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インベストメント・バンカー事始め 岡部陽二

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インベストメント・バンカー事始め. Pen・2023年5月号 pdf

 今年は渋沢栄一が日本最初の銀行を設立してから、今年は150年目に当たる。銀行は1980年代までは、家計から集めた預金を企業に融資して利ザヤを稼ぐことができ、この融資機能が戦後の日本経済高度成長を支えた。

 当時とは真逆に、昨今では、この融資機能の没落が著しい。最盛期の1991年に日本の銀行が融資先企業から受け取った利子収入は38兆円であったが、昨年は7兆円に激減、銀行は預貸金業務だけでは成り立たなくなっている。今や銀行の目指すべき方向は「融資から投資」「預金から運用」へと180度転換したのである。

 この預貸金銀行業務から投資銀行業務への転換は、今世紀に入って始まったものではなく、1970年代から、その方向へ向かって舵を切る展開が試みられてきた。

 それは、当時から銀行に対する業務規制がきわめて厳しく、大銀行にとっても既存の預貸金業の拡大はままならなかったからである。貸金の枠は厳しく抑えられ、店舗の増設も規制されていた。証券業務への展開も、米国のグラス・スティーガル法に倣った証券取引法65条で禁止されていた。

 これを打破するには、当時から規制の存在しないユーロ市場への進出と国内での新規業務の開発に力を入れるしかなかった。この事情は強大な米国の商業銀行にも共通しており、彼らも厳しい米国内での規制から脱して、国際市場での投資銀行業務やクレジット・カード業務などに急傾斜していた。

 筆者が1957年に住友銀行に就職した時には、このような事情は露も知らなかった。銀行には商業銀行に加えて、リテール主体の証券会社ではない証券引受販売やディーリング、巨大な資産運用、M&Aの斡旋などを専門とする投資銀行(インベストメント・バンク)の世界があることは夢想もしなかった。

 ところが、結果的には、入行4年目に外国部に転勤して以来、40年間に及ぶ銀行勤務の大半を、この預貸金業務から投資銀行業務への転換に関わり、規制撤廃へ向けての当局や異業種との絶えざる戦いに終始した。

 この間に国内外で経験したインベストメント・バンキングへの転換へ向けての努力の一端を老兵の懐旧談としてご紹介したい。



1、内・外型M&A(合併・買収)業務への本格参入

 住友銀行は1973年4月に国際金融部を新設、この部の次長を拝命した。この新しい部は、当時拡大し始めた国際シンジケート・ローン、船舶金融と証券関連業務、M&Aの斡旋業務を手掛ける4班から成っていた。

 当時から当行のみならず他行も、いわゆる内・外型のM&A斡旋を手掛け始めていた。この動きに対し、大蔵省銀行局は、銀行は預貸金業務に専念すべきで、M&A斡旋は付随サービスとしては黙認するが、手数料収益を目的とした本業としては認めないという対応であった。

 このため、銀行はM&Aの手数料は表立っては受け取らず、預金積み増しの協力や貸金金利の調整で収益を得ていた。

 しかしながら、住友銀行は、これを本業として推進し、「M&A手数料」を堂々と受取るべきと考え、当局との折衝を重ねた。これが実現した第一号の案件が、当行が手掛けた松下電器産業(現パナソニック)のスペイン企業買収案件であったものと思っている。

 当時、スペインでは厳しい外資規制が課されており、日本企業100%出資の生産拠点への投資は認められていなかった。ただ、この抜け道として、既存の企業を買収する場合には100%の株式取得も可能であった。

 そこで、当行が参加していた多国籍銀行のソシエテ・フィナンシエール・ヨーロピエーヌ(SFE)のメンバー行であったバンク・オブ・アメリカから持ち込まれたスペイン・バルセロナ所在の家電メーカーであるアングロ社(従業員数:500名)の売却案件を松下電器に提案した。このM&A案件は、とんとん拍子に話が進んで、成約した。

 1973年9月に10億ペセタでの買収契約に調印、松下電器もM&A手数料を支払いたいとの意向が強かったので、当局と折衝して手数料としての収益計上が認められた。

 内・-外型M&Aによる日本企業の海外進出はその後急増し、昨年には対外投資から得られた投資収益が年間50兆円を超えている。



2、FRCD(金利変動型CD)の開発~シティーの懐深さと恐ろしさを痛感

 1976年8月に住友ホワイト・ウェルド(株)の社長として、ロンドンへ赴任した。同社はユーロ市場でのインベストメント・バンキング推進を目的として1973年に、住友銀行とホワイト・ウェルド社50%ずつ出資の合弁でロンドンに設立され、ユーロ債の引受・販売とディーリング業務を手掛けていた。ホワイト・ウェルド社は、米国の大手投資銀行で、ユーロ市場の雄であった。

 外資との対等合弁は、当局の指導によるものであったが、このような業務を対等合弁で経営するのは困難であることが判明、筆者の赴任1年後には、当行の全額出資が認められて、合弁を解消し、住友ファイナンス・インターナショナル(SFI)と改名した。

 SFIの本業はユーロ債の引受・販売であったが、筆者はロンドン赴任前から「FRCD(変動利付CD)の開発」という構想を温めていた。銀行は5~10年にわたる長期の金利変動型シンジケートローンの資金をユーロ市場からの短期預金で賄っていたが、この長短ミスマッチのリスクを低減させるには、変動金利での長期資金の調達手段が必要であったからである。

 FRCDは、金利が変動する期間3~5年の譲渡性定期預金のことである。CDは日本では指名債権で自由に譲渡できないが、米国やユーロ市場では証券化して市場で転々流通する金融商品に進化していた。ただ、CDの金利は固定のみで、変動金利型は存在していなかった。

 筆者は、当行を訪ねて来た欧米の投資銀行に、このFRCDの引受を打診してきたが、常に「Floating Note(変動利付社債)なら発行できるが、Floating CDは不可」というにべもない回答を得ていた。Noteでは発行コストが高過ぎてペイしないので、「それであれば、自分自身でFRCDを開発するしかない」と腹を括っていた。「住友銀行のためだけではなく、すべての銀行のためにやる」という、使命感のようなものに燃えていたのである。

 構想はよかったが、それを実現するには英国金融当局との折衝が大変であった。「スレッドニードル街の老婦人」とも言われる誉れ高きイングランド銀行に何回通ったことか。シティーではまったく無名のSFIであたが、足繁く通ううちにイングランド銀行もFRCDの必要性に次第に耳を傾けてくれるようになった。

 そこで、法廷弁護士とも契約してイングランド銀行や英国法務院に出向き、CDの有価証券性にお墨付きを得ることができた。日銀ロンドン事務所長にもバックアップをお願いした。そうしたさまざまな働き掛けの結果、イングランド銀行から「需要があり、市場が認めれば、FRCDを発行してもよい」との承認を得ることができたのである。

 このFRCD開発の快挙は、1977年4月25日付けロンドン・タイムズ紙の1面中央に「Sumitomo Pioneer Floating CD」と、大きく報じられた。

 SFIはこの第1号FRCDのローンチ(売出の開始)を4月24日の朝一番に行なったが、何とその日の夕方にはホワイトウェルドが第一勧業銀行のFRCDをローンチした。しかも、同日に発行したので、やはり第1号であると主張したのである。SFIはホワイトウェルドとの合弁を解消したばかりで、同社から出向していた2名の英国人役員はこの計画を知悉していたので、情報窃取ではないものの、生き馬の目を抜くような資本市場の恐ろしさを実感した。



3、第1号金利スワップ債の発行~デリバティブ市場の幕開け 

 1980年11月に国際投融資部長に就任した。この部では、主にプロジェクト・ファイナンスと新規金融商品の開発に注力した。

 新商品開発の第1号として、1982年7月に住友銀行は邦銀としては初の金利スワップ債1億ドルを発行した。シンジケート・ローン残高を増やしてきた銀行は、さきに述べたFRCDによる資金調達だけでは足りず、別途の変動金利での長期資金の調達手段を探していた。その矢先に、ゴールドマン・サックスやソロモン・ブラザースといった欧米の投資銀行が「金利スワップ」という元本はそのままで、金利のみを固定から変動型に交換するという新しい手法を考案した。早速、その恩恵を享受すべく、外債発行と組み合わせて金利スワップ契約を締結したのである。

「金利スワップ」とは、固定金利建てのユーロ外債の発行者が、その債務を固定金利での借入を必要とする借入人に提供する一方、その借入人が有する変動金利建ての資金を譲受けるという契約で、まさにウイン・ウインの相互補完を実現した取引と言える。

 ところが、この金利スワップという「金利のみを交換する」いう新しい概念をいくら当局に説明しても、「元本と金利は一体であって、それを切り離すことは認められない」として、理解を得られなかった。やむを得ず、第1号案件では、元本とともに固定金利建て資金を一旦香港へ送金をして、変動金利建てで送り返したが、2回目からは何とか理解を得ることが叶った。

 金利スワップに次いで、IBM社がドイツマルク債を発行して調達した資金を、米ドルを必要とする世界銀行にドル建てに転換して提供するといった「為替スワップ」が出現、次いで株価や商品相場、さらには信用リスクなどを交換する数多くの金融派生商品が編み出された。

 これらの金融派生商品は「デリバティブ」と総称された。デリバティブはお金にお金を稼がせるように複雑に設計されていて、専門家以外の一般の投資家には複雑過ぎてなかなか理解できない。お金にお金を稼がせる力が強いほど、その派生商品は「仕組み債」用などによく売れ、金融市場はカジノ化した。金利スワップを嚆矢として急膨張した「デリバティブ」の名目元本残高は、1998年には60兆ドルほどであったが、年々肥大化して、2008年には615兆ドル(約7京円)と10年間で10倍に増えた。この肥大化したデリバティブ取引が、1998年に破綻したLTCMショックや2008年のリーマン・ショックを引き起こしたのである。

(元住友銀行 専務取締役、元明光証券 代表取締役会長、 元広島国際大学 教授)

(2023年5月1日発行、東証ペンクラブ機関紙 「[Pen 2023 55周年記念号」p78~82 所収)

















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