のような事情によるものである。(なお、ここでくわしく説明する余裕はないが、前記の私か警察に逮捕された昭和五年には二月はじめからおよそ半年にわたり、全国各地でやはり共産党関係者(ないし同被疑者)の検挙が相つぎ、その被検挙者総数は合計約一、五〇〇名にも上ったが、そのうち京都関係の被検挙者は――当時の文部省学生課」の「学生思想事件一覧」第一輯によると――京大、三高、同志社大学、京都府立医大、龍谷大学、同志社高専、同女専などの学生、その他で合計一五四名、うち京大生け六一名、さらにこの京大生の内訳として、起訴されたもの八名、起訴猶予三三名、釈放二〇名というように記されている。(なおこのようなこの時の検挙で検挙された京都関係の被検挙者の場合のものは「京都学生共産党事件」とよばれていた。)そして右の京大生のうち、起訴された以外の少すなくとも相当数の者は、当時大学よりすべてそれぞれ個別的に呼び出され、前述の私の場合と大体同様の処分を受けたはずである。私はそのいちいちについて確認しえていないが、当時の状況からみて大体このようにいって間違いないはずである。)

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   ところで、前述のような私が大学から受けた処分はどのような理由によるものであったのか、ということは、じつは私にとっては処分を申し渡された直後から心の一隅にいわば一種の疑念としてずっと残されており、そこで私は、こうしたこの疑念を、戦後京大(経済学部)に勤務しうるようになったさい、できればぜひ晴らしてみたいと思い、前述の私か処分された当時の関係書類をみせてもらうよう大学本部の関係者に依頼したところ、返ってきた返事は、敗戦以前の学生の思想関係に関する書類は敗戦直後すべて焼却してしまい何一つ残っていないという、私を全く失望させるようなことであった。しかしいずれにしてもこのみられるような大学の行為は、大学として学生を思想上の問題から処分してきた当の事実についていえば、それらを少なくとも記録の上からは抹殺し、そして大学によるかかるこの学生の処分という事実はあたかもなんら無かったものとすることを意味するものである。しかしこれでは、大学において少なくとも一つの(時には大きな)流れを成してきた学生運動ことに学生の思想上の活動にかかわるものとして大学の行ってきた学生の処分という問題の事実についてはとうていまともな歴史などは書けない。それはいずれにしても歪められたものとなってしまうことを免れない。

   もっとも、この記述のような状況がもたらされていることについては、大学には「国家の大学」としてそれぞれ理由があったにせよ、それがどのようなものであったにしても、それによって大学の行ってきた行為そのものまでが無くなってしまうわけでは断じてない。それは、どこまでも、まぎれもない歴史としての事実としてその存在を主張しつづけるであろう。またこれがことの論理である。

 

おかべ としよし

明治38年4月7日生まれ、昭和7年 京都帝国大学経済学部卒、東洋経済新報記者、京都大学大学院を経て、19年 建国大学助教授、20年 兵役、23年 京

都大学助教授、27年 教授、38年 経済学部長、44年 名誉教授、龍谷大学教授(経営学部)、同経営学部長、61年 退職

日本学術会議会員・京都地労委会長などを歴任、経済学博士 専攻 会計学

著書「勤労者のための会計学」ほか

 

(昭和63810日、京都大学創立九十周年記念協力出版委員会編「京大史記」p356358所収)

 

 

 

 

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